第19話 戦争が来る!
「ウッ……⁉」
反対に、ユーリの胴体自体が反動で前に押しやられると同時に浮き上がる。構えた腕が何者かに手首のところで掴まれたのだ。反射的に振り返ると、まず目の前にあったのは拳――それを認識するより早く、鼻を中心とした顔に激痛が走り、それから遅ればせながら彼は左手で顔を庇った。すると赤い斑点が無重力の中手の平に一つ二つと貼りついてプルプルと震えていた。
鼻血だ、と彼は遅れてやってきた息苦しさから直感した。それらの点を結んだ星座を辿ってユーリが視線を上げた先に、いつの間にかルドルフがいて、彼の方を見下ろしていた。血の雫の行き先を辿ると、その右拳にそれは縫い付けられている――いつの間にか忍び寄った彼が、ユーリの顔面に一撃を食らわせた、ということらしかった。
「少佐殿!」彼を追って、天井から兵士が追いかけてきたのをルドルフは一瞥した。「一体何を……!」
「見れば分かるだろう、子供の躾だ。聞き分けの悪い生徒には教育的指導が必要だと思うが?」
――子供の躾?
その言葉は、ノーラの言い様と同じような化学変化をユーリの精神にもたらした。
「気に食わないんだよ! 人を子供扱いしてッ……⁉」
が、そう言いながら飛び掛かったその顔に再び右腕が突き刺さった。ルドルフとユーリとの激しい体重差がそのただでさえ大きい反動を更に強化し、ユーリは低重力下故に踏ん張ることもできないまま、ノーラにぶつかる。すると彼を咄嗟に抱き止めるようにした彼女の大きな瞳と目が合って、彼は気まずさにそれを逸らした。
「少佐殿!」しかし反対に、彼女がそうしたのは顔を上げて反駁するためだった。「お言葉ですが、これはあんまりです! 彼は民間人なのですよ⁉ やり方というものが……」
「自分の腹の中にあるものが世界の総意だと思っている内は子供だ――ましてそれを他人に押し付けるのならばな。そしてその評価が気に食わないのだとコイツは言った。なら望む通りに扱ってやる他あるまい」
「だとして、ここまでやる必要があるのですか? 彼は民間人です。軍人だというのならまだしも、これは……ただの暴力ではないですか! こんな一方的な!」
「今は非常時なのだがな? 一々懇切丁寧に説明している暇はない。一方的だろうが何だろうが、民間人にもこちらの言うことを聞かせなければならない。違うか?」
「力で言うことを聞かせておいてッ……」
ユーリはそう言いながら、ルドルフの横暴な言い様に対して湧き上がる怒りのままにノーラの手を振り払って立ち上がった。
「そういうあなたみたいなやり口が、こういう戦争を招いたんじゃないんですか! そうやって話し合うってことをしないから!」
それからそう言い放った、ユーリの顔を冷たい視線が舐めた。ルドルフの視線がノーラから再び彼に移されたのだ。それは、それ自身が纏う温度が低いというだけでなく、同時に抜き身のナイフのように鋭くもあった。ユーリは一歩近づくその姿に、自分がまた殴られるのを予期して、他人には分からない程度に萎縮した……しかし、それ以上の物理的なことというのは起こらなかった。
「戦争を、」その代わりに、心理的なことが起きた。「貴様はそう捉えているのか。その程度のものとして想定しているのか? 本当に?」
そのルドルフの言葉には、先ほどユーリが感じたのとは別種の冷たさがあった。ナイフではなく、氷河に形成されたクレバスのそれ。有無を言わさぬ絶対でありながら、何もできぬ虚無でもある。それはそれに直面した登山家のごとくユーリを今度こそ凍りつかせ、たじろがせた。
「な……に?」
「だから貴様の目は節穴だというんだ。貴様は歴史に精通していると常日頃豪語していたらしいが、本当にこの程度のことも理解していないというのなら、地球に行かせなかったのはやはり正解だったようだな」
地球。
そのワードはユーリの頭を発熱させ、張り付いた氷を一瞬で溶かした。
「じゃあ、僕の留学の件は、やっぱりあなたが……!」
「言っておくがあのニアミスは関係ない。あくまで担当者の判断だろう。そもそも、学園のことに学園長と知り合いだというだけで外様の一教官が口出しできると思うか?」
「だったら、何だってそんなことを話題に出すんです? 関係のないことでしょう⁉」
「要するに、貴様がマジメなだけの馬鹿だということだろうが。だから落第点の願書しか書けないし、戦争が来たのだということも理解できない」
「戦争が……来た?」
その言い回しは、ユーリの鼓膜に変な引っかかり方をした。聞き返しても、どこか喉に刺さった魚の小骨のような違和感があった。その妙な感触が彼の表情をそれに見合ったものに固定し、ルドルフはそれに小さくため息を吐いたのだった。
「……分からんのならいい。それに、今は時間がないからな。貴様の件は後回しだ」
そう言うとルドルフは、さっきから無言のままに存在感を出そうと試みている後ろの兵士にようやく向き直った。その背を見てユーリはようやく正気と怒りとを半々に思い出して叫んでいた。
「ッ、逃げるんですか! 話し合う気がないんなら、誤魔化さずにはっきりそう言えばいいのに!」
「『後で』と言った。時間は二三○○。それまでにここまで来い。いいな?」
「勝手に決めて……!」
「ただ『来るのか、来ないのか』だ。私は伝えたぞ」
ルドルフはそれを捨て台詞にした。煮えたぎるユーリの視線には目もくれず、今度は兵士の促す通りに歩き始める。ユーリはまだ飛び掛かりそうになる衝動に何度か襲われたが、ただブルブルと震えるだけで、実際の行動には移せなかった。長時間精神的な緊張状態を維持していた反動だ。
「……大丈夫か?」
それから一体何秒経ったのだろうか。ユーリはウジェーヌが自分にそう話しかけたことに気づいた。あるいは、自分がそうされたことに気づいたと、受動態で記すべきか――何にしても彼は過度の緊張のもたらした軽い酸欠を多少なりとも落ち着けなくてはならなかった。
「大丈夫――」
じゃ、ない。
そう言う代わりに、彼は兵士が無言で差し出した鼻紙を丸めて血で詰まった方の鼻に詰めた。その遅れてやってくるジンジンとした痛みは、彼の心に刻まれた微かな傷とリンクしているように、彼には感じられた。
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