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第295話 男には負けると分かっていても戦わなければならないときがあるが負けた後のことは誰も知らない

 咄嗟に、マティーヌはギョームの後ろに回り込んだようだった。彼を盾にするようにして、


「あの人たち、レジスタンスよ」


 とだけ言った。


 レジスタンス――反乱分子。


 プディーツァによる支配をよしとしない者。


「いや、嬢ちゃん方というのは失言だったかな? そっちの黒い方は男だな? だってそういう情報だった――からな?」


 リーダー格らしい老人が一歩前へ出て来る。手にはいかにも太くて痛そうな木の棒が鎮座している。それをポンポンともう片方の掌の上で彼は跳ねさせた。


「わしらはな、息子や娘をアンタらプディーツァ人に拉致されたんだ。孫もだ。そんな連中が、この街には大勢いる。それなのにアンタらは我が物顔でわしらの街で飲んで食って大騒ぎだ。固よりここはそういう猥雑な街だがな。しかしアンタらにはその権利はない。侵略者に出す酒も女もない」


 一歩一歩、彼は近づいてくる。老人らしい歩幅なのだろうが、それは演技であると思えた。大昔にそういうゆっくり殺していく刑罰があった、とルヴァンドフスキ少佐に聞いたことがある。何という名前だったかは失念したが、古代の中国でのことだという。要するにこうして焦らして恐怖を煽ろうということなのか――いや、そんなことはどうでもいい。


 マティーヌの手は震えていた。


 それだけで、充分だ。


「いいか? 女の格好してこの街に紛れ込もうなんざ上手く行くはずがないんだ。そうであるからには、お前には痛い目を見てもらう必要がある。プディーツァ人に分かりやすく説明してやるための教材になってもらわなければいけない。言っていることが分かるか? 分からなくてもいいんだが」


 相手は、全員で四人。全員が棒を持っていて、老人ながらにギョームより体格がいい。あっという間に打ち据えられて、あの世行きだろう。


 だが、ギョームには一つだけ勝ち目があった。


 銃である。


(パイロット用拳銃がこの小さい女物のポーチの中に入れられるサイズでよかった)


 彼は制服から抜き取ったそれを、そこへ入れていた。無骨なそれはどうにもかさばって他のものの侵入を拒んだが、どうせ入れられるものなど他にないのだった。


 一瞬だ。


 一瞬隙があれば、ポーチからそれを引き抜いてこの暴漢共を撃ち倒してしまえる――はずだ。ポーチは前に抱えているから、左手でそれを開けて右手で抜いて撃つ形にできる。もちろんそのままでは気づかれて殴られるのを早めるだけだから、ほんの少し、敵が気を抜くようなことがあれば……いや。


 そんなチャンスを待ってはいられない。


 男には負けると分かっていても戦わなければならないときがある。


 それは今だ。


 仮に奇跡やきっかけが必要なら、それは自分自身で動いて手にするものだ。他人から与えられるものであってはならない。


 だから、動くのは今――ギョームは足元に転がる腐ったリンゴを暴漢へ蹴り飛ばした。


「…………」と同時に、彼は計画通りに動いた。「ッ!」


 左手でポーチのジッパーの取っ手を摘まんで引っ張る――相手はいきなり何らかの物体が飛んできたので、それを弾き返すのに一瞬気を取られ、また腕を使うから反応は更に遅れる。また足も止まる。まだ棍棒の間合いには遠い。目の前の人間を殺すという事実を一瞬の高揚感の中に忘れて、ギョームは拳銃を、


「⁉」


 抜けない。


 手を突っ込もうとしても、それはジッパーに閉ざされていた。


 それを開けるべき左手は、取っ手から滑り落ちて空を切っている。


 何故か? ……ポーチはハート形をしていたからだ。


 そしてジッパーはハートマーク上部の布地らしい緩やかな渓谷に敷設されていた。


 その段差は、ゆっくりと開けるならば何ら障害にならないが――この場合は、その中央で引っかかってしまう。


 そうして右手は中に入ったままの銃把の硬さと布地越しにぶつかるばかりで。


 それ以上のことは起こらない。


「…………」


 ギョームは視線を上げる。既に、相手は体勢を立て直している。棍棒は振り上げられ、今にもそれは落ちて来るだろう。ギョームは咄嗟に腕を盾にしようとするが、それすらも間に合うかどうか。走馬灯、世界はゆっくり動いて、しかし着実に彼を追い詰めていく。結局腕は間に合いそうにない。繰り出されたそれをすり抜けるように木の棒が垂直に――撃ち抜かれる。


 正確には、それを持った腕が。


 血が飛び散って、彼の肌を濡らす。


「クソッ⁉」腕を押さえて、暴漢はそう言った。「憲兵だ!」


 瞬間、足と腹部がそれぞれ透明なパンチでももらったみたいにがくんと押し退けられ、その場に仰向けになって倒れた。他の者は発砲音と同時に逃げ始めていたが、一人はその背中を撃ち抜かれて、飛んできた憲兵に組み伏せられていた。


「ウッ……うッ?」


 状況の急変に、ギョームは中々ついてこれなかった。憲兵が来たのだ、というのを理解したのは、その内の一人が黒い特徴的な制服を翻して彼らの前にきたそのときようやくのことだった。その憲兵はぱっとギョームから小脇に抱えていた荷物を奪い取ると、その中から軍服を見つけ、更に身分証まで抜き取った。


「……ギョーム・ミンハラ特技兵だな?」それから、怪訝そうに今の彼と写真とを見比べて、言った。「貴様にはルヴァンドフスキ少佐から出頭命令が出ている。随分お楽しみだったようだが……粗相があっても見なかったことにしてほしいとのお達しだ。不問にしてやる」


「…………」ギョームは羞恥半分、反感半分の視線を憲兵に向けた。「それはどうも」


「『どうも』? ……特技兵というのは教育がなっちゃいないな。それか二等臣民だからか? プディーツァ語にはな、『ありがとうございました』という単語があるんだよ。ちゃんと言ったらどうなんだ?」


 ギョームは暫時羞恥心を忘れて、視線の全てを、反感を通り越して敵意に切り替えるところだった。少なくとも「それ」が起こる一瞬前までは、そうした。それから何か言葉を言おうとして、その瞬間「それ」に黙らされた。


「へえ、」マティーヌの言葉が、彼を後ろから撃ったからだ。「じゃあドニェルツポリ人なんだ、君」


 凍り付かせるような冷たさ。が、そこにあった、と同時に後ろに回っていた彼女という温もりは、すぐさま彼を邪魔そうに迂回して前へと行くことで消え失せてしまった。彼女はその大して大きくもない身体を憲兵に押し付けるようにして、ぴったりと密着してみせた。


「……君、」その揺れて乱れた髪を、憲兵は当然のように触った。「何をしようとしていたんだ?」


「何だと思います? 少なくとも、アナタには抱かない感情を持っていたんですけど」


「そうかな? さっきまでの君は、彼の方がお気に入りだったようだけど」


「もう、意地悪しないで……ね、この後のご予定は? 私、いつでも合わせますけど」


「いや構わないよ、今からだって……」


 ちら、と憲兵はギョームを見た。そのせいで、ギョームは自分が酷く遠くに追いやられていることに気がついた。そこにあったのは嘲笑――それは焦燥を駆り立てて、彼は一歩前に出る、


「な、なあマティーヌ……」が、彼女たちは怪訝そうに下がる。「どうしたんだよ」


「どうしたも何も、私、別にアナタのこと好きだなんて言ってないし。仮にそうだったとしても私がアナタのことを気に掛ける義理があるっていうの?」


「それは――そうかもしれないけど、いくら何でもどうなんだよそれは。僕は君のために、」


「戦ったって? ……冗談でしょ? アレで? 結局この憲兵さんたちが来なかったら、アナタも私も死んでたでしょう」


 そう言って、彼女は憲兵に腕を絡める。その憲兵は憲兵で視線を彼女に、主に腕と胸の接触部辺りに移して、ふんと息をした。


「大体、金もない、力もない、度胸もまるでなっちゃいない――」マティーヌはそれに見向きもしなかったが、憲兵は気にしなかった。「アナタみたいな二等臣民、そこら中に吐いて捨てるほどいるわ! もううんざりなのよ、そんな連中のせいで私は、ッ……!」


「……!」


 ギョームは、そこに何か感じ取ることの難しい問題があることを察した。彼女は、きっと他人には言いたくない過去を抱えていて、それで大きく歪みを抱えてしまったのだろう。それが彼女の言葉の揺れ動きに現れた、気がした。


「だけれどね」しかし彼女の一瞬の動揺は彼女自身が打ち消してしまった。「一等臣民の方たちは違う。私に酷いことをしない。私にお金をくれる。私に優しくしてくれる。全てにおいて違うの。君なんかを、私は好きになんてなったりしない。気持ち悪いのよ!」


「マティーヌ! ……」


「そういうのを、好意の押し付けって言うのよ。ストーカーみたいなもんね、君。気をつけた方がいいよ。そういう自己中心的なの、本当に気持ち悪いから」


 行きましょう、と彼女は憲兵の袖を揺すった。彼はそれに気味の悪い笑顔を浮かべて、彼女を連れて路地の向こうへ歩いていく。ギョームは一歩、二歩とそれに追いすがろうとするが、他の憲兵に後ろから声を掛けられて、止められてしまう。それを振り切ってもう一度振り返ったときには、もう、彼女らは姿を消していた。

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