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第82話 出航

「発進準備始め」


 そのオイゲンの言葉はまるで魔法の呪文のようだった。それ一つでブリッジにいる全ての人間が何がしかの反応を返さなければならなかったからだ。


「了解、APU始動。外部電源カット」


「コンデンサー充電開始」


「主機回転数、臨界まであと70%」


「火器管制システム自己診断開始……オール・グリーン」


「損害報告システムも同じく」


「発着艦管制システム起動終了。現在待機中」


 あるいはそれはオーケストラの指揮のごとくだった。いや文字通り「指揮」をしているのだから当然なのだが、人間の身長にして何百倍、体積にして何千何万倍にもなる金属の巨体を多くの人間が協力して動かすというのはまさに一つの音楽を思わせた、そこに言語のリズムとエンジンの振動が加わるという点で。


 その身体が隅々まで伸びていくような感覚が、オイゲンは好きだった。愛していると言ってもいい。エンハンサーパイロットになれなかった彼にとっては、それは代替物でもあった。しかし今となっては、これなしには生きていけないような心持すらした。


 つまり彼は宇宙の男だった。


 きっと死ぬまでそうし続けるだろう。


「主機、臨界!」


 そして、待ちわびていたその報告が来た瞬間、オイゲンは叫んだ。


「点火!」


「点火します!」


 返事と同時に操舵手が舵輪の側にあるスイッチを押す。点火、と言っても実際に火をつけるわけではない。空間から重力子と反重力子を切り離していく作業が開始されることを、慣例的にそう呼ぶということなのだった。ドスん、と一際大きな振動が艦を巡って、次第にそれは全身の鼓動に変わっていく。


「主機、正常に始動しました。相殺式バランサー、ニュートラル。艦の静止状態を維持しています。指示を」


 操舵手がオイゲンの方をチラリと振り返る。彼は立ち上がった。


「サイドキック――出港」


「了解」


 すると、操艦担当兵は左右それぞれ二つあるペダルの左外側の方を踏んだ。航空機の操縦と同じで踏んだ方に動くようにできている。とすれば艦は左に振られるのだ。一つ違う点があるとすれば、それが重心を中心とした移動ではなく、横への水平移動だという点だろう。それがサイドキックという機動で、回避機動などにも用いられるものだった。


 即ち、艦は横滑りしていき、縦列駐車めいて並んでいるドックから出る。それから、推力を前後で打ち消していたバランサーをカットして、艦はゆるゆると真空の大海原へ投入されていく。


 その加速の様子を見届けてから、副長のヴィクトルは声をかけた。


「艦長。艦隊司令部より、速やかに軽巡『シュレジエン』を旗艦とする護衛戦隊と合流するようにとの命令です」


 彼らが出港した理由はそれだった。つまりジンスクを発った敵艦隊の予想進出時間近くになったため、高速を利して偵察に出よ、というのがその命令の趣旨である。


「分かっている」だからオイゲンはそう答えた。「――操舵手、聞こえたな?」


「了解です」


「レーダー手は誘導をかけてやれ……それでコルト、スクランブル待機の小隊は?」


「現在、通常の二個小隊のローテーションで実行中ですが、いかがなさいますか」


 そのヴィクトルの言葉の真意は、戦闘を企図して迎撃機をより素早く、より多く展開できるようにするかという意味だ。そしてわざわざ聞き返してくるというのは、変更した方がいいのではないかという当て擦りでもある。


 故に、ふむ、とオイゲンも一考せざるを得なかった。確かに偵察だけならば艦に新たに搭載された哨戒艇やエンハンサーを用いるだけだが、それは敵としても同じことだ。それで敵艦隊に先に発見された場合、いくら「ルクセンブルク」が軽量の高速艦とはいえ必ずしもそれを振り切れるとは限らない。


「そうだな、一個中隊に引き上げろ。対エンハンサー装備で問題ない」


「了解しました」


 そう言って敬礼を返したヴィクトルは自分の席の脇にある受話器を取って格納庫に内線を掛けた。その首元には大尉の階級章が静かに揺れている。この腐れ縁の副官も、オイゲンの昇進に合わせて階級を上げていた。


「それにしても、貴様が大尉とはな」


「文句なら人事部に言ってください。自分としてはアナタが中佐になったことの方が意外でした。」


「そりゃお前、宙母の艦長なんだから、佐官でないと他と釣り合いが取れないだろう。艦隊行動に支障が出る」


「別の中佐を宛がうという手もあったでしょうに、軍も面倒なことをしますね」


「……今俺のことを面倒って言ったか?」


「いえ、言葉の綾です」


「コイツ」


 平然としたそのヴィクトルの表情に、オイゲンは殴りかかるフリをし。


「『シュレジエン』を捕捉。」そのときだった。「量子ネットワーク接続完了。以降、本艦との艦隊行動に移ります」


 手元の端末でレーダーを確認すると、艦隊の僚艦がその上にプロットされ、それによって構成されるバブルの中に「ルクセンブルク」が位置していくのが分かる。対空戦闘を意識した球形陣だ。


「……あいよ、」その通信兵の言葉に水を差されたような気持ちになりながら、オイゲンは返事をした。「よしなに」


「偵察機隊発艦用意。繰り返す、偵察機隊発艦用意」


 そのヴィクトルの艦内放送に合わせて格納庫には警報が鳴り響く。整備兵たちと哨戒艇パイロットたちは慌ただしく最終チェックと搭乗を開始する。


「いよいよ、ですね」


 待機スペースにてユーリがそれを眺めていると、ハンバーガーをかじりながらノーラがそう話しかけてきた。彼らは今、スクランブルに備えて待機しているところだった。


「……アレで敵を見つけられるもんなんですか? エンハンサーじゃあダメなんです?」


 そうユーリが言う間にも、哨戒艇が一艇、エレベーターに搬入されていく。それはこの間見た揚陸艇と似たような見た目をしているように彼には見えた。それもそのはず、両機ともベースは「ズベズダ」汎用艇という同一の宇宙艇であって、船底の厚さや重力燃料タンクの大きさが違うだけなのである。


「エンハンサーでは、航続距離やセンサー感度に問題があるでしょう? センサーで見える距離が長くて足が長い方が偵察機としては優秀なんです」


「?」しかし、そのノーラの言い方には、疑問が生じた。「でもエンハンサーでも艦隊攻撃のときは敵艦隊と味方艦隊の間を行ったり来たりするわけじゃないですか。それじゃあ不足なんですか?」


「まるで足らない」


 答えたのは、いつの間にかユーリの背後に回り込んでいたマルコだった。ユーリは思わず飛び上がるほど驚いてしまう。


「うわッ」


「むぐ……エンハンサーが攻撃に行くときには、目標までの位置が分かっているから問題、ヌッ、ない。点と点が分かっていれば線が結べるからだ。もッもッ……」


「食べるか喋るかどっちかにしてもらってもいいですか?」


「む、すまない。モグモグ」


 ものを食べているときにモグモグと本当に言う人を、ユーリは初めて見た。


「問題は」ハンバーガーを全て食べきってから、マルコは言った。「敵を見つけた後、だ」


「後?」


「偵察の仕事は見つけたらそこで終わりではない。敵の規模、移動する方向、通信頻度といった情報をもつかむ必要がある」


「要は、そのために居残りしなくちゃいけない――その時間が長ければ長いほどいいってことだ」


 とっくに食べきっていたサンテはそう言った。それから包み紙をクシャクシャにまとめてから、ゴミ箱に投げつけて――弾かれる。


「あ、クソ」


「でも、」ユーリには解決できない疑問があった。「敵が超光速航行をしていた場合は? こちらからでは分からないのでは?」


 光の速さを超える場合、音速を超えるのと同じ現象が起きる。即ちその超音速の物体の音を正面から聞くことができないように、正面から超光速物体を見ることはできない。それは電波の速度に索敵を依存するレーダーも同じことだ。


「それはそうですが、」答えたのはノーラだった。「実際には攻撃目標の惑星の速度が低いので問題ありません。攻撃側の艦隊からも敵は見えないですから――」


「あっ、そうか。減速しなきゃいけないから……そのときに見つけられる」


「そういうことです」


 そう言ってから彼女は残り一口のハンバーガーを平らげて、サンテのしたように包み紙をボールにしてゴミ箱に投げ入れて――こちらは、その穴に綺麗に入った。


「よしっ」


「けっ」


 自分と違って上手く入れた様にサンテはそう吐き捨てて、自分の捨てた方のゴミを拾って中に入れた。


「それで? いつまで待機なんです? 俺たちは」


「一応、哨戒艇が敵艦隊を発見するか、逆に発見されるか、あるいは我々自身が発見されるまではこのままです」


「要するに、警報が鳴るまで」


 とまとめると、マルコは二つ目のハンバーガーに手を付け始めた。小柄な割によく食べるのが彼という男の特徴らしいとようやくユーリは掴みかけていた。


「ちぇ、」しかし、その彼の返答に納得がいかないのがサンテだった。「それじゃあしばらくは暇だってことじゃねえか」


「暇ではないでしょう。」ユーリは反駁した。「待機ってことはすぐ出られるようにしとかなきゃいけないんだから」


「それなら、ハンバーガーを二個も三個も食うのはいいのかよ。食ってる間に呼び出し喰らったら……」


「んっ、腹が減っては戦はできぬというだろう」


「被弾したら中身が飛び出すぜ、マルコさんよ。アンタ一番狙われやすいポジションなんだから」


 編隊機動では基本的に末席にいるパイロットが最後尾になる。彼はそれを言っているのだ。


「食らわなければいい。それに、狙われやすさで言ったらユーリ・ルヴァンドフスキも大概だと思うが?」


「僕ですか?」


 突然話を振られて、ユーリは驚いた。何かそのような要素があっただろうか?


「あーそうか、スナイパー機だもんな」


「まして目立つ塗装してますもんね。私たちまで悪目立ちしそうで」


「塗装はジャクソン伍長に文句言ってください」


「でも、最終的なゴーサインは出したのだろう? なら君の責任だと思うが」


「それに、そもそも装備を決めたのはテメーだろうが」


「それは、そうですけど……」


 言われてみれば、早合点して装備を決めたきらいはある。これは戦争なのだから、同じ相手にばかり構っていられないというのは事実だろうし、あの敵にとってもそれは同じことだろう。


 なのに、彼はその選択をした。それは自分が狙われているから、というだけだろうか? ……ユーリはそのとき何か自分らしくない考えを自分がしていたのではないかということに気がつきかかった。決して、ルドルフの仇討ちだとかは考えていない。それは間違いない。だがそうではないどこかであの敵に対する執着があるように思えた。


 あるいは、因縁というべきか。


 二度も三度も同じ戦場で戦っていれば、少しは芽生えるというのだろうか?


「ッ!」


 しかし、彼の思考はそこで強制停止させられた。サイレンが待機室を埋め尽くしたからだ。


「見つけたんでしょうか」


 脇に置いていたヘルメットを手に取りながら、ユーリはノーラに言った。


「……いえ。それにしては早すぎる。とすれば――」


「見つかったということか」


「だろうな――先行くぜマルコ。お前はゆっくり食べてから来な」


 そう冗談めかして言って、一足早くサンテはヘルメットを被り、待機室を出た。マルコはムッとした表情をしながら、半分以上残っているハンバーガーを一口で食べてからヘルメットを被る。ユーリもノーラもそれに倣って被ってから、待機室を出た。

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