第95話 宙母「アレクセイ・ブルシーロフ」
宙母「アレクセイ・ブルシーロフ」。
それが、エーリッヒの新たな母艦の名前らしい、とエーリッヒは士官室で初めて知った。
「本来は、上に報告して後送するのが正しい手順なんだがな」
そう言ったのはイコンダ・ドコンダ中尉――撃墜されたエーリッヒを拾ったパイロットにして小隊長だった。まだ中年と言うには若いだろうにヘルメットで蒸れたのか、禿げかかった頭が特徴的なアフリカ系の男だった。
「だが、現状それはできない。というよりこっちが戦力を欲している状況だ」
そう言いながら、イコンダは自分の通信端末をエーリッヒに差し出した。そこには星図と共に、移動する赤い点が表示されていて、そこに注釈のように艦船の名前が記載されている。
「これが今のウチの分艦隊の戦力だ。護衛は駆逐艦二隻のみ。それも母艦とはぐれた員数外の艦艇だ。それじゃ心許ないんでホログラフ・デコイを牽引して艦隊のフリをしている。そんでもって……こっちが、ウチの艦の状況だ。」
彼はホログラフの画面をスライドして、次の画面に移った。ズラリと並ぶ人型のアイコンはエンハンサーの本来の保有数だろう。その半分近くに喪失を意味する×がつけられていて、残りも損傷を示す黄色だったりした。補給艦と連絡がつかない現状、パーツが仕入れられないので修理もままならないのだ。
「酷いですね」
「ああ酷いもんさ。何せ散り散りに逃げてきちまったんだから。ウチの小隊みたいに、損害が一人だけってのは珍しい……」そこまで言ってイコンダは自分の失言に気がついた。「――おっと、すまないな。今のは無神経だった」
「いえ……」
エーリッヒはそう言いながらもイコンダから目を逸らさざるを得なかった。もう今の彼には家族同然に付き合ってきた仲間はいない。オリガも、リチャードも、二人とも目の前で戦死してしまった。
殺されたのだ、「白い十一番」に。
彼自身、同じ目に遭う寸前だった。そこをイコンダに救出してもらったのだ。
「それで、」怒りを恩義で打ち消すと、エーリッヒは質問した。「僕はどうしたら?」
「さっきも言ったように、ウチには欠員がいる。その穴埋めをやってもらいたい――もらいたい、とは言ったがこれはまあ、ほとんど命令だと思ってもらいたい」
「そりゃ、そうでしょうが……機体はどうするんです?」
確か、今見た表によれば一機たりとも予備はないはずだった。だとすれば彼が乗る機体もないはずだが?
「それに関しては都合がついている」しかしそうイコンダは答えた。「一人、戦闘神経症になったパイロットがいてな。そいつの機体を使わせてもらえる予定だ。とはいえ、被弾した機体にはなるが……」
「構いません。この状況で注文を付けるほど、もの知らずでもなければ恩知らずでもないつもりです」
「そう言ってくれるなら、助かる――補給デポにつけば、この貧乏暮らしともおさらばだ。それまでは……」
そう言うと、イコンダは椅子から腰を上げた。これで話は終わりだということらしかった。その証拠に、彼はエーリッヒに背を向けて、士官室を出ようとした。
「!」
しかし、その足取りは、扉が開くや否や強制停止の憂き目にあった。一人の女が無遠慮にそこから入ってきたからだ。特徴的な赤髪の下にはクマとそばかすの目立つ顔が不満げな表情をしていて、軍艦で軍服を着るよりかはスラム街でジャージを着ているのが似合っているような見た目だった。
「……ブリット! 貴様、盗み聞きとは趣味が悪いな」
イコンダは彼女の名前を呼んでそう非難した。イコンダは如何にもアフリカ系らしい偉丈夫である。その大きな身の丈から見下ろされれば大半の人間は何もしていなくても恐れを抱くものだ。
「隊長こそ、」しかし、それに怯むようなことをブリットはしなかった。「アタシらに秘密で何してんです? 士官が士官室に来ちゃいけないっていうんですか?」
「そうは言っていないだろう、貴様は……」
そう言って、イコンダはブリットの肩を掴んで下がらせようとしたが、それを彼女は体の小ささを反対に活かしてあっさりかわして、エーリッヒの目の前に肉薄した。
「アンタがミハイルの代わり? ……名前は?」
「エーリッヒ。エーリッヒ・メイン」
「そう。つまらない名前なのね。きっとつまらない性格なんでしょ」
彼女は矢継ぎ早にそう言うとじっとエーリッヒの目を見た。そこでようやく彼はその視線の鋭さから、彼女の目つきがただ生来から悪いというわけでなく、そこに明白な敵意があることを感じ取った。
「急に、一体何を言っているんです?」
だが、それを向けられる理由など見当たらなかった。急に運よく生き残っただけの男が小隊に入ると聞かされて感謝されるとは微塵も考えていなかったが、だからといってその真反対の情念をぶつけられるのは同じぐらい理屈に合わない。
「その敬語も気に入らないね。」しかし、彼女の言い様も表情も挑戦的なままで変わらなかった。「ミハイルは小隊のムードメーカーだったんだ。そんなよそよそしい態度を取ったりはしなかったし、アンタよりいい男でいい奴だったんだよ。分かるか?」
「よせ、ブリット」
イコンダの制止を彼女は振り払った。いよいよ不穏になってきたその言動に、エーリッヒは訝しまざるを得なかった。
「だから、さっきから何が言いたいんですか?」
「アンタには、ミハイルの代わりなんざできないってことだ。さっさとアタシらの前から失せな」
「失せるも何も……ミハイルって一体誰なんです? それが僕と何の関係があるというんですか?」
しかし、その質問は失言に他ならなかった。
「黙れッ、ミハイルを殺した男が!」
そう言って、彼女はガッと彼の胸倉を掴もうとした。しかしそうして一歩進んだ瞬間に、後ろからイコンダが力任せに羽交い締めにして、後ろに引っ張っていったのだ。
「よせと言ったぞブリット……!」
「離してくださいよ隊長! アンタだって本当は分かっててやったんじゃあないのか⁉」
「ブリット!」
羽交い締めを止めて振り返ったブリットの頬めがけて、彼は拳を振るった。ゴッという鈍い音がして、彼女は強かに近場にあった椅子に叩きつけられた。
「――いい加減にしろ! あの状況では仕方のなかったことだ。他にやりようはなかったし、時間もなかった! そんなに言うなら、貴様でもできたはずのことじゃないのか⁉ できなかったのは、そういうことじゃないのか⁉」
エーリッヒには、今目の前で起こっていることが何なのかよく分からなかった。彼にできたことと言えば、静かに黙って、目の前で起きることを眺めるぐらいのことだった。
「…………」
「ミハイルのことは忘れろ。それが今俺たちにしてやれる唯一の供養だ。違うか?」
「――忘れられるなら、」小さく、彼女は呟いた。「とっくにやってます……」
それから突然彼女は立ち上がると、弾かれたように扉の方に向かっていった。その背中をイコンダは声で引き留めようとしたが、彼女は聞く耳を持たなかった。
「……何だったんです?」
一頻り事態が落ち着いたと見て、エーリッヒは口を開いた。イコンダは後頭部を掻き、ただでさえ少ない髪を更に減らしてから、言った。
「ああ、まだ言っていなかったな。ミハイルというのは、貴様の前任者だ。だが、この前の戦いで――」
しかし、そこまで言うのが精一杯だった。イコンダがその先を言う直前、けたたましい警報音が鳴り響くと、パイロットは全員ブリーフィングルームに集合するようにという旨のアナウンスがなされたのだ。
「話は後だ。補給デポにもうすぐ着く。戦闘準備をするぞ」
「戦闘準備?」エーリッヒは首を傾げた。「でも、後方なのでしょう? 安全なはずでは……」
「だと、俺も思うんだがな……何にしても警報は警報だ。従うしかないさ」
そこまで言ってから、先行くぜ、と言って、イコンダは先に士官室を出た。エーリッヒは一抹の不安を感じながらも、それについていった。
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