第202話 神の不在証明書
エーリッヒはそれを見届けると、コックピットシートを足場にしてデブリへ飛ぼうとした。何もないところに浮いているよりも、何かにしがみついている方が発見される確率が高い。何より今の内に敵から逃れようとしたのだ。
が、その前に突然壁が立ちはだかる。「白い十一番」が割り込んだのだ。既に脱出したことに気づかれていた。スラスターを持たないエーリッヒはそれから逃れるどころか、避けることすらままならない。一番構造上弱くなっているバイザーを守るように丸い姿勢を作って「ミニットマン」の分厚い正面装甲の上で彼は跳ねた。反動で体は回転し、真空の宇宙を宛てもなく漂い出す――ところだったのを、「白い十一番」は手で受け止めた。
「……ッ、何だ、お前はッ!」
エーリッヒはそれを情けがかけられたように感じた。あるいは情けなかった。何度も挑んで一度も勝てず、それどころか二度も撃墜されるなど、耐え難い屈辱だった。その屈辱という傷に「白い十一番」は温情という塩水をかけたのだ。それはエーリッヒをしてその精神を激烈に反応するマグネシウムに変化させた。
「それで僕に勝ったつもりか! ああそうだろう撃墜されたのは僕だ。だがそれはお前が勝ったことを意味しない。お前を引き付けている間、僕の仲間がお前の母艦を沈めた。お前も見ただろう、あれは対艦ミサイルの直撃弾だ。旗艦が沈んだ以上、お前らの負けだ! お前は勝負に勝ったかもしれないが、戦争には負けたんだ!」
ぎろ、と「ミニットマン」の頭部ヴィジュアル・センサーを睨みつける。その細く輝くスリットの横には、ビームバルカンが左右一丁ずつ装備されている。対エンハンサー戦ではセンサーを潰すぐらいにしか役に立たないが、生身の人間を殺すには充分すぎる装備だ。
「今お前は僕の生殺与奪の権を握っていると思っているな? なるほどそれは事実だ。殺したければ殺せばいい。お前の好きなようにすればいい。だがそうしたところでお前が勝ったことにはならない!」
「白い十一番」は何も言わない。わざわざドニェルツポリ語――士官学校時代に習った――で話しているというのに、何故だ? それが分からなくて、エーリッヒは苛立った。相手にされていないように感じた。
「この戦争だってそうだ。お前たちは包囲され、殲滅され、敗北した。この愚かな作戦を考えた中央の連中が、誰か一人でもお前たちを助けに来たか? そういう計画を考えたか? ――違うだろう? ならば、お前たちは見捨てられたんだ。無様だなァ、救国の英雄も結局はお偉方の使い捨ての尻尾というわけだろッ⁉」
返事はない。ぎり、とエーリッヒは、奥歯を噛んだ。
「悔しいか、悔しいだろう、空しいだろうッ。だったら殺せよ! 早く殺せ! 何を迷ってる、人殺しの癖にッ! お前の『白い十一番』という二つ名は、プディーツァ人の赤い血でできているんだろうが! 今更、その犠牲者に一人加わったからって、何が変わるというんだ、えぇッ⁉」
やはり、返答はない。エーリッヒの我慢は限界に達した。彼は拳銃を抜き、スライドを引いて初弾を装填して、「ミニットマン」の頭部に向かって撃った。一発、二発――すぐに弾倉に入っている九ミリ弾は撃ち尽くされて、スライドが後退したまま停止した。エーリッヒは、最後の抵抗が終わったとばかりに、拳銃を捨てた。予備の弾倉はない。これで、本当に丸腰だ。
「…………」
その姿を見て、ユーリは何故自分が引き金を引かなかったのか、そのときようやく分かった気がした。
なるほどこの男には恋人を殺され、少なくとも自分を愛してはくれた人も殺された。それが自分のせいだと彼は一時はそう思っていたのだけれど、実際に戦ってみると、戦えてしまった。軍にいるからとかカマラに語ったような自暴自棄な感情ではなくて、心の内から湧き上がる殺意のようなものが抑えられなかった。
だから彼としては、自分はきっとこの男のことをやはり憎んでいるのだろうと思った。責任転嫁は責任転嫁でしているのだろうが、それだけではないらしいと分かった。
だがこうして、己の敵を生身に剥いて掌の上に乗せると――どうにも、殺す気にならなかった。
一生を賭けて追いかけた敵が思ったより小物だったという哀れみや、生身の人間は殺せないというような甘えではない。それらが呼び起こすのは躊躇いだ。そうではなくて、もっと根本的に、引き金を引くという動作に意義を感じられなかった。
どう言い表せばいいのだろう。一番近い感情は知っている。そしてそれは、彼にとって何も珍しい類のそれではなかった。
(面倒臭い)結論から言えば、そういうことだった。(んだよな……)
面倒臭い――殺すのが、ではない。
全てが、だ。
仲間だとか国家だとか恋人だとか母艦だとか勝負だとか戦争だとか、彼はこの世の全てが嫌になっていた。何故ならそれらは、それら固有の理屈を以て彼をあーでもないこーでもないと振り回すからだ。「何かのためなら戦える」「何かを守るために」……その理屈のせいで彼はこうまで疲れ切ってしまったのだ。
その疲労感から来る忌避感が、もののついでにユーリに引き金を引かせなかった、ということなのだ。
そしてそのことは、彼にコックピットを開かせる理由にもなった。
「!」
ペダルを踏むと、コックピット内の空気が抜かれて、それから下に向かってシートはせり出していった。それをユーリはサブモニターにもたれかかるようにして待った。それがようやく停止すると、じっと目の前のプディーツァ軍士官を見た。
「…………ッ」バイザー越しに若い真面目そうな顔を晒している彼は、しばらくは面食らっているようだったが、すぐに持ち直した。「何だよ、銃を撃ち尽くしたら、出てくるのかよ」
そう言われて、ユーリはしまった、と思った。相手は銃を撃ち切って、捨ててしまっていたからだ。そこに関して彼は何も考えていなかった。思わず身を起こして、考えて、それから自分のを渡せばいいと気づいた。腰についているホルスターからそれを抜き取ると、ブーメランのようにして敵士官に投げた。
「⁉」彼は、受け取りつつも、今度こそ驚きを隠せないようだった。「これは、何だ?」
「モノを知らん奴だな。M1911という地球製の拳銃だ。見れば分かると思うが?」
「そういう問題じゃない。お前は何故これを渡した? 何の得がお前にある? 僕は、お前を殺そうとしているんだぞ⁉」
「……だからだよ」
「何?」
「僕を殺せ、プディーツァ人。どうやらお前は僕を憎んでいるらしいから、丁度いいだろう?」
エーリッヒは、流石に訝しんだ。殺してもいいというのならやぶさかではないが、いざその殺す相手から頼まれるとなると、二の足を踏もうというものだ。何か、裏があるように思えた。
そして何より――彼には、「白い十一番」は途轍もなく年を取った老人のように見えた。
決して、バイザーの向こう側が見えたわけでもない。恒星の光を遮る遮光フィルターを「白い十一番」は下ろしていた。距離もあって、これではよく見えない。
それに、そもそも老人だということがあり得ないことはエーリッヒも理解している。噂によれば、彼は一六歳――多少年月が経っているから一七歳かもしれないが、だがその場合でも七一歳ではあり得ないわけだ。
つまり、この年老いたというのは物理的なものではなく、印象の問題だった――「白い十一番」という若者から発せられるオーラが、長年放置されてきた空き家のようにくたびれて、戸を蹴とばせば全体が崩れるような雰囲気を纏っているのだ。
その物理的情報と精神的印象の食い違いが、一瞬エーリッヒを戸惑わせた。
そう、一瞬だった。
エーリッヒは、拳銃を向けた。
「そうだ。いいぞ」目の前の若い老爺はにやりと笑った。「しっかり狙え。今時の銃と違って七発しか弾はないからな」
「黙れ」その顔が、エーリッヒを不快にさせた。「お前は僕の恋人を殺した。仲間も何人も殺した。その報いは受けさせる」
結局、そういうことだった。若くして老いた精神を持っている、だから何だというのだ?
目の前にいるのは、あの「白い十一番」なのだ。ブリットだけではない、ヴァルデッラバノ少佐やナガタ中尉、ニキーチナ中尉。その他名前も知らない沢山のプディーツァ兵をこの男は殺してきたのだ。その仇を取らずしては、生きて帰れない。
さもなければ何のためにここまで来たというのか?
「…………」しかし、撃つなど、いつでもできることだ。「聞きたいことがある」
「何だ」
「お前は、何故死にたがっている。その理由が知りたい」
自分が戦ってきた男が、ただの自殺志願者なわけがない。もしそうだとすれば、自分が今までコイツを殺すためだけに払ってきた情熱が毀損されるような気がした。そんなことはあってはならないのだ。
「死にたがってなどいない。」それは、意外な答えだった。「この肉体とこの世界から退場するのに他に方法がないからそう言っているだけだ」
「同じことだろう。同じ定義をお前は小難しいことのように言っているだけだ。お前は死にたいんだ」
「僕にとっては違うな。死ぬというのは動作だ。だが残念ながら僕はもうあらゆる動作をするつもりがない。したくないのだ」
「したくない?」
「面倒臭い、というのが近い」
「…………」静かに、腹の底で怒りを感じた、が抑えた。「面倒臭いだと?」
「そうだ。僕はもう、殺したり殺されたりには疲れた。顔も知らない他人から英雄と呼ばれることにも、だ。この世の全ては僕を苦しめる。だからこの世界との接触を断って、何もない世界に一人でいたいと思った。だがそのためには肉体が邪魔になる――でもそれは、丁度、お前が殺したがっているようだったからな。仇を討たせてやれば、後腐れもないと思った」
「僕の悲願は、お情けか。その程度のことだと思っているのか⁉」
「僕にとっては、全てのものは等しく無価値だ。これからいなくなる世界のものなんていうのはな」
エーリッヒは引き金を引いた。地球で使うよう設計された古びた拳銃は、残念ながら目標をわずかに逸れ、「白い十一番」のヘルメットの右側を掠めただけだった。
「……」一瞬、その方を横目で彼は見る。「いいぞ、その調子だ。次はもう少し左を狙うといい」
エーリッヒは、反動で揺れる体を「ミニットマン」の大きな手に押し付けて止めると、もう一度狙いをつけた。彼には合点がいった。この糞野郎は、僕の大切な人たちを殺したことを反省して死にたいのではない。あくまで自分が疲れたから死にたいと言っているのだ。こんな糞野郎は殺してしまった方が世のため人のためだ。
感じたこともないどす黒い殺意がエーリッヒの毛細血管の隅々まで支配していく。その漆黒は、指先に絡みついて、そのまま引き金を引けと囁いてくる。エーリッヒはその呼び声に従って、「白い十一番」の着ている地球製宇宙服のバイザーを、フロントサイトとリアサイトでできる一直線上に捉えた。そのとき、一つのデブリが他のデブリの直撃を受けて動いた。恒星の光が差すようになり、バイザーがそれを吸い込んで光る。
「…………!」
そしてその下に届いて、少年の顔を映す。
疲れ切って落ち窪んだ瞳。そこにあるのは輝きではなくヘドロのような澱みだけである。更にその焦点は合っていない。典型的な「千ヤードの凝視」だ。口元はだらしなく垂れ下がり、何の感情も想起しない。なるほど、老人のような印象を受けるわけだ、こんな生気の抜けた表情をしていたのだから。
だが、そんな表情をさせるきっかけを作ったのは、一体誰だ?
一体何なのだ――といえば、当然、プディーツァであろう。
自分の国が攻め込んだせいで、この少年は戦うことを選ぶしかなくなり、人を殺した。
そして、こうまで壊れてしまった。
その上、その命まで今奪おうとしている。
それが、自分の目指していた目標だろうか? 求めるべき結果だろうか? 果たすべき復讐だろうか?
(そんなはずが、ないだろう……!)
エーリッヒは、拳銃を天に向けた。だが宇宙に上下はない――天地はない。だとすれば恐らく神も管轄外だろう。七日間で作った世界の外側だ。
だが、彼はそのまま引き金を引いた。六回の銃声。それきり、ブローニングのスライドは後退したままぴたりと動かなくなった。
そして彼も動かなくなった。そのまま力を抜いて、ふわりと宙に浮く。「白い十一番」に奪われたあらゆる人の顔が思い浮かんでは消えていく。悲しんでいるような、喜んでいるような、どちらともいえない顔をして。
エーリッヒは叫んだ。まるでそのとき初めて世界に生まれ落ちたように叫んだ。ここにお前が救うべき人間がいるということを、官僚的な仕事しかしない神に知らせるように。
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