第205話 吹雪、山荘にて
その日のノヴォ・ドニェルツポリ本星は吹雪だった。
珍しいことでもない。かつて革命評議会政府が首都としていたこの惑星が何故ムゾコンにその座を譲り渡したかといえば、支配領域の拡大に伴って現在のノヴォ・ドニェルツポリが地理的な中心から外れたということもあるが、その数年ほどの気候が耐え難いほど過酷だったという説もある。当時算出された、これから更に寒冷化するという一つの学説がその決定を後押しした……というのだ。
無論、その予想が完全に正しかったわけではないし仮説もまた現在では否定されつつあるが……しかし今年の気候は異常であった。年始の火山噴火の影響で恒星からの光が遮られ、まだ秋口だというのに視界は真っ白で何も見えないと感じられるほどだった。
しかし、そのホワイトアウトしかけた視界の中を彼女は車で泳ぐ――建物も疎らな田舎道には他に車は見えない。それはむしろ彼女を安心させるものだったが。
やがて車は一つのコテージの前で止まった。木造のそれは古びてはいるが、よく手入れされてもいる。その出入り口まで彼女は階段を上ると、呼び鈴を鳴らした。
「やあ」家主の年老いた男は若干時間をかけてそこから顔を出した。「寒いだろう、入りなさい」
彼女はコートを脱ぎながらその老人の勧めに従った。そうして寒さを遮る二重構造の玄関の先へ行くと、老人一人が暮らすのにちょうどいい程度の広さの部屋が姿を表す。そこを満たしている暖気は暖炉だけからもたらされていると彼女は知っていた。
「若い頃は都会のど真ん中に大きな邸宅を持って住んでこそ、だと思ったがね。今はこのコテージでも少し余計なぐらいだよ――老い、というものだろう。こうはなりたくないと思っていたのにね」
老人は朗らかにそう嘆きながらリビングにたどり着くと、そこにある衣紋掛けを指し示した。それに従って彼女がコートをかけている間に、彼はその向こうにあるキッチンへ行って紅茶の準備をし始めた。それに彼女が気づく頃には、手際よく彼はポットに茶葉とお湯を入れ終えて運んでいた。
「最近はこれだけが生きがいなんだ。もう私には、国の中枢で政治闘争をやろうっていう気概はない――尤も、それは他の人にとってもありがたいことではあるのだろう」
彼女は、そんなことはない、アナタは未だにこの混沌としたドニェルツポリの国内情勢で一つの役割を担っている――と反駁したが、それはもう長くないと言う老人の言葉を謙遜と捉えるのと同じ類のミスだった。その証拠に、彼女の言葉を老人はただ無言で首を横に振るうだけで切り払った。
「私は老いたよ、老いを自覚できる程度には。かつての私は、自分がもう大した能力も、それをカバーできるだけの経験もないというのに突っ走ることだけ覚えて生きていた――いや、」
彼は紅茶をポットからそれぞれのカップへ注いだ。しかしそれは最早濃く出過ぎていたし、何より冷めすぎている。暖炉があったとしても、それはどういうわけか彼女らのいるところまでは届かない。何もかもが遠くにある。
「この国自体が、そうだったんだろう――」彼が見つめる先も、そういう類のものだった。「独立戦争を勝ち抜いたからと言って、それは沈みゆく船から辛うじて逃げ出したに過ぎなかったんだ。そうして自分がしがみついた板切れを船だと勘違いして、実際には傾きながらも健在だった船に轢き潰された……ということだろう」
一つだけ違うところがある、というようなことを彼女は言った。それは看過できない相違だった。老人もそう思ったようで、首を縦に振った。
「ああ、そうだね。この国はまだ――老いてはいなかった。未熟だったというだけのことだった。未熟であるからにはやり直すこともできるだろう。しかし……」
しかし失いすぎた。
若さ故の過ち。
しかしそれも過ぎれば重い十字架となって圧し掛かる。
「多くの若者が死んだ。死にすぎた。誰一人、死んではならない人々だったというのに、私たち老人はそれを忘れて、彼ら自身のためだと戦火の中に身を投げ出させた。戦わぬ先に想像していた未来が本当に来るのかどうかも確かめずに、戦わずに済む本当の方法を探しもせずに、とにかく列を後ろから前へ押し出した」
老人は紅茶をグッと煽った。それはウィスキーでもなければニホンシュでもない。一切のアルコール分を含まない以上は、何も押し流してはくれない。
「結果、」喉に引っかかる悔恨が気道から上がって、老人の瞳から溢れる。「この国に残ったものは何だ? ……奪われた土地と財産。誰かの家族だった人々。堆く積みあがった戦費の請求書――そして、大いなる政治的分断。あれほど一致団結していた国が、今やデモと暴動に覆い尽くされている。何人もの人々が、そのせいで亡くなっている。戦前では考えられなかったことだ」
彼女は、老人にハンカチを手渡そうとした。しかし、彼はそれを手で制して、自分のそれを懐から取り出した。それは彼のけじめだった。そう彼女が気づいたとき、彼の口から絶望がまろび出た。
「戦争は来た。そして残った――敵と味方に世界を切り分ける文法が全てを塗り替えてしまった。それが剥がれ落ちて本来あるべき下地が現れるまで、私の命はもたないだろう。それがよいことなのか、それとも悪いことなのかはまだ分からないけれども、ね」
彼女はそのとき、言葉を失った。老人の言葉が、まるで深淵の向こう側から来るような響きを以て感じられたからだ。一瞬でそれに飲み込まれてしまうような錯覚。それに立ち竦んだのだ。
彼女が特別なのではない。
誰もがそうなるだろう。この老人の持っている深みというのは、単なる見せかけのものではない。まるで大木の年輪のように、それを醸し出すに足る経験が顔や言葉の節々から表出しているのである。それに抗える人間はいない。
だが、仮に彼女を特別な人間だとするならば、その特別さは――その闇の中でも立ち上がり、それと対峙し、力強い視線を返してみせた、という点にあるのだろう。
「その目――」すぐに、老人も彼女の視線に気がついた。「君はまだ諦めていない、のだろうね。この国はまだやり直せるのだと。失ったものも取り戻せるのだと。仮にそれが不可能でも、また作り上げればいいのだと――」
ふと、老人は顔を上げた。そこには光がある。いや、彼の目の前にこそあるのだ。若い才能が暖炉の火も受けずに燃え上がっている。静かな決意の炎が――
「しかし、」老人は一つ留保を付け加えた。「私は君が政治家になることには反対だ。君の背負っているバックボーンをフルに活かせば君の夢を叶えることはそう難しくはないだろう。だが――君はエンラスクス大統領の本当の死因を知るまい」
彼女は首を傾げた。本当の、という言葉が引っかかったのだ。確か、彼女は戦争を継続させようとして、反戦主義者の投げた爆弾によって即死したのではなかったか?
しかし、その問いに対して、老人は首を横に振る。彼は知っていた。真相――そんなものは知りたくなかったのだろうが。
「あれは単なるテロではない。平時ならともかく、戦時だというのに内務省が大統領暗殺計画などという代物に無知でいられたと思うかね? 彼らは知っていた。それなのに無視をした。それも計画的に、だ。国防省と組んで、自らに都合のいい大統領をトップにつけるために、今の自分の上司を手にかけたのだ」
嘆息しながら、証拠はあるのですか、と彼女が言う。信じ難いことだ。国家の背骨ともいえる暴力装置が揃って離反したことがあると?
「ふ」しかし、そこで老人は首を横に振った。「今のは老人の妄言だよ。現状、何ら手元に証拠はない。明日隕石が降ってくると往来で騒ぐのとさして変わらない――少なくとも、今は」
……話が逸れたね、と老人は言った。すっかり冷めたポットの中身をそれでもカップに注ぎながら、彼は言う。
「問題は、今の政治とはそういうものだ、ということだ――一方を立てれば、一方が立たない。それを押し通せば命すら落としかねないというのが、今の我が国の現状だ。反戦を唱えれば右翼に刺され、軍拡を叫べば左翼に撃たれる。中立を宣言すれば双方から十字砲火だ。それでも行くというのかね」
「はい」彼女は、即答した。「私は、この国を救わなければなりません。それは、姉が大統領だったとか、その結果志半ばで命を落としたとか、そういうことは関係ないのです。私は、約束しなければなりませんから」
「約束?」老人は、首を傾げる。「……しなければならない?」
「はい。そもそも政治とはそういうものではないでしょうか? 過去を踏まえ、今を築き、未来へ紡ぐ。裏を返せば、未来に対して過去よりいい今を約束しなければならない。今この国が傾いているのだとしても、それをそのままにして、看過してしまうことは、私にはできません。そうすれば、未来に対して課題ではなく問題を残すことになる。それは私の理想に反します」
「しかし、それはエゴではないのかね、君自身の理想に過ぎない以上は」
「否定はしません――いえ、肯定します。ですが、理想なしに何を成すことができるでしょうか? まず道のゴミを拾おうという気持ちがなければ町が綺麗になることがないように、前途多難だとしてもまず街頭に立ち声を上げることでしか物事は変えられないのです。千里の道も一歩から――尤も、今の私にはその一歩を踏み出すだけの力すらないわけですが――故に、私はアナタに頼み込んでいるのです」
「私に? 言っただろう、私はただの老いぼれで――」
「いいえ、アナタならできるはずです。戦後の混乱の中、分裂した各党を何とかまとめ上げ、最低限国家の形を維持したアナタなら――イリヤ・ヘルムホルツ元大統領閣下ならば」
そう言って、彼女は立ち上がり、頭を深く深く下げた。よろしく、ともお願い、とも言わなかった。まるでそれはフェンシングで乾坤一擲繰り出した突きのようだった。それが深々と突き刺さる――
「ふ」イリヤは、久々に心から笑った。「はははは……なるほど、そう来たか、それは断れないな」
「本当ですか」
「ふと、大統領閣下の言ったことを思い出したよ。彼女も諸手を上げて褒め殺しにするのが得意な人だった。それで騙されてよく酷い目に遭わされたものだよ。全く、こんな目にも遭わされるのか、エレーナめ。死んで化けて出てやるぞ」
冗談めかしてそういうと、イリヤは携帯端末を取り出して、どこかへ連絡を取り出した。党の幹部クラスの名前が飛び出したのを聞いて、彼女は通話相手に想像をつけた。数分の間、若干揉めるような声色のときもあったが、恙なく通話を終えると、イリヤは端末を懐に仕舞った。
「一応、ヤルーザには連絡をつけておいた――近日中に君が話に行くとな。あとで番号を送る……が、ここからは保証してやれんぞ? アイツには貸しがあるから、邪険にはしないと思うが、そこから気に入られるかどうかは君の度量次第だ。学生のアルバイト気分では、厳しいぞ」
「上等です。卒業と同時に当選するのが私の目標ですから」
「それは野心的なことだが――不思議だな、君にならばできると感じるよ」
「ありがとうございます、閣下」
そう言って、彼女は立ち上がる。紅茶の残りを頂いてから、コートを取って、玄関へ――逸る気持ちは、既に先のことを考えてしまう。ヤルーザと言えば、「国民の自由」党の選対委員長だ。中堅で、これからこの国を担っていく存在であろう。ここで覚えめでたければ、将来的なプランは相当前倒しできる。前倒しできれば、それだけ彼を救うことにも繋がる――
「シャーロット・エンラスクス!」ドアを開けた、その瞬間イリヤが叫んだ。「君の前途に、幸あらんことを!」
「ええ、閣下にも――」振り返って、彼女は言う。「御機嫌よう!」
さようなら、とイリヤが返したのは、外の吹雪のせいで聞き取れなかった。
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