第153話 薄暗い水の底から
シャワーヘッドから、温水が出続けている。
普段なら絶対にしないことだ――宇宙船という周囲から隔絶された環境下では、循環し、濾過されるとはいえ水と空気を無駄にすることは許されないことだということを、生まれたときから叩き込まれるのが宇宙での暮らしだ――が、ノーラはそうせずにはいられなかった。
いや、それも正確な物言いとは言えない。
何故なら、彼女はただ立ち尽くしているだけだった。頭の中にはシャワーの水音も、適温のお湯が体の表面を伝う感触の電気信号もない。ただユーリの一言一句だけがグルグルと巡っていたのだ。それだけのことでリソースを使い果たし、ただ俯く。肩で切りそろえられている髪の毛のカーテンの中で、彼女は迫り来る暗黒を感じている。そこには一筋だけ反射光があって、それは床のタイルの上に落ちているカミソリだった。
つまるところ、石鹸を取るときにそれが手から滑ったことが、彼女に深い影を落としたのだ。
あるいは薄暗い希望を。
「…………」
じっと、その輝きを見つめる。銀色の刃の切れ味は抜群だろう。ロクに整備もしたこともないのに、彼女の比較的硬い毛を剃りきれないことは一度としてなかった。こうして落としたことでもし刃が欠けたとしたら、それは悲しいことだと思えるほどに、それは大切なものだった。
「…………」
だが勿論、それを落としたから悲しいというのではない。刃は欠けていなかったし、そして彼女は悲しくもなかった。辛くもなければ苦しくもない。無論楽しいわけでも嬉しいわけでも華々しいわけでも、ない。ただフラットだった。何もない。何かを感じる代わりにただ一つのアイデアに集中していた。
――汚らわしい。
――さっさと死んでくれれば。
「…………」
ほの暗い感情が心の内に湧き上がってくる。それは激しさを少しも伴わない波だった。ならば緩やかな海岸線は彼女のすぐ側にあって、砂浜の上で彼女は膝を抱えて座っている。そこから彼女の望む未来までは徒歩五分。ただそこに向かう勇気だけがまだないだけだった。
「…………」
死。それは戦争ではさして珍しくない事象。それが彼と、彼女の関係を決定的に変えてしまった。アンナの死。その真空状態。それはユーリにとっては息のできない苦しみだったにもかかわらず、ノーラにはそれは自らがどんな形であれ彼にとっての空気になれるという好機と見てしまった。だが彼女は、実際には、水もいいところだった。窒息を手助けするだけの、危険な液体。その中でユーリはもがき苦しんで、拒絶した。その当然の帰結に、ノーラは何故か傷ついてみせたのだ。
「…………」
死。それは一つの断絶である。ならば何かを切り落とすことがつきまとうのも当然だろう。首、血管、心拍、呼吸、意識――それらをブツリと断ち切ってしまえば、たちどころにそれはやってくる。そうして命を取り落としたなら、その先は、何もない。のだろう。地獄も天国も、ただ生ける弱き魂の想定・想像に過ぎず、その存在が証明されたことは一度だってない。仮に存在するとしても、死によって少なくとも現世――宗教的な概念ではなく、あくまであれらの想像の対義語としてのそれ――に介入するための肉体というメディアは喪失される。
「…………」
死。それは決定的な変化でもある。死した瞬間から細胞の変質は開始され、魂の通った生命からただの物質へと存在は堕落する。二一グラムの存在の不確かな何らかの軽量化が図られた後は、ただ元の形を失っていくばかりで、それが元に戻ることは決してない。そう、断絶だ。断絶的変化という表現が最も的を得ているだろうか。今まで続いていたものがなくなるという変化。それが死の本質である。
「…………」
死。それは結局のところ、彼が彼女に望んだ量刑であり、彼女が自らの罪に出した判決であり、床に落ちたカミソリが彼女という罪人に与える刑罰であった。彼女は彼を犯した。彼女は罪を犯した。それが未遂であったとしても、それを主張することはただの言い訳であった。法的にどうあれ、少なくとも今の彼女にはそうだった。何故なら彼は彼女に死を望んだから。彼にとって彼女は最早害虫の類と同類であるに違いない。自ら手を下すのすら躊躇われるほど、それはウネウネカサカサと動いて気色悪いに違いない。
ならば、自ら手を下さなければならない。
この見るも悍ましい生命をここで絶たねば、ならない。
「……………………」
ノーラはカミソリを遂に手に取った。水滴を弾く銀色の刃に自分の顔が映る。さして憎たらしいとも感じない。ただ邪魔だなと感じるだけで、後は金属特有の熱伝導の高さから来る冷たさだけが心にあった。
彼女はその冷たさを手首にあてがった。しかしここで息は荒くなった。死とは断絶的変化。その無の無らしさはさながら外宇宙のヴォイドであり、そこは永遠の暗闇――暗闇と認識できるはずはない、それは意識の証明、コギト・エルゴ・スム――である。その無への回帰に足が竦む意地汚さが、彼女を彼女たらしめて今に至るのだから仕方のないことである。
すると、それは鍔迫り合いの様相を呈してきた。横に引くだけで、全てが解決される。それは分かっているのだが、無へ向かうことへの恐怖がそれを遮ろうと喘ぐ。痛みへの原始的恐怖もある。いずれも肉体を有するということの悪弊である。肉体は、自らを失うには惜しいと、最後の抵抗を見せる。だが彼女は死なねばならなかった。自らを無に追いやらねばならなかった。ユーリ・ルヴァンドフスキという人間を汚した罰を、決定的に破壊した罰を受けなければならなかった。
そして、彼女は、手首に痛みを感じる。
「痛っ……」
からん、と小気味いい音がした。それは再びカミソリが床のタイルの上に落ちて反響するそれだった。それから訪れたシャワーのザーザー音の中で、傷口からじわりじわりと静脈血が流れ出始める。だが、それは死へのカウントダウンではないと、ノーラはすぐに断じた。見れば分かる、その傷口は命を奪うにはあまりに小さい。
だがその痛みは耐え難いほど大きかった。彼女は思わず座り込む。手首を押さえて……その圧迫止血の痛みで呻き声を上げる。
「いたっ、痛い。いたたた……」
血は止まる気配はないが、死に向かうには当然緩慢すぎて物足りない。かといって決定的な一撃を与えるには――例えば、首筋に再びカミソリをあてがって、横に引くなどするには、もう、彼女に刃物を握るだけの気力は残されていなかった。ただ痛みだけが増幅されて、彼女に生存を伝えるばかりだった。
「痛い。あは、いた……痛いよ。痛い……」
すると、ノーラには次第に笑えてきた。どうして自分はもっと確実に死のうとしなかったのだろう。始めから首筋にあてがっていれば、あるいは部屋で縄をなって、それで首を釣ればよかったではないか。いや、もっといい手段がある。船外に出ればいい。そうして外壁を蹴ってEFの外に飛び出せばいい。超光速航行中にそんなことをすれば、あっという間に事象の水平面に弾き出されて圧死できる。いやいやもっと楽に、裸でエアロックに入って空気を抜けばいいのだ。これならもっと短時間で、手軽にできる。
ならば何故、彼女はどうしてもそうしようとしなかったのか。
それは結局、彼女がどこまで行っても意地汚い人間だからだ。
それは結局、彼女がどこまで行っても生き汚い人間だからだ。
自分の生命がないという状態を、彼女は想像も創造もできなかった。彼女は死にたくなかったのだ、あれだけの罪を犯しても、あれだけ愛した彼を犯しても、その罰としてもたらされる死を受け入れられるほど、彼女は殊勝でもなければ清廉な人物でもなかった。
「あは、あははは、あはははははは……」
彼女は天を仰いで笑いだす。カミソリを取り落として、げらげらと笑い続ける。ああ、死にたい。否、死ななければならないのだが、どうしたってそれはできそうもない。まるで学校の長期休みの宿題を何一つやらずに最終日を迎えたかのような気持ちだった。
(ああ――私はクズだ。クソ女だ。死んだ方がいい人間の好例だ。まだ彼のことが好きで好きで仕方がないのだから。でも私にはどうすることもできない。私に自分で死ぬなんて、そんな痛くて苦しいことできるはずがないじゃないか。だったら私以外の誰かが何とかしてくれるのを待つしかないじゃないか――それの、何が悪い)
誰が何と言おうと、私はユーリを愛している。
ユーリが何と言おうと、私は彼を愛している。
それが罪だというのなら――誰か私を殺してみせろ、自分にはできないのだから。
笑い声がシャワー室に響く。その笑い声を誰もが訝しんだが、しかし、それがあまりに不気味だったので、誰も止めようとはしなかった。
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