第244話 強制連行
「ただいま……」
情報統制故にか本心からか、いずれにせよ彼を賞賛する新聞を読みもせずゴミ箱へ放り込みながら、エーリッヒは自宅のリビングまで辿り着くとそこにあるソファーにダイブした。表面に浮かぶ埃がぶわっと舞ったが、彼は構わずそこに寝そべって寝返りを打った。
何しろ、三か月振りの我が家である。
それまでの間、艦と参謀本部を行ったり来たりする毎日だった――トップガンだけでなく通常部隊への教育すら、彼らは任されるようになっていた。何しろ教育部隊も前線勤務に戻されるほど人手が足らない。彼らも最盛期より数の面では減らされていて、余計に仕事が多くなっていた。
(それだけ戦争が近い、ってことだよな……とにかく第一撃で全てを決しようっていうことで、後のことは考えちゃいない)
エーリッヒは、ふと起き上がってゴミ箱に放り込んだ新聞を再び手に取った。見出しには大きく「皇帝陛下」……と書かれている。その四文字から先は何も読む気がしなかった。尊敬語と賞賛の美辞麗句が踊り狂い、賛美の言葉で装飾されている。
(……こんな国に)エーリッヒは吐き気すらして、それを再びゴミ箱に入れた。(するつもりはなかったのに)
仮にも大統領制を持っていた国が、終身皇帝を迎えるまでに腐敗した。そこに至るまでに、国民投票すら行われなかったのだ、形ばかりのそれすらも! ……ヨシフ・スモレンスキー、もといウラジーミル一世にとっては、国民というものは彼を支える国家を形成するためのパーツに過ぎず、意見を持つことは許されないようだった。
いや、そもそもヨシフを生んだ政治的土壌とは、そういうものであった――いつからか、選挙とは現職大統領に票を投じるものに堕していた。対立候補がほとんどいないからだ。いたとして、ヨシフより政治的才能のない泡沫であった。将来のない極右か、時代遅れの極左か。その中ではヨシフは中道に見えすらした。
(あるいは、そう仕向けられたか。自分に取って代われるまともな候補には立候補資格を与えないか、外国の代理人として逮捕するか――)
それはあくまで可能性の話に過ぎない。だが、あり得ない話ではない。ゴールポストはこの国では不動のものではない。
だが何にせよ、今となってはもう全てが遅い――選挙そのものが死んだ。殺された。これからこの国ではただ唯一の選択肢を崇め奉ることだけが取り得るただ唯一の選択肢として崇め奉られることになるだろう。皇帝万歳!
(……クソッ)エーリッヒの苛立ちが、壁を殴る。(こんなことのために、あの戦争で皆死んだっていうのか⁉ あの戦争で死んだ沢山の兵士たちは、この未来のために命を懸けたっていうのかよ⁉)
なるほど、確かにプディーツァは強大になっただろう。帝国となり、世界三位の大艦隊を得たことで世界のパワーバランスを大きく変えた。領土も増えた。隣接する国家を呑み込むというプロセスはこれから更に繰り返されることだろう。地球すら、ジョ帝国との板挟みとなることを避けるために譲歩する可能性がある。あの大国を戦わずして屈服させることすらできるようになったのだ。
が、それは偉大になったということを意味しない。全く意味しない。孫子を引くまでもなく、戦争とは外道である。非道である。邪道である。多くの人を死に至らしめ、多くの人生をあるべき道から狂わせる。勝とうと負けようと、それは起こる割合がその勝ち負けに応じて変動するだけのギャンブルであって、いずれにしても負債を被ることになるのだ。それを、皇帝は意図的に引き起こそうというのである。
まして、その矛先が問題だった。あくまで、あくまでも参謀本部に所属している将校たちの噂話程度の真実味しかないが――どうやら、ドニェルツポリへ攻め込み地球軍を迂回・包囲するらしい。一度踏み潰したあの国を、もう一度蹂躙するのだという、それも戦争のためだけに!
エーリッヒは、咄嗟に酒が欲しくなった。普段は飲まないそれの、とてもキツいものを欲した。何もかも忘れて寝ることが今の彼には必要だった。そうしなければ、日々の任務をこなすなど倫理的に不可能に思われた。が、冷蔵庫を開けても食糧庫を開けても、それは見当たらない。普段飲まないものがあるはずはない。
そして仮に飲んでいたとしても思い出すだろう。
不愉快なことにこちらが現実である。アルコールの靄の向こう側は、たとえ胡蝶になれたとしても夢だ。
エーリッヒは醒めない悪夢の中で床に転がった。道に転がる空き缶になりたかった。中身を垂れ流しながらどこまでも転がって行けたなら、どれほど気楽だろうか――
(……『白い十一番』)が、その空想は眠りへ接続されなかった。(彼だって、戦争の被害者のはずだ)
彼はテロを起こした犯罪者ではある。プディーツァ軍施設を襲って多くの死傷者を出した一味である以上、彼を許すことはできない。しかし同時に戦争に巻き込まれた少年の成れの果てでもあるのだ。十六歳のときに開戦し、青春を失った。その失われたものを求めてしまったというのは、理解できない話ではないのだ。
彼だって思っているはずだ。
どうしてこうなってしまったと。
取り返しのつかないところへ迷い込んでしまったようだと、言うに決まっている。
(――彼と、話すことができたなら)エーリッヒはそのまま寝返りを打った。(どれほどいいことだろうか――全ての因縁を忘れて、語り合えたならば)
その願いが叶わないことを、エーリッヒは知っている。彼の身柄はドニェルツポリ側が強固に主張して確保していた。きっと、面会も不可能なところに収容されているだろうし――そもそも、軍人がドニェルツポリに出国できるものか。それも参謀本部付の将校が。
エーリッヒは、溜息と共に起き上がった。いい加減埃っぽい床の寝心地が嫌になったのだ。そうして立ち上がって汚れを落とし、立ち上がる――ときに、インターホンが鳴った。
「何だよ、誰だ――」
彼の家のそれにはカメラがついていない。ドアには覗き穴があるが、エーリッヒは使わなかった。ほとんど無警戒にドアの前に行くと、それを開ける。
「エーリッヒ・メイン大佐」そこには、軍服を着たカリーロがいた。「突然ですがアナタの身柄を拘束させてもらう。ご同行願えますな」
そして、逮捕状をぴらりと広げる。その白い幕の上には罪状のカーテンコール――スパイ容疑、敵前逃亡罪、外国の代理人――が掲げられていて、その全てが軍人として致命的な代物だった。
「ま、待ってください!」エーリッヒは思わず後ずさって言った。「何ですかこれは! こんなことを自分はしていない! 何かの間違いで……!」
「残念ながら既に調べはついている。アナタの家からこれが見つかりましてね」
そう言って、カリーロは端末から写真を見せた。それはやはり、ピザのチラシ――しかしこの間見せられたものとは違う。そしてもっと見覚えのあるものだった。
エーリッヒがもらったもの。
まさにそれであった。
「な……!」
「この間の家宅捜索ですよ。見つからなかった、というのはブラフです。そう言えばアナタの場合は、『ネイバーフッド』時代から私を警戒していたぐらいだ、より警戒して何らかのアクションを起こすと思ったのです。結果はドンピシャでしたね。既にロジンスカヤ少将のところにも部下が向かっています」
「待ってくれ、ただのピザ屋だとばかり……!」
「ならば何故、そのときいた参謀本部宛てでなく自宅へ呼び寄せたのです? ……自宅に帰ったところをピックアップしてもらう手筈だったのでは?」
そういう隠語だとすれば、あり得るのだろうが――!
エーリッヒは言葉を失った。自分の軽率さに、だ。こうなっては、悪足搔きしかやれることがない。
「本当に知らない。何も知らないんだ! タカスギ少将。もう一度よく調べてください!」
「君には黙秘権がある。下手な弁明は不利な証拠として扱われることがある――」
カリーロはついにミランダ警告すら唱え始めた。そんなものはこの国で何ら意味がないことをエーリッヒは知っていた。この先に待つのは無意味に惨い拷問と劣悪な環境での拘束。事実上の死。
だがエーリッヒにとって一番許せなかったのは、ミクーラにもその捜査の手が及んでいることだった。彼女が渡してきたとはいえ、自分の不用意な行動が彼女を巻き込んでしまったという念があった。
しかし、念があったところで、何になるというのだろう。咄嗟に銃を取り出して逃げるというのは、ハリウッド映画の世界観だ。一瞬、エーリッヒにもその考えは過ったが、逃げる手首を捕らえられるのがオチだと思えた。それに、銃など持っていなかったから。
エーリッヒは車に乗せられた。オンボロの商用ワゴン車。いかにも政府系らしい高級自動車と違い、これならばどこでも手に入り、どこにでも溶け込める。密かに逮捕するにはうってつけなのだろう。
手錠で両手を使えない中、エーリッヒは何とか後部座席に座った。それからその他のカリーロの部下が乗りこんで、最後にカリーロがエーリッヒの隣に座った。一瞬、その姿に違和感を覚えながらも、エーリッヒは何も言わなかった。
そうして車が走り出す――外からは見えにくい加工がしてあるガラスだったが、エーリッヒはそれでも伏せて見えないようにした。
「それが賢明です」カリーロはそう呟いた。「どこで誰が見ているとも限らない、誰が乗っているかは分かりにくい方がいい」
どの口が、とエーリッヒは視線を向ける。が、その殺意にも似た感情は窓の外を見るカリーロには届かない。届いたところで、どうなるというものでもない。結果的に彼の運命は変わるまい――そう諦めたとき、視線が合った。エーリッヒは急いでそれを逸らす。そうしなければどのような扱いを受けるか分かったものではない。
「それにしても、」カリーロは、しかし、そこでにやりと笑った。「結構演技派ですな、大佐も」
「…………強情だ、という意味ですか? しかし、無実は無実です。自分はこの国を裏切ったりはしていない」
「ああ、そういうのはもういいんです。もう結構。充分ですよ」
「もういい……⁉ 何が充分なものですか。真実を言わなくて済むことなど……!」
「だから、そういうことではなくて、」
「ああそうですよ! 自分は亡命を企図しました。だが、この国のどこに理性が存在している⁉ かつては辛うじてあった建前すら消え去ってしまった。この国をあるべき姿に戻すことなど、最早不可能だ! このような国にいることを恥じて何が悪い!」
――ああ、言ってしまった。
エーリッヒは、清々しさを感じながらも薄暗い破滅の予感に脅かされていた。これで、無実という言い訳は不可能だ。そしてこの国では少しでも黒色の絵の具を混ぜればどんなに白く見えても黒になってしまう。否、混ぜようと思った瞬間に、後ろから声を掛けられることだろう、今の彼のように。
車内は妙に寒かった。息が白くならないのが不思議なぐらいに。あるいはそれが心の温度だったのかもしれない。諦めがそこで蠢いていた。
「大佐――」カリーロは、しかし、ほとんど吹き出しそうな、否、吹き出した。「そう言うと思ったから、我々もお迎えに上がったのです」
まだ言う――とエーリッヒは言いそうになったが、しかし、その柔和な言い方が気にかかった。くっくっくと笑いを堪えもせずに、カリーロは、エーリッヒの手首にあった手錠を外した。
「少将殿……⁉」
「そう言えば言わなかったかな。まあ、アレですな。この拘束は狂言です。ああいや、逮捕状そのものは本物ですが――かといって、終着地点は収容所の類ではない、ということは約束しましょう」
エーリッヒは、目をぱちくりさせた。ええっと、つまり……
「また自分を騙そうとしてます? そう言って実際の情報を引き出した上で収容所へ移送しようとか……」
「しないしない」
疑り深いですな大佐は、とカリーロは半ば呆れたような返事をした。それから後頭部を掻いて、それから口を開いた。
「あー、要するに、逮捕状は本物ですが、突入したものの既にもぬけの殻だった、というカバーストーリーを使うわけです。一方で周囲には逮捕されたということを印象付けて、それ以上の詮索をさせない……」
「なるほど、しかしそれでもこの車の記録を調べれば分かってしまうことではないですか?」
「大佐は面白いことを仰る。記録を提出する先は誰だと思います? ヒントは、この襟のものです」
そう言って、カリーロは制服のそこをくい、と動かした。やはり少将のそれがついている――
「……まさか」
「まあそういうわけで、必要以上の報告は上がりません。今頃上層部はありもしない巧妙な手段を使うスパイ組織と格闘中でしょう……」
それは機能不全になった組織の構造と言えた。部下の報告が全て噓のものになれば、それだけで行動する上の人間は踊らされるわけである。
「ですが、その少将殿が出て来るというのは、」
「ええ。本来は私が出て来るような現場ではない。それでも視察名目で出て来たのは、アナタには意趣返しをする必要がありましたから」
「意趣返し?」
「仕返しと言ってもいい」
「何も変わっていないですが? 物騒なままですが?」
「ふ、」カリーロはそのツッコミを無視した。「『ネイバーフッド』でのことを覚えていますか? アナタは私を信用してくれなかった」
「……ええ。でもそれは」
「そうです。私が話題を間違えた――まさか、あのコロニーのことについて感づいていないと思わなかったから。ロジンスカヤ少将には迷惑をかけた」
「……その割には、議員団を狙撃しようとしましたね」
「いえ、アレは犯人だけを狙撃する自信があったんです。ま、少しだけ頭に血が上っていましたがね」
何しろ、前の戦いではあの機体のせいでスナイパーライフルを失っていましたから……と言う彼の手は、ぎゅっと握り締められていた。きっと、スナイパーにはスナイパーの矜持というものがあるのだろう。が、それを気取られるのが嫌だったのか、すぐに彼はそれを隠し、咳払いをした。
「話を戻すと、私はあの時点で、この国を裏切るつもりだった。あの時代、ブラックオプスはアレだけじゃなかった。公表はされていないだけで、多くの事件がドニェルツポリやポラシュカ連邦領内で起こされたのです。そのいくつかに、私も関わった」
「…………」
「まあ、情報課にいた時点で、表沙汰にできないことに関わる覚悟はありましたが――その任務のいくつかは、暗殺でした。要人や活動家ではなく、もっとニュースになりにくいその家族を狙うのです。例えば旅行でシャトルに乗ったとき、進路上に古いタイプの機雷を撒くとかね。それに当たればあくまで昔の戦争の被害者ということにできる――ドニェルツポリにとっても、それが落としどころにできる」
「……あの国が、飲み込みますか、その言葉を」
「飲まざるを得ないのですよ。たとえ軍用狙撃ライフルで撃ち抜かれていたとしても、公式には詳細不明の空中分解ということにしなくてはならない。事実いくつかの事件はそう処理されました。ターゲットとは別の多くの巻き添えを含めて、事故死と処理された」
カリーロは背もたれに全身を預けて、天を仰いだ。言葉は淡々としていたが、故にそれ以外の切り落とされたところをサモトラケのニケのように想像させた。
「私には、それが受け入れられなかった。仮に、上層部が言うように地球も同じことをしているとしても、それはこちらがやっていい道理にはならないはずだと思いました。そしてあるとき不意に気になって、地球が関与しているかもしれない事故があるのか探しました――それがなかった、とは言いません。この間のアリョーナ・エーギナ事件のように実際に強い関与があるものもありましたが、多くは本当に事故か……あるいは、我々の側が殺していた」
「……あり得ない、なんてことはあり得ないでしょうね。この国ならば」
「ええ。私も憤りました。ヨシフ・スモレンスキーは、自身に都合の悪い人間を逮捕するばかりか、場合によっては消させていたのです。それが、それに気づかずにいた私の無知が、今の皇帝即位などという異常事態を招いた。そう気づいたとき、ロジンスカヤ少将に声をかけられたのです」
「それで、今の活動を――」
「そう。今の私にできることは、国外に逃げたいプディーツァ人を、一人でも多く外へ逃がすこと。そうして自由で開かれたプディーツァの種を皇帝の手の届かないところへ隠すこと。軍人だから、軍人を逃がすことには特化してますがね。でも、何もしないよりはいい」
エーリッヒは、この数分の間に、カリーロという人間を誤解していたことを恥じた。彼は、エーリッヒが無知であったのみならず諦めていたときにも自ら行動を起こしていたのだ。自分の何倍も困難な道を選んでいたのだ。それを悪人と誤解して、自らの保身を考えるとは、何と小人であったことだろうか。
「さて」そこでカリーロは携帯端末を取り出して、言った。「そろそろ、アナタの旅程の話をしましょう――アナタの言った暗号の意味は、自宅にいるときにピックアップして、最終的に地球本土のニホン自治区へ亡命するプランを選択する、というものでした。時期と場所によりますが、季節のメリハリがあっていい場所だと聞きます。それで問題なければ、実行しますが」
エーリッヒは、首を横に振った。カリーロは目を見開く。
「……意外な選択をなさる」
「行き先は変更してください。地球本土でぬくぬくと暮らすつもりはないです」
「ほう、ではどのように?」
「ドニェルツポリへ――義勇兵となって、この国と戦うつもりです」
ぴく、とカリーロの眉が動いた、気がした。が、彼はすぐに何かを言うということをしなかった。それは迷いだった。逡巡して、言葉を選んで、それから
「それは」言った。「困難な道ですよ。アナタはかつての同胞を殺すことになる。それに、彼らがおいそれと受け入れてくれるはずはない、そこまでの支援は、私たちにはできない。それは覚悟の上ですか」
「無論です」
「しかし、アナタには軍に顔見知りがいるでしょう。多くの教え子を抱えてしまっている。彼らは必ずしも私たちにSOSをよこすわけじゃない。むしろ望んでアナタという裏切者の敵となるかもしれない。それでも戦えるというのですか」
「その、覚悟はあります」
「何故――」
その問いに、エーリッヒは、答えた。
「――何故なら、僕には会わなければならない人がいるから」
「人?」
「ええ。僕が憎んでいた人。僕が殺したかった人――そして、僕が壊してしまった人。お互い、まだその傷は癒えていないでしょうけれど、それでも、否、だからこそ、僕はあの人に会わなければならない。『白い十一番』のいた国で戦わなければならない」
カリーロは何も言わなかった。そうして、じっとエーリッヒの目を見ていた。それは全く動かない、固まり切った決意がそこに表出している。
「……いいでしょう。」それに、彼は根負けした。「ですがさっきも言ったように、何らバックアップができない、ということは覚悟しておいてください。ここからは、アナタの仕事です」
「充分です」
「では、取り敢えずこれからセーフハウスへ向かいます。そこで空港にいる連絡員に情報を渡して、状況が整えば貨物の中に潜り込んで密入国をします――忙しくなりますよ」
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