第233話 フィアンセ
「エーリッヒさん」
ムゾコン・シティの高級ホテルのレストランに彼女の姿はあった。白いふわっとしたワンピースに身を包んだ彼女は、エーリッヒの姿を認めると、彼に小さく手を振った。
「遅くなってすみません」軍服からスーツに着替えたエーリッヒは、コートを係に預けながら席に着いた。「事務処理に手間取って」
嘘だった。行きたくないが故にわざと参謀本部にずっといた。そうすれば、何かしら仕事を割り振られるのがあの建物の性質だ。それに忙殺されることで、機を紛らわせていた。
が、結局のところそれにも限界がある――最終的にできる仕事がなくなって、彼は約束から十五分遅れて到着することになった。
「いいんですよ。軍人さんですもの。忙しいに決まっています」
ツァラ――フィアンセの名前だ――はそれでも全く怒っていない様子だった。にこにこと茶色い瞳を揺らして、白い頬を赤くしている。一般的な視点から言えば、その姿が美しくないはずはない。
「ツァラさん。」ない、のだが、エーリッヒは溜息を吐いた。「軍人という仕事は、忙しくては困るものですよ。怠けるのもいけませんが」
軍人が忙しいときというのは、戦争かもっとマズい事態が起きているということだ。
「そうでした――少し不謹慎でしたかしら。気に障ったなら、ごめんなさい」
「別に……」申し訳なさそうに言う、その顔にエーリッヒは怯んだ。「それより、ワインはいかがですか。何か飲みましょう」
いいですね、と言いながら、ツァラはメニューを覗き込み、そのときに垂れた黒い髪をかき上げる。エーリッヒも同じように覗き込むが、書かれている銘柄とその金額を見るだけで眩暈がした。
「?」目頭を押さえたエーリッヒに、ツァラは首を傾げた。「どうかしました?」
「いえ、この金額で、一体どれほど普通の食事を食べれるだろうかと考えたら、少し」
「面白い人。こういうところはそういうものですよ。初めてではないのでしょう?」
「それはそうですが、慣れているとは言えませんから」
「未来の将軍様が、それでいいのかしら」
冗談めかして彼女は笑うが、エーリッヒは尚更気が引けた。自分は将官になる気はない。あんな軍はどうだっていいのだ。他に食い扶持を知らないからあそこにいるだけの人間である。あまり期待されても困るのだった。
気分が沈むエーリッヒとは裏腹に、彼女はワインを注文していた。彼女のことだ、きっと、エーリッヒが飲む分も考慮に入れているに違いない。そう思うと、やはり彼女との関係は嫌だと思えた。善意なのは分かっているが……どうしても。
程なくして、ワインは来た。ウェイターがグラスに注いでくれる――やはりエーリッヒの分まで。彼は諦めることにした。
「乾杯」
「乾杯」
ワインを一口飲んだ。が、葡萄のえぐみがアルコール臭と一緒に襲い掛かってくるようで、彼には良さがよく分からなかった。それに顔を顰めたのがバレないことを祈りつつ、彼はグラスを置いた。もう飲まない。
「それで、」ツァラはワインの入ったグラスを揺らしながら、言った。「エーリッヒさんて、軍だとどういうお仕事なのでしたっけ」
「エンハンサー関連、とだけ言っておきます。一応機密ですから」
「前の戦争では、エースだったんですよね。やはり花形のお仕事?」
「これからですよ。まだ日の浅い部署でね」
「その日の浅い部署で忙しいのですか?」
皮肉っぽく聞こえたその言葉にエーリッヒは一瞬たじろいだが、声色や表情からそうではなく単なる疑問だと察した。
「残念ながら、そういうものです。もっと中枢にある部署では、もっと忙しいと聞きます」
「あらまあ。では、やはり?」
「やはり? ……とは?」
「ほら、今時きな臭いじゃないですか――地球とか、色々」
ツァラはそのとき少し怯えた様子で言った。なるほど、先の軍が多忙なときの状況を当てはめれば、そういうことになるのだろう。
「ああ――そういうことだったら、心配いりません。彼らとて、無駄な戦いは避けたいでしょう」
「でも、スパイは多く送り込んでいるのでしょう? この間の事件だって」
「アリョーナ・エーギナ事件ですね。ですがあれは」
「ドニェルツポリ軍の特殊部隊のしたこと、でしょう? でもそれは同じことなのです。彼らは徒党を組んでこの国を包囲している。この間の戦争では勝ちましたが、それは僅かに緩衝地帯を作り出したに過ぎないはず――いえ、本質はそこにはなくて、彼らが我々に最初から敵意を持っていることにあります。これを徹底的に挫かなければ、私たちプディーツァ人は本当に安らいで眠ることはできませんよ」
エーリッヒは、思わず口元を歪めた。それを見て、ツァラは自分が一方的にまくしたてたことに気がついた。それも、プロの軍人に説法するようなことを。
「……すみません」
「……いえ、」
それ以降、彼らは事務的なこと以外会話を交わさなかった。料理に何が出たとか、どういう味だったとかもまるで思い出せない。結局その雰囲気のまま、彼らはそれぞれにタクシーに乗って帰り路についた。
「…………」
エーリッヒは、若干アルコールの入った視界で、ムゾコン・シティの街並みを見る。まだ高級な官庁街が広がっている。高そうなスーツを着た男女がそこかしこを歩いている。きっと、世界と競い合えるエリート揃いであるに違いない。高い給料を得るだけの仕事をしている人々。エーリッヒと同じ。
だが、ここがプディーツァの全てではない。
プディーツァには、貧しい地域が山ほどある。開拓中の惑星は固より、既に本格入植が始まっている星系ですら、インフラも引かれていない惑星がある。このムゾコンにしたって、人の住んでいる地域全てが豊かな生活をしているわけではない。
そして世界の中心でもない。
プディーツァはあくまでもこの大宇宙の一国家に過ぎない。どれほど大声で自国の欲望を主張したとしても、それが叶えられるかは国際社会との駆け引きの中で決まることだ。国防にしろ、貿易にしろ、領土問題にしろ、外交で解決すべきことだ。であるからして、他国を併呑したいという望みは、本来叶ってはいけないことだ。それは対話相手を殺してその金品を奪うようなことだからだ。一時的に欲求は満たされるかもしれないが、それを恒久的に行うことは不可能である。
だがそれを彼女は理解できていない。
いかに、今のプディーツァが、その銃後の平和が、危ういバランスの上に成り立っているのか、理解できていない。今の国際社会がプディーツァの横暴を許しているのは、それに抗する準備が整っていないからだ。問題に思っていないわけではない。そこでもしもう一度プディーツァが戦争を起こせば、さしもの地球も動き出す。そうなれば――今度はどうなるか、分かったものではない。
エーリッヒがツァラを好きになれないのは、まさにその感覚の欠如故だった。全盛期は過ぎたりといえども、地球は単独ですらプディーツァを凌ぐ大国なのである。同盟国軍も含めれば、その差は二倍以上に広がる。質だって高い。エンハンサー一つとっても、本来「ロジーナⅤ」では「エイブラムス」に敵うものではない(であるから、対抗戦技開発隊などというものが作られたのだ)。質・量ともに上回る敵と戦うということを、そして国全体が戦争のために動き続けるということを、彼女は理解していない。
なるほど、それは彼女の罪ではない。それが誰のせいであるかといえば、国の意図的な説明不足と過剰なプロパガンダに依るのだろう。我々は無謬であり、敵の行動は全て悪意によって構成されている。それを打倒するには、何の犠牲もいらない。それがプディーツァという国の説明なのだから。
だが、その詐欺師の話術に乗せられて、目を光らせながら戦争を語られたのでは、とてもじゃないが、やっていられない。結局、彼女は平時の人間なのだ。平時の中でしか生きられない人間なのだ。その無知さは、有事になれば彼女を殺すだろう。
「……だが、あの人は善人なのだ。善人ではあるんだ……」
エーリッヒは、そう呟いた。官庁街は離れ、閑静な住宅街へとタクシーは入っていく。
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