第62話 真空(空っぽ)
「回避、取舵一杯!」
オイゲンがそう叫ぶと同時に、操舵手は舵輪をぐるりと左に回した。すると体は慣性の法則で右に揺られるが、ぎっちりと艦長席が腹の肉に食い込んでいるため、オイゲンが飛ばされていくことはない。反対にミサイルは、対空砲火の妨害もあって予定された直撃コースをずらされ、あらぬところを貫通し自爆する。
「敵弾回避成功!」
「まだだ! もう一回来るぞ!」
手元のレーダープロットに移る周辺状況は敵機を示す赤塗れだった。何しろ撤退中の攻勢だったのだ。対空能力の高い艦や正規宙母は最優先で下がってしまい、今いる航宙部隊は各惑星の防空部隊が中心となっている有様だ。
それでも幸いだと言えたのは、旧式艦ばかりとはいえ最低限の臨時編成ができる程度には余力があったタイミングでの攻撃だったという点である。
「今だ、もう一度取り舵!」
そして何より、その中で「ルクセンブルク」はまだ生き残っていた。それはオイゲンの手腕に依る功績だった。彼は蛇行して回避するのではなく、敢えて同じ方向にばかり回避してみせた。すると敵機は今度こそ反対にかわすだろうと読んで攻撃をしてくるのだが、実際にはその反対に回避されるので、どれほどの敵機がいてもかわすことができるのである。
敵機のパイロットはさぞかし悔しいことだろう――そうニヤリとしたそのタイミングだった。
「艦長! 艦載機より帰還信号を受信!」
それは最悪のタイミングだった。まだ全ての敵機の攻撃を捌いたわけではないからだ。
そんな中着艦する味方のためだけに直進したのでは、間違いなく撃沈される。
「――却下だ! そんな暇があるなら周りの敵機を撃墜させろ!」
「ですが、被弾しているとのことで……無線でわめいています!」
「わめく⁉ 誰だ、誰の機体だ!」
「ルヴァンドフスキ機です!」
その報告を聞いた瞬間、オイゲンの堪忍袋の緒はすぐさま切断された。
「……あンのクソガキが!」
それと同時に殴られた艦長席の金属製のひじ掛けは悲鳴を上げて根元から折れた。ヴィクトルはそれを見てびくりと震えた。それが彼の上官の激高の合図だと知っていたからだ。
「ええい、」しかし、次に続く言葉は彼の予想外のそれだった。「一番エレベーター解放! 着艦したいなら勝手にさせてやれ!」
「許可を出してよろしいのですかッ?」
そのヴィクトルの質問を、オイゲンは無視した。
「コルト、お前に一時ここを任せる。回避機動は緩めるな、俺はあのクソガキをとっちめなきゃならん」
そう言って、彼はひじ掛けの取れた右側から艦長席を抜け出すと、そのまま扉へ向かった。
「艦長、どちらに⁉」
「格納庫だろう⁉」
そう言う彼の姿は、自動で閉まった扉の向こう側に行ってしまい、すぐに見えなくなった。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
回避の合間の直進している僅かな瞬間に着艦したユーリは、機体から降りるや否やヘルメットを外しそうになった。自分はさっきとんでもないことをしてしまって、今も同レベルのことをしているという実感が、遅れてやってきたのだ。
だが、ユーリには今更戦場に戻って戦おうという考えは尚更持ち合わせていなかった。
冗談じゃない。
彼にはもう、殺されないようにしながら人を殺すことなどできそうもなかった。戦争をやらされることに疲れてしまったのだ。何のために戦っていたのだろう? 何を血迷ってこんなことをし始めたのだろう? ……そのどちらも彼には判然としなかった。自分の手を汚し、未来を潰し、シャーロットに拒絶され、それでも戦う理由など、彼にはもう見つからなかったのだ。
ルドルフの背中になど騙されて、こんなことになるなんて。
そう思うと、彼は何もかもがどうでもよくなってしまった。どうせ、これだけのことをしたのだ、間違いなくクビだろう。それはそれで望むところだったし、何らかの理由で死刑になったとしてもどうせ死んだようなものだ。戦場で怖い思いをしながら死ぬよりは幾分かマシだと思えた。
試しに排出されたままのシートに寝転がって、大の字になってみた。解放感があって、意外と心地よい。それを見て整備兵は明らかに白い眼を向けて来るが、それで構いはしなかった。もう自分とは何の関係もない人々だったから。
しかし、ユーリが目を閉じようとしたその瞬間、彼にはその人の流れが一瞬淀んだような気がした。はたと起き上がると、開いたエアロックから一人の大男が飛び出してくる。それが一直線に彼の下に飛んでくるのだ。
「ウッ……?」
マズい、何かがマズい!
そう思って立ち上がった彼の顔面に、その拳は直撃した。猛烈な一撃。それはそうだろう、放ったのは他ならぬオイゲンだ。その重量を考えれば当然の帰結だった。
「だ、誰……?」
体重差で吹っ飛んだユーリの質問に、そのオイゲンは答えなかった。
「誰だもクソもあるか貴様ッ! 何故戦場を放棄して帰投したのか! 答えろ!」
「……」その一言で、軍関係者だとはすぐに分かった。「放棄して何が悪いんだよ、えぇ? こっちはもう、何のために戦っているのか……!」
「口答えをしろとは言っていない!」
今度は蹴りだ。まだ床に這いつくばっていたユーリをオイゲンは全く躊躇なく蹴飛ばした。
「何のために戦っているかだと? そんなこと決まっている、この艦のためだろうが! この艦に乗っている全ての避難民のためだ! そんなことも分からないのか!」
「ッ……じゃあ、僕の考えは無視ですか、僕の都合は! もう戦いたくないってのに、無理にやらせようってんだ!」
「貴様個人の都合など、今この戦争に何の関係がある! 貴様がそうやって駄々をこねている間にどれだけの人がどれほどの危険に晒されているのか分かっているのか⁉」
「分かりませんね、僕にとっては僕が大切なんだ。これ以上僕の未来や人生が無視されちゃたまらないんだ!」
かちん、という音をユーリは聞いた気がした。その瞬間、彼の目の前の男は、腰のホルスターから拳銃を取り出していた。
「何です、それは」
ユーリは煽るような口調で分かり切ったことを聞いた。
「今すぐ戦線に戻れ、これは脅しじゃないぞ」
「いいや脅しですね、僕を撃ったら僕を乗せることができないでしょう?」
「黙れクソガキ。貴様に発言権はない」
「だったら、その銃で黙らせてみたらいいんじゃないですか? できやしないくせに!」
「黙れと言った!」
がん、という音がした。当然、発砲音ではない。減圧された格納庫内では、音は伝播しない。
だとすればそれは銃把がヘルメットに当たる音だった。
ただそれだけのことでユーリは倒れることになった。
何故なら、それが当たったのはバイザーの開閉スイッチだったからだ。
「待……」
て。
と言ったはずなのだが、彼の耳には聞こえなかった。ヘルメット内の全ての空気がより気圧の低い方に流れ出てしまったために伝播するものがなくなったからだ。反射的に呼吸しようとするが、肺の中のそれも、気圧に従って吸い出され、血中酸素が著しく低くなっていく。
彼は即座に崩れ落ちた、というより、ヘルメットの開口部から空気が抜け出たためにその場で回転した。その予想外の挙動に混乱してまるで水の中で溺れているかのようにバタバタと手足を動かすが、真空中では、文字通り空を切るばかりだ。
その様子を見ながらオイゲンはきっかり十秒数えた。そのカウントがゼロになってから、慣性の法則に従って暴れ回る彼のヘルメットのスイッチをもう一度押した。
「撃てないと言ったな」まだ暴れるユーリの体を、オイゲンは壁まで殴り飛ばした。「ああそうさ。こんなところで撃てば跳弾し続けて巻き添えが出る。だがこういう使い方もある――苦しいか、苦しいだろうな。真空というのは!」
ユーリは強がりを言おうとしたが、何を言い返そうにも、胸が痛んで言葉にならなかった。肺だ。肺がやられている。目もだ。上手く見えない。水分が蒸発してしまっている。
「げほっ、ゲホッ……」
「だが貴様はこの艦に乗る全ての人間に今の苦しみを味あわせるところだったんだぞ! 貴様一人の勝手で、一体何人を殺すつもりだったのか分かっているのか⁉ えぇッ⁉」
だから、睨み返そうにも上手くできなかった。変に涙目になってしまって、只怯えているかのようで、実際そうでもあったから性質が悪い。
だが、その張本人が向かってくるのは見えた。逃げようにも上手く逃げられず、彼は胸倉を掴まれる。
「貴様一人が命を懸けているんじゃあない! 皆がそうしているんだ、貴様一人が楽できるはずがないだろう!」
そう言うと、オイゲンは力の限りを使ってユーリを引っ張っていった。
しかしただで連れていかれるほどユーリも馬鹿ではなかったし、この頃には既に幾分か回復していたのだ。すぐさま手足を振り回して抵抗しようと試みた。
「クソガキが――」だが、力も体重も違う。「乗れ!」
そして、次の瞬間には、コックピットに投げつけられていた。それで強かに頭を打った彼がぼうっとしている間に、オイゲンはハッチ開閉ハンドルを回していた。油圧式でゆっくりな挙動ではあったが、彼が気づいたときにはもう、脱出できる大きさにはなっていなかった。
「この機体をさっさと出してしまえ! そして死んじまえ! どうせそれすらまともにできないくせに!」
オイゲンがそう叫ぶと、ユーリの意志とは関係なく、機体はエレベーターに向かって動き始める。格納庫内の誰かが手を回したのだろう。そうなるともうハッチ開閉ペダルは言うことを聞いてくれない。彼は戦場へ戻る以外の道を断たれてしまった。
「クソッ」
ユーリは最早何の役にも立たない開閉ペダルをヤケクソ気味に蹴った。もう何もかもが無駄なのだ。戦えば死ぬかもしれないという恐怖が待っているし、戦わなければ酷い目に遭わされる。
(つまり、皆同じなんだ。あのデブも、サンテも、ノーラさんも、シャーロットだって! ……皆、僕に戦争以外の価値なんて認めちゃいないんだ。もちろん、ルドルフだってその一人さ! だからこうしてそれ以外のことをしないようにしているんだ)
ユーリの狭量な視界には、そうとしか考えられなかった。誰も彼もが、彼に戦場へ向かうことを望んでいる。それは悪夢だった、しかもそれは夢ではなく現実らしい。
だから、彼には操縦桿を握る以外に道はなかった。
惰性で、仕方なく。
高評価、レビュー、お待ちしております。




