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ミーンワイル・イン・フロントライン  作者: 戸塚 両一点
第八章 アナザーワン・バイツァダスト
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第207話 ぼんやりとしていない不安

 建付けの悪い割に放っておけば勢いよく閉まるドアが大音声を上げて背後で閉まる。ユーリが自宅に帰りついたのは夜のことだった――本来地下鉄で三駅の距離にあるのを道も分からないのにとぼとぼと歩いたのだから、それほど時間がかかるのは当然と言えた。


 隙間風がごうごうと音を立てる中、ユーリはもう二度と着用することはないであろう制服のエプロンを着たままになっていたことに気がついて、ようやく外すとその辺に転がっている衣類の上に投げながら、仮に物が散らかっていなくても狭い部屋の一角を占領している黴臭いベッドに飛び込んだ。隣の部屋の会話が聞こえる。リズムのある嬌声。吐息。


「…………ッ」


 ユーリは過呼吸の気配を感じて、中古で安かったシミのついた枕で耳を塞いだ。そうしてようやく静寂が幾分か回復される。耳鳴りめいた響きが正体であるそれは、静かに静かに肉体の存在が邪魔であることをほのめかしていた。だが幸か不幸か、それを実行する気力も体力も、彼にはなかった。


 その代わりに薄暗い幻想は彼へと語りかける、だけで何もしない。何かを擦るような音が指先から彼を粉微塵に解体してゆかない。真上にある巨大な何かしらが彼をぺちゃんこにしたりしない。彼の体が内側から形象崩壊して布団の上でタンパク質の粉になったりしない。耳と体の隙間から見えない指が入ってくる。それが頭を掻きまわさない。


「!」


 全ては嘘っぱちであり、脳の現実認識が作り出すそれに彼は裏切られ続けた。だから、その着信音が、いくらか現実とのリンクを取り戻すきっかけになった。泥のように重く思い通りにならない腕を必死に伸ばして、適当に投げたままの携帯端末を何とか手繰り寄せる。発信者名は見たくなかったし、想像通りだろうと思った。


「よう」


 そして、その予感は当たった。例の中華屋の店主だ。努めて明るい声にしようとしているのが感じられるのが鬱陶しい。そうユーリは感じた。


「起きてるか……というか、今、どこにいる? 家に帰り着いているのか?」


「…………」


 しかしユーリは何も答えられない。口が思うように動かない。とにかく発話するという行為にかかるコストが果てしなく高く感じられた。発話とは、口を開け、舌を動かし、喉を震わせ、それらの行動を意味の繋がるように動かさねばならない――のだと感じられてしまう。意識しなければそれができないのだ。


「まあ、電話に出れる状況であるなら、」何となく、店主もそれを察していたのだろう、彼はすぐに話し始めた。「どこにいようがまあ構わない。無事は無事なんだよな? ……あー、その、どうしても伝えなければならないことがあってな、まあ、想像はついているだろうが」


「…………」


「あの、その、アレだ――お前は、申し訳ないようだが、今日でクビだ。明日からは来なくていい。人手不足は相変わらずだが、アレだけのことをしてお咎めなしというのは、客商売として成り立たないよ。常連さんも、何人か見ちまった。明日からは頭を下げ通して何とかするしかない」


 胃の中がずんと重くなる。脳の血流がいくらか増えてムズムズと震えだす。それは呼吸器官にいくらかの焦燥感を与えて、硬直した思考を更に硬化させる。どうにか挽回できないかと、完全に手遅れな状態でもがき出す。


「……うーん、とな」店主の放った言葉が、それを助長する。「こっちとしちゃ、いい加減、何か言ってもらいたいところなんだが……お前だって、責任を感じていないわけじゃないはずだ。何を言うべきかぐらいは考え付いているところなんだろ?」


「あ、えっと」


 勝手に口が動いた。ほとんど食い気味に――その結果、第一歩は踏み出せても、二歩目が全く出なかった。躓いて、そこに間が空いた。すぐさますいませんと言おうとした矢先に、ユーリはあの客の顔を見つける。それに怯えて、彼はそこで立ち止まってしまう。


「…………すみません」


 そのくせ、三歩目は結局それだった。求められた方向とは、恐らく真反対に行ったということは、言った瞬間理解できた。まるでガソリンを零して拭こうとして塗り広げて、とにかくその場からなくそうとして火をつけたようなものだった。が、他にどうしようもなかった。誰もが零してしまったそれをどうしたらいいか知っているわけではないし、そもそもストーブに必要だったのはガソリンではなく灯油である、のは彼の責任ではない。


「……お前、さあ」だが、聞こえたのはギリギリで発露を免れた怒りが震えた声。「いつまでも被害者でいられると思うなよ」


 被害者、という言葉に、ユーリは脅されたような気持ちになった。足場が揺れる、寝転がっているのに。


「一応、俺はお前にもっと酷い時期があったことは知っているよ? それに、お前がそうなるまで戦い続けてきて、俺たちがそれに甘えてきたのも知っている。でも、だからってお前がこれから先ずっと、そうであったことに甘えていけるほど、生きていけるほど、社会も世界も甘くはねーだろ。お前はどこかで金を稼がなきゃいけないし、そのためには働かなきゃいけないだろ。なら、どんな人が相手でも、金勘定ぐらいはできるようじゃなきゃいけないだろう。それを相手の思想信条で選り好みできる立場かよ。なあ」


「えっと、あの」


「もう会うこともないんだろうけどさ、俺としちゃそれなりに心配しているんだよ。普通、戦争に行ったら軍から金もらえるもんだろ? 年金とかさ。それすらもらえないって、お前何したのよ。捕虜になったのは聞いたぜ? でもその程度のことで全くなくなるってのは変だろ。いや、あのお客じゃないけど、軍も黒い噂は絶えないけどさ……だとしてもだろ」


「あの、軍は、その」


「まあ、それはどうだっていいことだ。な? とにかく、もうウチには関わらなくていいから。それがお互いのためだろ? じゃあな」


 プツ。ツーツーツー。


 生命線が切断されて、ユーリは一人でそこに放置された。しかし未練がましく彼は端末を握り続けずにはいられなかった。落下していく体と対照的にまだそこにある感触が欲しかった。


(お前が悪いんだぞ)


 だが、隙間風の風切り音の中で、そう、父が言う。ふと、頭の中に過去の幻聴が聞こえたのだ。左耳から。冷たい電子音で塞いでも、それ以下の低温で染みこんでくる。そうだ、あの日は寒かった。捕虜収容所からようやく出てきて、ノヴォ・ドニェルツポリに着いたあの日は。


(お前が軍人だったせいで、俺も母さんも仕事をなくしたんだ。だったら、カマラはどうする? ……カマラには苦労をさせたくない。それはお前だって同じ気持ちだものな?)


 ――だったら、僕は? 僕はどうしたらいいの?


 一文無しで、何もできないのに、暮らしていけるはずがないじゃないか。


(お前は、軍人年金で食っていけるだろう。人殺しに金をやるなんておかしな話だが、エース様に一銭も払わないなんてことはあるまい……分かったらさっさとどこにでも行け! 男なら一人で生きていくもんだッ!)


(残念ですが、)だが、軍の担当者は冷たく言い放った。(アナタには軍人年金の受給資格がありません)


 ――どうしてですか。僕は人生をこの国に捧げたのに。僕には希望があったはずなのに、それを全て黒色に塗り潰されたのに、どうして何ももらえないのですか。


(この間、法改正がありましたでしょう。軍人年金の受給対象者は、戦前から軍人である必要があります。元々アナタは軍事教練を受けた民間人協力者という立場だった。それが中尉に上り詰めるまでに至ったということには敬意を表しますが、当官としましては、法に則って対処するしかないのです。どうかご理解を)


 どこも苦しいと、誰かが言った。


 分かってくれ、と皆が言う。


 それは当然だ。戦争に負けて、賠償金が積み上げられて、戦後不況でスタグフレーション。どこに行っても不況不況の不況和音。そりゃ、誰だって苦しい。それは分かっている。


(だが、それなら僕の苦しみは誰が分かってくれるんだ?)


 真っ先に思いついたのは、カマラだった。


 両親は、カマラには何も伝えていないようだった。彼女には純粋でいてほしいというのが、彼らの考えなのだろう。その兄は不純で、穢れているとでも言うのだろう。誰のせいでそうなったのか、少しも考えもしていないのだ。


 だが――それでも、ユーリは彼女に会う気がしなかった。連絡先は実家に帰ったとき盗み見たので知っていたが、それに電話をかけることも、(恐らく)大学近くの引っ越し先に行くこともできなかった。


 できるはずがない。


 それは、彼女の人生に寄りかかることに他ならないからだ。


 もう既に、ユーリは一度それをしている。


 そして、その関係を彼は自ら壊したのだ――両親のことを笑えないほど、手酷く。


 そして、戦争に行って。


 そして、負けた。


 六年。


 あれから六年が経った。


 捕虜になったユーリを待っていたのは、強制収容所での日々だった。嫌がらせのような寒冷惑星に閉じ込められ、ほとんど刑務所のような環境で、刑務所より悪い扱いを受けた。食事も制限され、その代わり収容所内での労働は義務付けられていた。働けなくなれば、着の身着のままで外に放逐され、全ては雪の中に消された。表向きは、不慮の病死にでもなっているのだろう。尤も、当時は捕虜などいないというのが公式発表だったようだが。ユーリが生き残れたのは、単に若く、運もよかったから、ただそれだけだった。それでも、捕虜交換がなければどうなっていたことか?


 そうして帰ってきたユーリに突き付けられたのは、戦争で滅茶苦茶になった国と自分である。一か月だけ軍病院に入院した後、軍人年金を断られ、両親には搾取された上こっぴどく拒絶され、手元に残った少額の金で何とかそこら辺の安アパートに居ついたのだ。それから職を転々とした後、ふと思い出したように中華屋に詫びを入れに行って、そこで何とか食い扶持を稼いでいた。


 が、その辛うじてできていた信頼関係も、今しがた破綻したところだった。もう、ユーリに残されたものは、少なくとも彼には、思い浮かばなかった。


(死……)


 ふと思い浮かんだイメージは、今や妄想ではなく現実だった。ほとんどない貯蓄は三日もすればなくなるだろう。そうなれば何も買えない。どこにも行けない。携帯も水道も電気も全て止まれば、完全に孤立する。数年来の異常気象で凍り付く街の中では、無料で暖を取れる場所などない。今朝もホームレスの凍死事件が報じられていた。その仲間に入るのも遠い未来ではないのだろう。


 惨めに、ちっぽけに、苦しんで死んでいく。


 ユーリには、急にそれが嫌になった。終戦からずっと付きまとっていたその印象が馴れ馴れしく近づいてくることに、恐怖を感じた。凍えて死ぬのだけは嫌だった。今だって寒いのに、どうしたって死ぬときにまでその苦痛を味わわなければならないのだろう。何か、逃げ道はないのか? 二度と苦痛を味わわずに済む最終解決案が……。


「…………」


 視線が、ゆっくり狭い台所に向けられる。シンクとコンロがちまっと置いてあるそこには、ロクに使っていない包丁がむき身でおいてある。その輝きは誘惑する。妖しい光を放って、ユーリという蛾を電気網の方へ近づけようとする。彼は立ち上がる。揺れながら歩く、その距離はそれほど遠くはない。すっと右手が伸びる。柄に触れる。首筋に触れる。刃に触れる。血。ぽたりと垂れて、凍る――


「!」


 その幻想が止まったのは、いつの間にか本当に立ち上がっていたユーリの背後で、携帯端末がまたも着信を知らせていたからだ。若干の鬱陶しさを感じながら、彼は行動(何に対する?)を中断し、それを手に取ると相手を確認して――溜息を吐く。それから三秒待って、ようやく通話ボタンを押した。


「……はい」


『もしもし、ユーちゃん? 元気?』


 見間違いかと信じたかったが、シャーロットであった。前の携帯端末はコロニーと一緒に宇宙の藻屑になっているのに、彼女はどこからか彼の連絡先を聞きつけたようで、ある日突然電話がかかってきて以来、何度か会うようになっていた。


「たった今、」が、今は会いたくない。彼女のエネルギーというのは、今ではユーリの持つそれと反発し合うようになっていたからだ。「すっからかんになったところだ……切ってもいいか」


『もしよかったらだけど』彼女は、このとき彼の話を聞かなかった。『ご飯でも行かない? 私もようやく一仕事終わって、でも一人で食べるの何か寂しくてさ』


「そうか、だったら適当にそこら辺の居酒屋にでも入るんだな。いくらでも聞いてくれる人がいるだろうよ」


『いつものファミレスでいいからさ。ユーちゃん付き合ってよ。というか、もう着いちゃったし、待ってるね。それじゃ!』


「おい! ……」


 通話は切られた。さっきとはまた別の絶望感に苛まれながらも、ユーリは、さっきまで何を考えていたのかも忘れて、上着を着てさっさと出掛けることにした。


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