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第20話 約束

「…………」


 ユーリが目を開けると、光量を絞った赤いランプの不吉な色が目に入って、すぐさま不愉快になった。そのむかむかとする感覚を胸の中で増幅させながら、彼は寝袋の前を開け、体を起こした。その衣擦れ以外何も聞こえないのは、配管が剥き出しの軍艦らしい船室にびっしりと同じような寝袋がそこかしこに固定されていて、その誰もが眠っているからだった。


 すると彼は何も言わずに隣の寝袋を見た。そこにあるシャーロットの顔には、涙の痕がまだつうっと残っている。瞼はその河の水量の分だけ腫れていて、彼女の整った顔立ちと相まって痛々し気だった。


(とはいえ、泣き疲れて寝てくれるだけマシ、なのだろうな……?)


 取り調べを終えこの部屋を割り当てられた直後の彼女は、きっとその最中に配慮があったとはいえ惨状を思い出してしまったのだろう、酷く取り乱した様子だった。ただ部屋の何もない一点を見つめ、リズムの狂った呼吸を繰り返すだけ。声をかければ反応は返すが、どこかその声の調子もボタンを掛け違えたようなテンポ感で、普段の明るい彼女とは別人のように思えた。


 今考えれば、それは決壊しかけているダムの振動と同じようなものだったのだ。ユーリがその異様な表情に圧倒されて手を差し伸べあぐねている間に、彼女は急にボロボロと泣き出し、一時は軍医が来る事態となった。


 そのときの雰囲気も残るその頬に、彼は静かに触れた……しとり、と指の背に体温の感触があって、それは彼女が死んでいるのではなく、ただ眠っているのだという確かな証拠のように彼には感じられた。しかしそのとき彼女が身動ぎしたので、彼は起こさぬよう、すぐさまその手を引っ込めた。すると、空調を制限している寒い艦内の中に彼女の涙の温度は拡散し、消え去ってしまう。一転して無価値になった指先の雫を彼は虚しさと共に振り払った。


 どうでもいいのだ。


 こんなことをしていても、少しも眠くはならないのだから。


「…………」


 無論、体の疲れがないわけはなかった。軍用エンハンサーのハイパワーとそれを制御するための諸装置は即ちパイロットへの負荷とのトレードで成り立っている。軍事教練のお遊戯チックな編隊演習でさえ、帰りつくや否や寝床へ飛び込みたくなるほどの疲れを彼の肉体に与えるのだから、戦闘機動――果ては撃墜されたときの衝撃が、体へ被害を与えていないはずがない。


 だのに、彼の無意識は眠ることをよしとしてくれなかった。本能に統御された肉体は明白に何をすべきか感じ取っていたが、それでいて意識を保ち続けるという二律背反を犯していた。


 そして、その理由を、彼の理性は知っていた――懐から取り出した自分のホログラフィック式の通信端末に表示される時刻は、二十三時を少し過ぎたところ。


 そう。


 ルドルフとの約束の時間である。


(……あれが、約束なものか。ただの押し付けじゃないか!)


 そう口の中で言葉を噛み殺して、彼は眩しいだけの通信端末をポケットにしまった、どうせインターネット回線になど繋がっていないのだから、暇つぶしにもならない――それから彼は寝袋に頭まで潜った。赤い光もない完全な暗闇ならば眠れるのではないかという考えだった。熱い湯船に肩まで浸かるように、十秒、二十秒……しかしそこまでが彼の息の保つ限界だった。


「……クソッ」


 彼はザバリと音を立ててその布の水面から上体を起こし、何かに追い立てられるような心持ちでそこから抜け出した。ほとんど無重力の中で寝台を蹴って向かった先は当然部屋のドアである。その前に音もなく着地すると、彼はその開閉スイッチに手をかけ、押――そうとした。


「……!」


 しかし彼は次の瞬間驚いて手を退けた。彼がそのひんやりとした温度に触れようとした途端、ドアの方が独りでに開き出したからだ。彼は咄嗟に一歩だけ飛び退いたが、それ以上のことは二重の意味でできなかった。


 一つは、単純にそれだけの時間の余裕がなかったこと。


 そしてもう一つは――そこにいた人物。


「ルドル、フ……!」


 それが、彼が今最も出会いたくない男だったということだった。


「……何だ、やはりまだここにいたのか。時間はとうに過ぎているんだぞ?」


 いつもより少し乱れたヒゲを揺らしながら、彼は半分は呆れたように、もう半分は無関心を伴ってそう言った。その表情の無感動さは、ユーリが思わずファーストネームで呼び捨てにしてしまったことなど聞こえていなかったかのようで、事実、それを裏づけるかのように彼はユーリに何も言わずに背を向けた。


「……何をしている?」しかし、ユーリは動かなかった。それに気がついたルドルフは振り返ってそう言った。「まさかその歳で寝小便したわけでもあるまい。早く来い」


「……行くって、どこにですか?」


「言ったろうがな? 格納庫だ……色々都合もあるのだ、つべこべ言わずに来い」


「また勝手を言う……! 僕が行くとでも思っていたんですか? あんな言い方をしておいて、僕が言うことを聞くとでも?」


「なら、」そう言うルドルフの表情は、どこか嘲笑するようにユーリには感じられた。「何故扉の前に都合よくいたのだ? 何か他に部屋の外へ出る用事があったのか?」


「それは……」


 それは――何もなかった。


 その虚無を誤魔化そうとしても、ユーリは咄嗟に何も言えなかった。


 だがいくらでも言い訳はついたはずなのだ、事実「寝小便」という単語から彼は咄嗟に「トイレに行こうとしていた」というそれを考えついてはいた。


 しかし、それが口を突くことはなかった――何故か?


 自分自身でもその言い訳ではなく沈黙を選択していることに説明がつかなかった。


 単にそれがやや苦しいものであるからというだけではない。彼が直面していたのはまるで何か目に見えない巨大な力が彼の唇の上下を貼り合わせているかのようだった。不可視であるが故に、逆らうことのできないその力が果たして内から来るものなのか外から来るものなのかも彼には分からなかった。


 あるいは、その両方なのか――何にしてもそれが生み出した沈黙は、虚無ということの何よりの証拠であるとルドルフは判断したようだった。軽く鼻で笑うと振り返って。勝手に歩き始めた。


「まだ行くなんて言ってないでしょ――」


 それに気づいて慌てて追いかけたユーリの鼻面を、何か大きなものがぬるりと覆った。反射的にそれを右手で払おうとしてその行為自体は果たせたが、それはぐにゃりと絡みついてきて、その幽霊じみた不気味さに彼は一瞬たじろいだ。


「……ッ、何です⁉」


「見れば分かるだろう。早くそれを着ろ」


 そう言われて初めて、ユーリは無抵抗さの向こう側にある硬い感触の正体に見当がついた。自分の手に引っかかるそれを広げてみると、やはりそれは宇宙服だった。それにハッとなって顔を上げる。ルドルフが宇宙服を着ていたことに気がついたからだった。


「……どういうことです? 何だってこんなものが必要になるんですか?」


「そんな分かり切ったことを言う必要があるのか?」


 つまり艦の外に出る用事だということらしかった。格納庫に集合というのも、出口がそこにあるからということに違いない。ユーリはそう判断すると、宇宙服を引っ掴みながら一人で歩き出すルドルフを追いかけた。


「ちょっと待ってくださいよ――じゃあ、外に出るんですか?」


「そうだ」


「何故です? 一体何だってそんなこと……」


「それは、」ルドルフは足を止めない。「貴様に現実を見せるためだ」


「現実……?」


 嫌らしい言葉だ。そう思ってユーリは思わず顔をしかめる。


「コロニーが吹き飛んだって話なら、もう聞きましたよ」


「百聞は一見に如かず。だのに貴様はその百分の一だろう。分かったようなツラをするな」


「だとして、戦争になったってことぐらい分かっていますよ! エンハンサーに追い回されて……乗り回しもしたんですから、その位は、」


「『その位』しか分かっていないということだ、格納庫での貴様の物言いはその程度でしかなかった――そして、今もな」


「だから、何故そんなことが言い切れるんです」


「顔にそう書いてあるからだ。だからこうして補習する必要がある……それとも、」


 今度こそ、ルドルフは歩みを止めて、振り返った。


「それとも、怖いのか? 信じたくない光景を自分の目の前に写すのが。自分の考えが何もかも粉々に打ち砕かれるのが。貴様の信じる理想と目の前の現実の間にある、埋めがたい相克に立ち向かうのが。」


 そう言うルドルフの目がジロリとユーリを竦ませた。それは字面からそう感じられるような挑発ではなく勧誘でもない。少なくともユーリにはそう感じられたのだった、少なくともルドルフの口の上に鎮座するカイゼル髭はそう言っていた。軍事教練で彼にすっかり馴染んだある種の諦観である。


 しかし、それだけでもなかった、というのも事実であるようだった。先ほどまでも感じていたあの得体の知れない力だ。それが彼の中で蠢いて、何か彼が従来従ってきた理性とは別の判断を彼に強いているようだった。いや、強いているという表現は正しくないかもしれない。


「…………だったら、」何故ならそのとき彼は、自分の意志でそれに従うと決めたのだから。「着る時間ぐらいはくださいよ。さっきから、とことこ先を行くから、着られないじゃないですか」


 ルドルフはその物言いに、フンと鼻を鳴らしただけだった。それから、ユーリの方など見向きもせず、まるで先に行くと言わんばかりに、勝手に歩き始めた。


高評価、レビュー、お待ちしております。

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