人類総ビッグバン時代
バスケットボールかバレーボールか。高校の駐車場は体育館の真横にあるので、いつ来ても球を突く音、生徒たちが跳んで、どすんと着地する音が聞こえる。
どん、ばっ、どんっ。職員室に近付くに連れて小さくなる野蛮な音。無意味な音。
今日も世界史を教える。もう3年目になるが、激動の人類史は好きだ。
「は。なんでだ?」
入口近くの溝口先生が女子生徒に目を丸くして言った。
「なんか、ちょっと嫌になっちゃって」
ポニーテールの後ろ姿は首を少し傾げて、きっと弱々しく微笑んで言った。
「嫌がらせとかか?まず俺に話してみろ」
「そういうのじゃないんですけど……。何かがあるってわけじゃないんですけど……」
「なら、やめるのはダメだ。ススキはチームの主力だし、大会前だしな。とりあえず今日も練習来い」
女子生徒は頷いて溝口先生に背を向け、こちらをちらと見た。長い黒髪、広い額、長い眉と、真下に涙で潤んだ目、頬を少し噛んでいるように見えて、鼻はうっすらと高い。口は微小をたたえているようで、懸命にその形を馴染ませたのだと思わせた。首は長く、膨らんだ胸から腰にかけては綺麗な逆三角形を為し、臍から尻にかけては正三角形が結べる。足はすらりと長いようで、靴からはいい匂いがしそうだった。
芒というのか。彼女は何も言わず職員室を出た。こちらをちらと見たのは、なぜだろうか。もし助けを求められても、私には何もできない。一介の非常勤講師に過ぎない私には。
さて、授業を教えに、教室へ向かおう。首から下げる入校許可証の裏に時間割を忍ばせてあるが、今年もそれを見ずとも次の教室に行けるくらいの時期になった。2年C組。
前回に引き続き、範囲はフランス革命だ。財政難、王の処刑、恐怖政治。私は、この激動の時代を教えるのが好きだった。私は好きな気持ちに任せて、教科書に書いていない裏話なども話した。
授業終わりに、珍しく生徒が私のところへ来た。曰く、私の教えていたことが教科書の記述と矛盾していたらしい。真面目そうな男子生徒が、控えめに指摘した。――ああ、これは教師として最悪の失態だ。私は幾度か問答して、次までに調べてくる、とはぐらかしたが、指摘された瞬間に、私は誤りに気付いていた。次は謝罪からか。教室を後にした。あの男子生徒は今頃私を見限っただろう。あのクラスでは内職や居眠りが増えるだろう。無価値と見做される。私が間違っていることは明らかだった。くそ、あいつ無駄に大声で喋りやがって。しかも、次の時間には指摘してくれたことに感謝を言わなくてはならない。いや、そもそも余計なことを話した私のせいだ。彼は悪くない。好きなことを話さなければ、こんなことには。「先生、ひどい顔してますよ」うるさい生まれつきだ。
次は空きコマだ。屋上で風に当たって気分転換しよう。
「なにか失敗したんですか?別にいいじゃないですか。大事なのは次ですよ。それに、落ち込んでたら解決するわけでもないですよ?」
「……大人になればわかる。自分にも変えられない部分がある。どうにもしようがないことは、やめたいけどね」
「しようがないって?」
「こんなことになるのがさ」
「それで伝わると思ってるんですか?」
うん。
「そこから出たいですか?」
「そうだね、そうできたらいいけど」
「それなら、先生に力をあげます。爆破したい人を見つめて、念じるだけでいいですよ」
芒のふくよかな胸をずっと見ていた。家に置いてきた母のことを思い出した。爆破か。退屈は紛れるか。
2年C組に戻った。
溝口先生が授業をしていた。何か忘れ物ですか。先生は尋ねた。
私は先程の男子生徒を凝視して、念じた。――ぱきんぱこと間抜けな音を立てて、少年の体は四散した。教室は血に塗れて、全員が泣き喚く。煩い。私は、愚かにもその場にいる生徒全員を爆破した。かけがえのない命が、一身に愛を受けた祝ぐべき子どもたちが、夢や、あの日この日の思い出や、輝かしい青春が、無限の可能性が、ひたむきな努力が、好きなあの子への秘めたる思いが飛び散った。
彼らの友人や家族は、悲嘆に暮れるなぁ。私も、母がこんな姿になったら嫌だ。生涯をかけても償えない罪だ。しかし、殺人はなぜいけないのだろう?私は、豚の屠殺動画をよく開く。見はしない。でも、そのコメント欄で、ヴィーガンを偽善者と罵り論破して、豚への感謝を述べる。それと、よく似た話が起きる。私が屠殺機になっただけだ。
それから私は毎夜、東京で一番高いビルから街を見下ろして、ランダムに人を爆破する。コツは、全滅は決してさせず、またカメラなどに私の姿は捉えさせること。この能力がある限り、そう簡単には捕まらないから。
「ああ、溝口先生。よくここが分かりましたね。私を止めようって言うんですか?……私がこれだけ人を救っているのに?」
ふざけるな!この殺人鬼。なぜこんなことをする!人を救ってるだと!?ふざけるな!この殺人鬼。なぜこんなことをする!
「彼らがこの先生きていても再現性のある人生しか送らない。強者も弱者も関係なく、いつ誰が自分の仕事についても、周りへの影響は大したことがない。いや、そもそも、人は皆かけがえのない存在などではない。両親の……下品な表現だが、性交渉する日が違って、別な人間として生まれていても、付く名前は変わらないし、同じように愛される。家族にとってさえ代替可能な存在だ。そして、それが個人に及ぶのだから、当然世界もそう。例えば商品。殆どが売る側もその価値を信じてない。そんなもののために働かなければならないのだから、当然退屈する。そんな中でも、家族や愛する人だけは代えが効かない。だから、私がそれを突然に奪い去り、不幸に突き落とし、私を心の底から憎み、不幸になることで、退屈を脱せる。鬱を脱せる。鬱の原因は所詮は脳の科学物質の云々なのだから、そしてそれが社会の代替可能感のせいなら、代替不可能なものを壊して不幸になれば、退屈よりマシな不幸が来る。お前たちだって、一度や二度、大切な人を殺されて、復讐に燃えてみたいと思ったはずだ。私はそれを叶えて、興奮を与えているのだ。きっとポルノとは比較にならないぞ、不幸の原因を徹底的に痛めつけて復讐するカタルシスは。その目標を常に私は人に提供し続ける。だから、私は人を殺しているが、その人を愛する人の数だけ救ってる。ああ、退屈感に勝る不幸はないから。去年と一昨年の区別がつかないんだ。でも、母が今日、突然爆破されるようなことが、あってほしくないけど、あったならば、この日は私の、忘れられない中間地点になる。そしたら、やっとゴールが見える。復讐のために生きると決意できる。それを私は人にさせてあげる。それだけの話。おわかりか?」
「人なんて殺せないくせに」
バスケットボールかバレーボールか。まだ体育館ではどん、どんと物が跳ねる音がしている。人とボール。体育館の外からは、そのどちらの音かを正確に聞き分けることは難しい。
今日の授業も滞りなく終わった。帰りしなに、母のご飯を買わなくてはならない。
何にするかは決めていないが、野菜などがいいか。もう歳だし、脂っこいものは受け付けないだろう。
うん。それがいい。というか、母の体のことを考えればそれしかない。