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第75話 カツカレー

 その古びたマンションは少し郊外に行ったところに立っていた。ユーリの家はその三階にある。駐車場から歩いて階段を上り、そこまで行くと、その階の八号室の呼び鈴をユーリは鳴らした。


「はい、」その最初の返事からややあって、インターホンは切られた。「……⁉」


 というのも、ドアを中から勢いよく開けたからだ。


「ユーリ……?」


「その……ただいま、母さん」


「ユーリ……ユーリなのね! よかった無事で……!」


 ユーリの母が騒ぐと、奥から父親も出て来た。


「何だ何だ」


「ユーリよ、ユーリが帰ってきたの!」


「おお、よく帰ってきたな! あとでカマラにも伝えなくちゃ……ああ、今日学校がなければ伝えられるのに!」


「う、うん……」


「立ち話じゃ何だろう。中に入って……」と、そこでようやく、付き添いの存在に気づいたようだった。「……? そちらの方は?」


「初めまして。」答えたのはノーラだった。「私はノーラ・カニンガム中尉。彼の……上官に当たります」


「上官……?」


 ユーリの父は何かに気づきかけた様子だった。それに、ユーリは下唇を噛んだ。


「もう、お父さん。」しかし、母が思わぬ助け舟を出した。「先に上がってもらうのが礼儀でしょう?」


「おお、そうだな。狭い家ですが、上がってください。ほら、どうぞ……」


 そう言って案内されたのは、ユーリにとっては代わり映えしない、大した広さのないリビングだった。来客を想定していなかったから、そこには物が乱雑に置かれていて、その狭さを助長していた。


「すぐ、お茶だしますから……」


 そう言った母の言葉にノーラは「あ、お構いなく」と返した。実際ちょっと顔を見せるぐらいはできても、お茶を飲んで長居する時間は残されていなかった。


「いや、」父が言った。「それにしてもよかった。開戦と聞いてずっと心配していたんだぞ、ユーリ? ニュースでも見たんだぞ、コロニーが破壊されたなんて……どうして知らせをよこしてくれなかったんだ?」


「それどころじゃなかったからだよ、父さん。見れば分かるだろう?」


「それはそうだが……一筆くれるだけでも違っただろう。どうして……」


「お言葉ですが、お父様」見かねて、ノーラは口を挟んだ。「何しろ厳しい退却行でしたので、そうする時間もなかったんです。あと少しで敵に囲まれるところだったのですよ」


「それでも、軍の報告は上がってきて、ニュースにはなったわけでしょう? だったらそれに合わせてくれたって……」


 そのときユーリは舌打ちをする寸前だった。


「民間のことなんて後回しに決まっているだろ。父さんは考えなさすぎなんだ」


「何だ、その言い方は」


「およしなさいな、」そこに、母が戻ってきた。「帰ってきて早々喧嘩なんか。お茶ですよ、ほら」


 差し出されたティーカップを手に取って、父は冷ましながらそれを飲んでみせた。


「私としては、」その隙に母は話題を逸らそうとした。「その服装の方が気になりますけどね。どういうことなんです、ええと……」


「ノーラです。ノーラ・カニンガム」


「そう、カニンガムさん。どうして息子はそんな格好を?」


「……ッ」


 その話題になった瞬間、ユーリ今度こそ舌打ちをしたか、でなければ息を呑んだだろう。


「それが」しかしノーラは何てことはないように答えた。「コロニーからの脱出戦以来、彼は軍事教練を受けた民間人パイロットとして協力してくれていまして、それから五機以上を撃墜したエースとして勲章を授与されています」


「えぇッ、」驚いたのは父だ。「じゃあ、本当に軍人になったのですか。それもエースパイロットに?」


 それから、聞く相手が違うことに気づいたらしかった。


「――なったのか、ユーリ?」


「……」黙っていてもそれは事実だった。頷くしか彼にしようはなかった。「はい」


「いやはや、それは――」


 その声は困った調子ではあった。しかしそれは表面上のことだ。それはその泳ぐ視線と浮足立った表情を見れば分かる。


「立派なことだな、なあ、母さん」


「ええ、本当に……国のお役に立てるんですもの、これ以上のことはないわ。胸を張って育ててきたと言えるんですもの」


「お国のために立派に責任を果たそうとする、いい息子を持ったものだ!」


 困惑したように、その実嬉しがっている彼らの言動に対して、ノーラの返答は冴えなかった。


「ええ、まあ……実際彼には命を何度も救われてますから……」


 何故なら、ユーリはその二人の言葉に何も言わなかったからだ。俯いて、それで視線を隠して、キッと生みの親を睨みつけていることに、彼女は気づいた。


(……どこが、立派なものか! 二人とも何とも思わないのか! 自分の息子が人殺しになっているんだぞ!)


 それは、ユーリの中に眠るその激情の発露だった。


(だから帰って来たくなかったんだ! 親父もお袋も馬鹿で考えなしなんだ! 戦争がどういうことか分かっていない。今、街を歩いている人の数分の一でも戦争について考えてやしないんだ!)


 戦争を知れば、どうしたって笑顔ではいられない。


 それなのに笑ったことが、ユーリには許せなかった。


「ごめん」だから、それは限界まで取り繕った言葉だった。「もう行かなきゃ」


「そうなの? 昼はアナタの好きなカツカレーにしようと思ってたのに」


 カツカレー、という言い方も嫌いだった。というのもカツカレーとは原義の上ではカツレツの乗ったカレーライスのことを指すのであって、ジャパニーズスタイル・カレーライスのことを必ずしも指さない。それを何度教えても母親は直そうとしない。それどころか、そこに拘るのを好みだと勘違いしてすらいる。そんな些細なことすら、彼には苛立たしいことに思えた。


「そこまではいられない。そうでしょ、中尉」


「え?」話を振られると思っていなかった彼女は油断したような声を出した。「え、えぇ、そうね。そこまではいられないかしらね」


「じゃあ行きましょう。こっちは待たせるわけには行かないんだ」


 そう言って、彼は強引に話を打ち切ろうとした。すぐさま立ち上がって、家族に背を向けた。


「あ、ちょ……待ってくださいユーリさん!」


 ノーラはあと少しで置いていかれるところだった。ティーカップを、音を立てて卓上に戻し、すぐさまその後を追う。ドアの音に気を遣う余裕もない。


「……どうしたのかしら」


「さあ……昔から気難しい子だったからなぁ」


 その慌ただしい様子を見ても、それだけが彼らの感想だった。だから、その鈍感さこそがユーリには許せないのだと、彼らには分からないのだった。


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