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疫病神が来りて少女は笛を吹く  作者: 収穫之月
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序章

パラレルワールドの現代日本を舞台にしたファンタジー作品です。2022年にとある児童文学賞を一次選考通過したものを大幅に加筆修正しています。お楽しみいただければ幸いです。カクヨムでも掲載しています。

 この世には人の目には見えない世界がある。


 季節はずれの通り雨がアスファルトを激しく打っていた。

 これはこの土地を流れる川に住まう龍神が張った結界だ。不穏な侵入者を洗い流すためのもの。

 山から流れる川は水量が増して水の動きはいつになく速い。その上にかかるコンクリートの橋のたもとで、少年が一人うずくまっていた。

 少年は傘もささずレインコートも着ていない。つい先ほどこの橋のたもとに来たばかりなのに、長い時間雨に打たれ続けたかのようにすっかりずぶぬれだ。

 彼は右肩と腹に大きな怪我を負っていた。草をすりつぶしたかのよう緑色の血が、槍で突かれた右肩の傷口からとめどなく溢れている。しゃがみこみ動けないでいる少年のそばを通り過ぎる車は、しかし彼にまったく注意を払おうとしない。

 人のものではない血は、滑らかなアスファルトを伝い、濁って波打つ川へ吸い込まれるように落ちていく。

 魔性の血はほかの魔をひきよせる。厄介なことに魔はどこにでもいる。

 魔であるにもかかわらず、この日ノ本の地においてはそのほとんどが少年を追いかける『高天原』に属していた。

 取るに足らない小さな魔性たちは、彼を仕留めたい八百万の神々にすぐに彼の居所を通報するだろう。

 しかし、今の少年は刀も奪われ、拳をふりあげる力も残されていない。どうやってここへたどりつけたかさえもはっきり覚えていない。

――ここまでか。

 黒いひげを生やした武将に大きく斬られた腹を抱えていると、彼のそばに弓矢を背負った女がおもむろに現れた。

『私についてくるがいい。安全な場所へ案内しよう』

 女はそう言うと、うずくまる少年に手を差し伸べた。

 彼女は獣の皮でできた帽子をかぶり、同じ皮の衣をまとっているが、膝から下の足がなかった。その膝から上もまた薄い緑の膜がかかっていて蜃気楼のようにゆらいでいる。

 どしゃぶりの雨は彼女の体をすっと通り抜けたが、強い光を宿した眼差しは大きな雨粒に隠されることなく薄闇にくっきり浮かび上がっていた。女の切れ長の瞳は、弓をつがえて今すぐにも矢を放つかのような緊張をたたえていた。

 どうやら彼女は少年が追われているのを知っていて助けようとしてくれていた。けれど少年にとって、女は知らない相手だ。そもそもここは初めて訪れる土地で彼の味方などいるはずもない。

 いや、この世に生まれたとき、この世に現れたときから少年には味方は一人もいなかった。彼のそばにいたのは、彼の力を利用しようとするもの、あるいは彼を蛇蝎のごとく忌み嫌うものばかりだった。

『このすぐ近くだ。奴らに追いつかれる前に早く!』

 女は少年に早く立つよう急かしてきた。

 だが目の前に突然現れた彼女をたやすく信じられるわけがない。『高天原』に属する者でなくとも、あいつらの仲間かもしれないのだから。

 若い女の霊が差し出した手を取らずにいると、はるか遠くの山と山の間を蛇行して走っている道路の上に巨大な影が現れた。

 獣の形をした大きな影は長く太い四肢に力を込めると、足元のアスファルトから亀裂を無数に走らせた。影が見えない者たちからしたら、まるで地下から蛇のような怪物でも今にも地上に現れようとしているかのように見えるだろう。

 影の正体は、一頭の狼だった。

 狼は川を押し流せないほど巨大な岩のように体躯は大きく、毛並みは額の中心から左右に白色と黒色にきれいに別れている。耳まで鋭く釣りあがった青灰色の両目には光が射していない。

 盲目の狼は雨の中であっても湿った薄紅の鼻を大きくひくつかせると、全身をぶるぶる震わせた。

 そして辺りの山をも揺らすような大きな咆哮を一つあげると、道路を走行している自動車の屋根という屋根の上をまるで飛び石のように飛び跳ねた。

 巨大な狼が飛び乗るたびに車の屋根はひしゃげ、横転しになった。そのうちの一台は対向車と激しく衝突した。ぶつかった対向車も濡れたアスファルトを大きく滑って横転してしまった。

 狼は横倒しになったその車さえも足場として踏みつけ、目にもとまらぬ速さで少年めがけて駆けてくる。まるでその背中に目に見えない大きな翼でも生やしているかのようだ。

――追いつかれてしまったか。

 少年は唇を忌々し気に強く噛んだ。

 追っ手をまいたつもりだったが、彼の流している血の匂いをたどって追いつかれたようだ。

『早く、立つんだ!』

 女の半ば透き通った顔には、みるからに焦りが浮かんでいた。

 背に腹はかえられないようだった。体から絶えず聞こえてくる悲鳴をどうにか押し殺して少年はその場から立ち上がった。

 足がなくとも女の霊はすっと音もなく横を走る車より早く移動する。帽子をかぶった頭から弓を背負った背中にかけて、雨は斜めに通り抜けていく。

 さきほどよりも雨は激しさを増した。

 深手を負っている少年は歯を食いしばりながら、今にも消えそうな透き通った背中をただ追う。緑色の血は止まることなく、影のように彼の後ろを流れた。

 少年は川にかかった短い橋を渡り、さらにゆるやかな傾斜の道路をのぼった。道路はどこまでも果てしなく続いているように思えた。

――この霊は私をどこへ連れて行くつもりなのだろうか。

 血が抜けすぎて頭がもうろうとし始めたとき、鮮やかな朱色の鳥居が少年の前に現れた。

 鳥居の額束には『笠無神社かさなしじんじゃ』と書かれていた。どういう神なのか、この世に生まれてから日の浅い少年はとっさには思い浮かばなかった。

 鳥居へつづく階段のそばには古い石碑がいくつか並んでいるが、神らしき名前はどれにも刻まれていない。

 女は立ち止まることなく、まるで足があるかのように階段をさっとのぼり鳥居をくぐった。

 木々に囲まれた広い境内には神のすまう社はなく、大きな桜の木がぽつんと一本佇んでいる。薄紅色の花は季節など知らないように満開に咲いていた。

 獣の唸り声がすぐ近くで聞こえた。狼の姿をした追っ手はいつのまにかすぐ後ろまで迫っていた。

 少年は渾身の力をふりしぼると、石段をのぼって鳥居の中へ飛び込んだ。

 巨大な狼はその場で大きな泥水に変化し、境内へ勢いよくなだれ込もうとした。だが、見えない壁に阻まれたかのように、鳥居のところで強く跳ね返された。

 土砂崩れでも起きたかのような泥の津波は、鳥居を境にして後ろへ大きく反るなり一瞬にして無数の泡になって散り散りになった。

 降りしきる雨が、おびただしい数の白い泡と黒い泡を坂の下に流れている川へ一挙にさらっていく。

 神域にはそこに住まう神のゆるしがなければ立ち入れない。それがたとえ一介の使い魔であろうと、『高天原』を統べる神であっても。それが神々の世界の理だ。

――あの霊はここの神なのだろうか。いや神ならば足があるはずだ。

 女は雨が降っているにもかかわらず花びらが一枚も散っていない桜の下に立っている。彼女の膝から下は周りの景色に溶けてしまったかのように存在しなかった。

 それ以上少年は、その霊の正体を詮索することはできなかった。彼はもはや精も根も尽きかけていたからだ。

 雨に打たれる時間が長くなるにつれ、体の熱が奪われていく。少年は、今この瞬間生まれて初めて寒さというものを感じていた。

 横一文字に大きく斬られた腹を抱えながら、桜の木のそばをよろよろと通るとふたたび長い道路が現れた。

 短い石段を降りると、少年の目と鼻の先で軽トラックが通り過ぎた。

 神域の中を横幅の大きな道路が横切っているのだ。その先は少年がほうほうの体でのぼってきた傾斜のゆるやかな道路とつながっていた。

 道路を渡ったところには、また朱塗りの鳥居が立っていた。鳥居の後ろは大きな森が広がり、細い坂がその奥へ貫くように伸びている。木々に囲まれた坂道は雨に濡れて薄暗かった。まるで隠者が衆目を避けて暮らす岩窟のようで、二つ目の鳥居はその入り口のようだ。

 弓矢を背負った女は、鳥居の前に立って「おいで」と言わんばかりに少年へ大きく手招きした。

 足は鉄枷でもはめられたかのようにとても重い。少年は足をひきずるように歩き道路を渡り、細い坂をのぼり始めた。

 坂の両端には大きな紫陽花の花が整然と植えられていた。花の色は人間の血よりも濃い紅色で、降りしきる雨に濡れて薄くなるどころかさらに濃さを増している。

――いったいいつになったらここの神と会えるのだろうか。

 長い坂をどうにかのぼりきったら、傾斜のきつい古びた石段があった。石段の先には竹林に囲まれた広場がある。

 どうやら、あともう少しで彼をここへ招いた相手と会えるようだ。

 だが困ったことに、今や少年の視界は厚い膜がかかったようにぼやけてしまっていた。竹林や石段もどれも揺れているかのように二重にみえてしまっている。

 少年は這いつくばるようにして、ところどころ苔の生えた石の階段をのぼった。広場には茅葺屋根の小さな家があった。おそらく神の暮らす社だ。けれど中は暗く誰かがいるような気配はない。

 少年の両側には、丸い緑の葉をおいしげらせた木がぬかるんだ地面から生え、まるで門柱のように対となって立っていた。

 魔除けの木だ。

 本来なら社の主に許された少年といえども、この魔除けの木があるとここから先は入れないはずだ。

 黒みがかった竹に囲まれている境内は、雲が月と星を隠した夜のように陰鬱としていた。

 この場所がこんなにも暗く感じてしまうのは、矢のように降っている雨のせいだけではないと少年は思った。

 少年は神が住んでいるはずのその民家から何の力の片鱗も感じ取れなかった。

 狐狸や蛇神のような山里に住む類の精霊でさえも、そこで暮しているようにはとうてい思えなかった。

 まさしくその社は空っぽだった。ネズミ一匹の気配さえもない。まるでかなり前から住人がいないようだった。

 自分をここへ招いたのは、いったい何者なのだろう。

 少年をこの社まで導いた女の霊は、神の住まう社の縁側に寄り添うように立っていた。

 彼女が今どんな表情を浮かべているか雨に滲んでしまったかのようにぼやけてわからないが、誰の気配も感じられない家の縁側へ、まるで勝手知ったるかのように彼女は気安く入った。

 その直後。

 何者かに首の後ろを軽く叩かれた衝撃があった。その一撃であっけなく少年は膝から崩れ落ちて木の間に倒れ伏した。 

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