第一話
朝食を食べる前と学校から帰った夕方、飼い犬のチビを散歩させるのが絵坂リナの日課だ。
昨日の夕方は予報になかった雨が急に降ってきたので散歩には行かずにチビを家にいれた。そのせいか、今朝家を出るなりチビは白い息を吐きながら駆け足だ。
大雨だったせいで、川にかかる橋を越えて山側に進んだところの道路で車が複数スリップする事故が起きた。パトカーや救急車がいっぱい集まってきてちょっとした騒ぎだった。
リナは、サイレンの音を聞きつけて外へ様子を見に行ったおじいちゃんから事故のことを教えてもらった。けが人はいたが幸い死者はいなかったそうだ。
橋の向こうでは事故なんてなかったかのように昨日と変わらない光景だ。
そのことに安心しながら、リナは家のすぐ隣にある笠無神社へ向かった。雑木林に囲まれた白い鳥居をくぐる。
リナの家のすぐ隣にある笠無神社は、この雨巻町で二番目に古い神社だ。鎌倉時代のはじめ頃に建てられてからずっとリナの家族とリナたちの家がある坂東地区の人たちが中心になって守っている。
五年前までは今時珍しい茅葺屋根の神社だったが、維持管理費の問題でとうとう紫がかった赤いトタン屋根に変わってしまった。できあがったとき「安っぽくなってしまった」とおじいちゃんは不快そうだった。リナは安い高いというより、なぜだか全く違うものに変わってしまったかのように思えた。それでもこの神社はリナにとって幼い頃から慣れ親しんだ庭のようなものだ。
境内へ続く長い坂の両側にはすっかり葉の落ちたアジサイが植わっている。これは坂東地区の自治会の人たちが今から四十年ほど前に植えたアジサイだ。
梅雨の時期になると青や白の優しい色合いのアジサイが咲き誇り、雨の降る朝であってもチビとの散歩が楽しくなるのだ。
昨日の雨でまだぬかるんでいる坂を登っていくと、境内へ続く石段の下でどういうわけかチビが立ち止まった。そして『わんわん!』と知らない犬でもいるかのように社へ向かって激しく吠え始めた。
リナがチビのハーネスを引っ張ってみても、なかなか階段を登ろうとしない。
「どうしたの?」
石段を何段か上がって境内へ視線を向けると、草履をはいた人の足がみえた。
リナはつぶらな瞳を大きく見開いた。
――人が倒れている!
チビのハーネスの紐をまた強く引っ張ったが、チビは梃子でも動かない。
根負けしたリナは、あきらめて飼い犬をつないでいる紐の方を放り出した。
チビはずっと境内に向かって吠えている。大きなイノシシにでも遭遇してしまったかのように何かとても恐がっているようだった。こういうときのチビはきっと逆に逃げようとしない。
リナは石段を一段飛ばしで駆け上がって境内に着いた。
ちょうど入口にある南天の木とお社の間で、小柄な人がうつぶせに倒れていた。長い黒髪が石畳の上に広がっている。女の子が倒れているようだ。少女は、まるで習字の墨のように黒い着物を着ていた。
声をかけようとして、そこでリナはマスクをつけていないことに気付いた。家の中や家の周辺にいるときは彼女は感染を予防するそれをつけていないことが多い。
――今はしょうがない、緊急事態だもの。
「大丈夫?」
生真面目に片手で口をおおいながら、もう片方の手でリナが黒い着物に包まれた細い肩に触れようとした。
途端、倒れていた女の子は跳ねるように起き上がって大きく後ろへ飛びすさった。リナはあまりの勢いにびっくりしてその場に尻もちをついてしまった。
地面から起き上がったのは、女の子ではなく十三歳のリナと同い年ぐらいの少年だった。
意志の強そうな太い眉を寄せ、こちらを威嚇するかのように切れ長の瞳の端っこを大きく釣り上げている。その瞳の色は、山際に夕日が落ちる直前の高い空のように青みがかった黒だった。鼻は高く筋はすっと通り、肌は先月庭に積もった雪のように白く、血色のいい赤い唇はかたく引き結んでいる。眉間の深い皺さえなければ、凛々しい若武者のような少年だった。
歴史の教科書で見たことのある平安時代の人のような着物を着ているのもあいまって、リナはまるでSF映画のように過去から現代へ人がタイムスリップしてきたように思った。
少年は、親の敵にでも遭遇したかのように険しい表情を浮かべると、ボクシング選手のように腰を低くかがめ、胸の前で両の拳をにぎってかまえた。すっかり戦闘態勢だ。リナがちょっとでも動いたら彼はリナへ容赦なく殴りかかってきそうだった。
リナが尻もちをついたまま口をあんぐり開けていると、少年はふと視線を自分の腹に下ろしてなぜかとても驚いていた。
「……傷が治っている」
それからも何かを確かめるように体のあちこちを触った。
そしてはっとしたように顔をあげて、地面に座り込んでいるリナの二の腕を強くつかんできた。指がそのまま腕に埋め込まれそうなぐらい強い力だった。
リナは痛みのあまり大きく悲鳴を上げた。チビが少年に離れろとでも叫んでいるかのように階段の下でますます吠えた。
「そなた、まさか私のことが見えるのか?」
少年は信じられない、ありえないと言いたげだ。
「見えるけれど、いったいなんなの?」
すると、肩に深く食い込んでいた指から力が抜けた。少年はがっくりと地面に両手をついてその場にうなだれた。
長い髪で顔が隠れてしまって彼がどんな表情をしているかわからないが、リナに自分の姿を見られていることにそれはそれはショックを受けているようだった。
――自分で好きでそんな格好しているのに人に見られるのが嫌なの?
変なことを言う子だ、とリナは不審に思ったがはっと気付いた。
ひょっとしたら彼は役者さんで、リナに目撃されてしまったことで今撮影している時代劇の内容が外に漏れてしまうのを恐れているのかもしれない。今は情報が自分では思ってもいない所へ流れてしまう時代だから。
とあるSNSを利用している友達がピアノの演奏動画を掲載したら、勝手に別の投稿動画サイトへ転載された、と以前怒っていたのをリナは思い出した。
「もしかして、君は役者さん? この辺りで時代劇のロケをしているの? 大丈夫、ここで君のことを見たのは、他の人には言わないよ」
リナはまるで人馴れしていない動物に接するかのように優しい声で質問してみたところ、少年はますます眉間の皺を深くしリナを睨んできた。どうやら役者さんの機嫌をさらに損ねてしまったようだ。
プライドの高そうな芸能人にどう接したらいいんだろうと悩んでいると、さっきからずっと吠えっぱなしだったチビがぱたりと吠えるのをやめた。
「おーい」と張りのある低い声が、階段の下から聞こえた。
「チビが吠えているのが聞こえたけど、どうしたんだ?」
リナのおじいちゃんだった。
自分よりはるかに大きな犬が現れたときのように、チビはおじいちゃんを盾にするようにその後ろへさっと隠れた。
「おじいちゃん」
リナが地面から立ち上がると、少年も立ち上がった。彼はまだこちらを睨んでいる。リナを心から警戒しているようだ。
立ち上がったリナはあることに気付き、それどころではなくなった。
――まずい、ジャージが濡れたかも。
リナをはじめとして雨巻町に暮らす中学生は、感染拡大を防ぐために制服ではなくジャージ登校をしている。体育のとき、更衣室で密集しないようにするためだ。
ところがふしぎなことに境内は雨など降らなかったかのように乾いていた。だからリナは両手でお尻についた砂埃をはたけばよかった。
少年はリナから視線を外し、今やそのきつい眼差しをおじいちゃんに向けていた。まるで冷たい水をいきなりかけられた犬のような目つきだ。
おじいちゃんはリナの隣にいる少年に一瞬面食らったようだが、黒縁眼鏡の奥にあるつぶらな瞳で、じとっと少年を上から下まで観察した。それから苦手なすっぱい梅干しを食べたときのように白いひげに囲まれた顔を歪めた。
五十年前の車を直してほしいと町の偉い人から頼まれたとき、二年前にリナと下の弟の未来がチビとチビ以外の子犬を十匹連れてきたときと同じだ。
めんどうなことが起きた、と言いたそうだ。けれどリナと同じつぶらな瞳の奥は何かを期待しているかのように光っている。
「リナ、散歩へ行っておいで。朝ごはんはできているから。お父さんたちにはコーヒーを淹れてやって」
「ええでも」
「大丈夫、ここはおじいちゃんが何とかするから。あとおじいちゃんがいいって言うまで彼のことはお父さんたちには決して話さないように」
リナに有無を言わせない態度だった。
そういつもおじいちゃんは人からの頼まれごとや坂東地区の自治会で起きた厄介なことを何とかしてきた人だ。この少年もまたどうやら何か大きな、とてつもなく厄介な部類のようだった。
――時代劇の撮影のはずなのに、変なの。
おじいちゃんに言われた通り、リナは階段を降りてチビについている紐を拾い上げた。そして何ごともなかったかのように朝の散歩を再開した。けれど、チビが散歩していて神社の境内に入らなかったのはこの日が初めてだった。
後ろをちらりと振り返ると、二人はそのまま何か話しているようだった。二人ともマスクをつけていないのだからそれぐらい距離を離れていた方がいいだろう。
着物姿の少年は腕組みをして顎をそらしてとてもえらそうだ。役者さんどころかまるで自分の言うことを聞かないものはいない王様のように横柄な態度だった。
――そんな失礼な子なんて放っておけばいいのに。
けれどおじいちゃんはこれから彼から事情を聞いて、撮影場所か警察へ連れて行ってあげるのだろう。世話焼きだから。
リナは気を取り直してチビの散歩に集中することにした。
道路を渡って大きなサクランボの木と社務所の間を通って鳥居をくぐり、ゆるやかな長い坂をおりた。
左手にまだ花も葉もついていない梅の木々が並ぶ梅畑、右手に今は何も植えられていない休耕期の畑が途中に川を挟んで広がり、その終わりには低い山々が南北にゆるやかに連なっている。
神社の敷地に植えているサクランボの花が散って新葉がではじめたとき、この辺り一帯はそば畑になる。お盆の季節がすぎたときには一面に雪のように真っ白な花が咲いてそれはそれは見応えのある光景になるのだ。毎年シーズンになると、三脚スタンドを携え立派なカメラを抱えて撮影にくる人たちもいるぐらいだ。
道路沿いの狭い歩道を歩いていると休耕中の畑の間を割るように南から北へ流れる川に突き当たる。この川は三瀬川といって、南の霧降山から隣のかたす町へ長く流れていた。
コンクリートで舗装された川べりにススキがいたるところに生え、朝の冷たい風になびいている。
リナたちはかかっている橋を渡らず川沿いの舗装されていない道を通った。昨日の雨で濁って流れが速くなっている川の上を、頭が緑でくちばしの小さな青い小鳥が飛んでいた。
カワセミとも違う見かけたことのない鳥だ。ひょっとして渡り鳥だろうか。
色あせた栗のいがらがたくさん落ちている栗畑と数軒の民家の前を通り過ぎ、また橋に突き当たる。リナは橋を渡らずにゆるやかな坂をのぼった。一本の大きな桜の木がみえたところで右に曲がると、道路の両側に沿ってリナたちの家をはじめとして民家が集まっている。
これがリナの暮らしている坂東地区だ。文字の記録としては残っていないが、言い伝えによると、平安時代の終わりごろからリナたちの先祖は住んでいるそうだ。
この小さな地区をぐるりと一周するのが、いつものチビとの散歩コースだ。
「あれ、学さんは?」
リナが台所でコーヒーの準備をしていると、思い出したように父が尋ねてきた。
一日の朝、台所にいちばん最初に立つのはおじいちゃんで、朝起きるのが苦手な高校生の兄の望がいつも最後に現れる。
「神社の境内を掃除するって。おじいちゃんきれい好きだから」
リナはおじいちゃんの言いつけ通り、神社で倒れていた少年のことは言わずに適当にごまかした。
「夏祭にはまだ早いし、正月もとっくに迎えたのにいったいどうしたんだ」
父はテーブルに置いたスマホを眺めながら言った。
リナは一瞬ぎくりと体が固まったが、父はリナが思うほどには気にしなかったようでトーストをかじりながらスマホの画面を見続けた。
「ごちそうさま!」
小学校三年生の未来は朝ごはんを食べて食器をシンクに持っていくなり、飛び出すように家を出て行った。
歩いて五分の所にあるベンチでスクールバスを待つのだ。
バスの中では友達と話してはいけないと今は先生から言われているから、バスを待つ少しの間、近所に住んでいる同級生とおしゃべりするのが今は楽しいらしい。
坂東地区も日本各地の多くの田舎のように少子高齢化がすすんでおり、中学生以下の子供というとリナと未来と未来の同級生の三人だけだ。
リナもまた食べ終わった食器をシンクのボウルにつけておく。今日の朝食の食器洗いは父さんの番だ。食器を洗うと言っても流し台についている食器洗浄機へ入れるだけだ。
この家を建て直すまでは皿洗いどころか、父は一切家事をしなかった。東京で一人暮らしをしていたからできるはずなのに。
「そういえば、昨日お母さんから来た手紙にはなんて書いてあったの?」
「まだ帰国は無理だそうだ」
父親は黒光りしているスマートフォンに視線を落としたまま言った。彼はリナの気持ちには関心がないように目もくれなかった。
「そっか」
リナはしょうがないと受け止めたが、その実心の中ではとてもがっかりしていた。
リナの母であるマーシャは名前からわかる通り日本人ではない。ロシアのイルクーツク出身で、子供の頃から日本の木彫り作品に興味を持ち、今から二十年前に日本の大学へ留学しに来た。父親が東京の秋葉原で働いていたとき、二人は出会って結婚した。二人が出会ったきっかけは、父が電車の中で男の痴漢にあって我慢しているところを母が助けたことだ。
「かわいそうに狼に遭遇した子ヤギみたいに青ざめて震えていたのに、周りの人たち気付いていたはずなのにだーれも助けなかったのよ」
母は痴漢はもとより周りにいた日本人の冷たい態度に怒っていた。けれど父がそのなれそめを子供たちに語ったことは一度もない。
母は今、木彫りの彫刻家としてロシアと日本、両方の地域を行ったり来たりしていた、二年前までは。
二年前の春、あの恐ろしいウィルスの世界的流行が始まった。そのせいで母は年に数回は帰っていた実家のあるイルクーツクへ長らく帰れなかったが、ワクチンが開発されて多少感染状況が落ち着いた去年の秋、リナの母は母国へ帰省した。だが冬にウィルスの新たな変異株が出現してしまった。
お正月までには戻るはずだったのに、ロシアでふたたび感染者が急増してロックダウンになってしまって身動きが取れないのだ。
年が明けてもまだ感染が落ち着いておらず、母はまだ日本へ帰れる見通しがたっていなかった。おまけに母は変わりもので今どき携帯電話もパソコンも持たない主義の人だからテレビ電話もできない。だから連絡方法は手紙でのやり取りになってしまっている。
しかも母は日本語を流暢に話せても書けないから、父はロシア語で母と文通している。父は母と結婚してからロシア語を努力して習得した。愛のなせる業だ。母は三人の子供たちにも母国語を習得させようと奮闘したが、肝心の子供たちは今に至るまで日本語の漢字と英語を学ぶのに精いっぱいだ。
毎日その日にあったことや思ったことをよく話していた母と顔も合わせられず、長らく会話もできずにいてリナはとても寂しく感じていた。
眠そうな顔をした兄の望が居間へ入ってきた。その様子だときっとまた夜遅くまでオンラインゲームをやっていたに違いない。
兄の通っている高校は、山を越えたところの江湖市にある。江湖市内でも感染者がまた増え始めているらしく今月からオンライン授業に切り替わった。
だからここ最近の朝はいつも以上にゆっくり起床している。「通わなくていいならずっとオンラインでもいい」と部屋に引きこもってゲームをするのが好きな彼は言う。兄の望はパンデミックとは無関係に授業がすべてオンライン配信の高校を以前から志望していたが受験して落ちてしまった。だからスクールバスを出してくれる江湖市の私立高校へ通うことにしたのだ。
コーヒーサーバーが語尾に飛び跳ねるような音符をつけて軽快に鳴った。
リナの父は椅子から立ち上がってサーバーから使い古したマグカップへコーヒーを注いだ。父は、雨巻町の西側にある大きな工業都市であるカスミ市で、パソコン修理のチェーン店の店主として働いている。家から車で三十分ぐらいのところだが営業開始時間は十時からだから朝は望同様にのんびりなのだ。
リナは中学校まで自転車で三十分はかならずかかるから、朝食を食べ終えたらさっさと出発しなければいけなかった。
一家の長女は、「行ってきます」と父と兄に声をかけてから、白いヘルメットをかぶり自転車に乗って町中にある中学校へ向かった。