第160話 「ジェラール」攻勢
こうして、歴史に残る戦いとなる「ジェラール」攻勢は開始された。ドニェルツポリ軍内部での協議と部内政治の結果は、即時攻勢を主張する主戦派の盛り返しという形に終わったのである。
だが、それが機を逸していたのは、オイゲンの言う通りだった。敵は既に主攻がジビャにあることを理解してしまったし、分散させていた戦力をそれに基づいて集中させ始めてしまった。
その結果、この攻勢は大規模な戦力同士の決戦となった。戦後、数多くの回顧録が兵士や士官たちの手によって書かれたが、参加した者は全て異口同音に、この戦いについては厳しいものだったと記している。結果から言えば、辛うじてジビャをドニェルツポリ軍が取り返すという結末になるのだが、そのためには両軍とも夥しい量の犠牲を払わずには済ませられなかった。
だが、この戦いが歴史に残った理由には、その犠牲の大きさなどは関係のないことだった。
結果すらも、ほとんど関係ないと言って差し支えない。
どちらが目的を達成したとしても、「それ」はきっとこの時期に起きたことだろう。
だとすればそれは、ある種、歴史の修正力と言ってもいいはずだ。
この時期に地球の大統領選があったのは、任期がそこで切れるからだったし、それは以前から分かっていたことであったし、選挙結果を選んだ民意というのはその任期の間に醸成された政治的ワインであったし、そのワインの味は票を投じる民草の暮らしという、もっともっと遠大で間接的な葡萄から生じているものであった。
故に、「それ」は必ずその時期に起こる事象であったと言える。
プディーツァ=ドニェルツポリ戦争が起こって数ヶ月。
破断界は、すぐそこまでやってきていた。
だが、その歴史的事実は、まだ、前線で戦う兵士たちには関係のないことだった。
攻撃艦隊の中核となるレンドリース艦隊は、全戦力を以て大きな球形陣を展開しているところだった。隊形維持プログラムが必死に各艦の射程や火力を計算して、維持すべき攻撃力である宙母を球の中心に据えた艦隊を形成し、その動きを統御する。
しかし、その防御中心の構えのまま艦隊がしたことと言えば、それは突撃であった。
偵察艇が発見した敵艦隊に向かって、突撃したのである。
(馬鹿なことだ)と、オイゲンは頬杖を突いたまま、艦長席に座っていた。(確かに、エンハンサーによる対空援護を受けた艦隊ならば、敵艦隊に突撃しても勝算はある。しかもその場合、艦隊突撃が成功したノヴォ・ドニェルツポリの戦いのように、大きな戦果となる可能性は高い。が、そもそも目的は敵艦隊の撃滅ではなくジビャの解放だ。どうしてこうまで焦る必要がある?)
だが、彼は意見具申をしなかった。する暇などない。既に攻撃は開始されていて、分艦隊の指揮に精一杯だった、彼にとって初めての経験だったから。
彼にとって奇妙だったのは敵艦隊までもが、その馬鹿げた突撃に付き合ってくれたことだった。全力で逃げたのなら、それは決して捕まることのない逃避行になるだろう――艦艇の速度は両者共にほとんど変わらない――が、そうではなく敵は寧ろドニェルツポリ艦隊との砲撃戦をこそ指向したようだった。
(まさか――引くことを敵は許可されていないのか? だとしても戦術的にはそれは悪手だろうに)
戦いというのは、言ってしまえばフェンシング――意外にも、オイゲンには多少その心得があった――のようなものだ。確かに時には敵の懐へ飛び込むことも必要だが、一方で敵と距離を取ることも同じぐらい必要であり、そうして誘い込んだ敵へ一撃加えるというリスキーな手も、時には選ばなければならない。
だのにこれでは試合開始と同時に剣を突き出して走り出すようなものではないか。駆け引きも何もあったものではない。オイゲンには分からない情報もあるのだろうが、だとして、上層部は両方とも馬鹿の類だと彼には思えた。
「艦長」その思考を、ヴィクトルの声が遮った。「司令部より、催促です。早く艦載機を出せと……」
既に、周りの艦の甲板には、エンハンサーや攻撃艇と言った艦載機が所狭しと犇めいている。出撃もしていた。既に敵攻撃隊が迫ってきているというのだ。が、「ルクセンブルク」のそこには、まだ何もない。それは当然、司令官を怒らせるものだろう。
「分かっている――」オイゲンは頬杖を止めて、座り直した。「出せる隊から順次甲板に上げろ! この戦闘に、この戦争の勝敗が懸かっていると思え!」
そうして、格納庫内には警報が鳴り響く――正確には、真空なので、そこにいる兵士たちの宇宙服のスピーカーに警告音が転送される。
「…………」
その中で、ユーリはコックピットの中にいた。体の自由の利く広いコックピットで、膝を抱え、無重力の中浮かんでいた。メインモニターを切って、真っ暗な中で――そこで、彼は何もしたくなかった。
「…………」
無論、ノーラ・カニンガムのことである――壊れてしまった彼女に対して、彼にはもう、どうしたらいいのか、分からなくなっていた。彼女に対する感情は、もちろん悪いものでしかない。そうとも悪感情しかない。自分の尊厳を傷つけられそうになって、その行為者を許すことのできる人間はそういないし、ユーリはそういう人間ではない。
全く許すつもりはない。
死んだって気にしない。
寧ろ積極的に死んでほしいとすら考えた。
そのつもりだった――にもかかわらず、ユーリは咄嗟に、ノーラのことを助けていた。そのとき心の中にあったのは紛うことなき心配である。その矛盾が、彼を苛立たせていた。
(どうして、ノーラさんを僕は助けてしまったんだ? あんな女、死んでくれてよかったじゃないか! 僕の気持ちなんざ少しも考えない人間なんて……!)
彼はそのとき、ノーラの言動をリフレインさせて、ゾッとした。
「死んでほしくなんてない」?
「愛している」?
(そんな馬鹿なことがあるものか!)ぎゅう、と自分自身を抱き締める。その妄想の恐ろしさに怯えて。(僕は死んでほしいと願っていた。ああ願っていたともさ! だが目の前で死なれれば、後々面倒なことになろうし、その結果あれやこれやと調べられるのが嫌だったからだ!)
ノーラが自殺すれば、当然そこに色恋沙汰があったことが分かってしまうことだろう。そうなると、芋づる式にアンナのことも調べ上げられる。だが、それは嫌だったのだ。彼にとってそれは、彼女との思い出に雑菌まみれの汚い他人の手を突っ込まれるような心持だった。
だが、そんな理詰めのことは、咄嗟には思いつかないはずだった。ユーリはそこまで機転の利く人間では、ない。
だとすれば――咄嗟の反応が、彼にそうさせたとしか言えなかった。
すると結論はこうだ。
彼女の現状に負い目を感じてしまったのだ、彼は。
きっと、壊れてしまった、否、壊してしまった彼女に、引け目を感じずにはいられなかったのだ。
(違う!)そのとき、ユーリには吐き気がした。(僕がノーラさんを壊した? ああまで? そんなはずはないだろう! 僕にそんなことができるはずはない、できるはずはないんだ!)
そうだ、できるはずはない。
ユーリは自分に言い聞かせた。自分は悪くない。たった一人の人間でしかない僕に、そんなことができるはずはない。不可能だ、不可逆に人を破壊してしまうなど。現に、彼は何をしたわけでもなかった。彼は自分自身を守っただけで、それで勝手にノーラが傷ついただけ、なのだった。少々その様が過剰であったとしても、それを誰が責められようか?
そして、彼でないとするならば、一体、これは誰の責任だろうか?
(戦争だ)ユーリは、結論づけた。(戦争がいけないんだ。戦争のせいで、皆おかしくなっているんだ。ノーラさんだって、戦争がなければああはならないはずだ。マルコさんも、サンテさんだって……戦争がなければ、アンナさんだって、死ぬことはなかった。そうだ、全部全部、戦争が悪いんじゃないか! 僕は悪くないッ!)
彼は、そういうことにした。
何故なら、そうすれば楽だったからだ。彼は今、何も考えたくなかった。酷く気分が倦んでいた。指先一つ動かすことにすら、疲労感を覚えずにはいられなかった。そんな中で人を壊した責任なんて重たいものを問うていたら、彼は破裂するか圧壊する。それを避けるための咄嗟の心理動作だった。
だから、彼は悪くない。
どれだけ、彼の頭脳がその決定に控訴し、上告し、再審請求を突きつけたとしても。
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