第132話 泣かないで、私の恋心
ノーラは、ユーリたちの斜め後ろの席に静かに陣取っていた。本当は、彼らに混ざって食事をするつもりだったのだが、そうしようと近寄ったところで、話題の種類に気がついて、近くで聞き耳を立てることにしたのだ。
(……何で、悪いことをしているわけでもないのに……こんな臆病に?)
彼女はそれを聞きながらも、自分がその話の輪に入っていかなかったことに驚いていた。普段の彼女なら、何も気にせずにその中に入っていっただろう。それがたとえ下ネタだろうと、自分の悪口だろうと、にこやかな表情を貼り付けて、突撃していったはずだ。
だのに彼女はそうしなかった。
何故だろう。
(それに、この胸のざわめきは一体何? どうしてユーリさんがジャクソン伍長のところに行ったというだけのことでこうも苦しくなるというの?)
それも、何故と自分に問い質したいことだった。ユーリ・ルヴァンドフスキは、ただの部下の一人に過ぎないはずではないか、それがどうしてこうもその恋路が気になるというのだろう? ――当然、答えは一つである。
(それは、私が恋をしているから――に違いないの、だろうけど)
それについては、ユーリからアンナについて、同じ質問をされたときに気づいていた。彼は無遠慮にもアンナが変だったというのだ。あまりのその無作法さにノーラは同じく無作法な返事をしたわけだが、そこには、どうしてその対象が自分でないのか、という嫉妬はあった。それが彼女の胸を少し燃やして、ぶっきらぼうに「ふーん」と言わしめたわけである――いや。
恋心に気づいたのは、もっと前、ノヴォ・ドニェルツポリ防衛戦のときだ。
彼はあのとき、自分から進んで、敵兵を殺すことを覚えた。スナイパーライフルを手にして、戦うことを決意した。それは兵士になったということだ――その瞬間、同じく兵士である彼女は、彼が同じ階梯に上がってきたことを、喜んだ。
歪んでいるようだけれど、それが、好意の始まりだった――恋の始まりだった。
彼女は二十代半ばの中尉で、ユーリは少年兵であるわけだけれど、恋に年齢は関係ない、愛に年齢は関係ないように。
だが、恋と愛には大いなる違いがある。それを、彼女は知っていた。
(もう、分かってしまったのだ。彼の想いは私にないことが。そこに自分の恋を押し付けても、それは愛が返ってくることには繋がらない。)
そこに、二つの違いはある。いくら恋い焦がれたところで、それが愛という返答に昇華されるには、時、既に遅いのである。
だとするなら、もう、考えたところで意味はないのだ。まさに覆水盆に返らず、どれほど願っても、どれほど祈っても、無駄なのだ。
なのだが、彼女の頭は思考することをやめなかった。それはまるで、死の間際に走る走馬灯の正体に似ている。それは死という決定的にして文字通り致命的な結果を回避するためにあらゆる手段を考察の俎上に上げるからなのだという――もう何をしたところで、変わらないというのに。
ノーラはそのとき、食事の手を止めていたことに気が付いた。いけない、午後の訓練に間に合わなくなる。そう理性が呼び掛ける。試しに一口、野菜を口に放り込んでみたが、味がしない。そうだ、ドレッシング……そう思って、テーブルの端においてあるそれを彼女は手に取った。ソイソース風味のそれのノズルをサラダに向け、左右からボトルを押す。するとダバッという音がして中身が勢いよく飛び出した。それはキャベツやレタスの上を跳ねると、彼女の軍服にまで飛び、その上にシミを作った。
「あーあーあー……」
思わず声が出た。全く、何をしているのだろう。おしぼりでまず軍服を拭い、それから机の上……を拭こうとして、ふと、水滴がその上に落ちたことに彼女は気がつく。はたと気がついて目に手をやると、やはりその水滴はそこからこぼれ落ちたものだった。
(あ、あれ?)彼女は狼狽した。(な、何で私泣いてるんだろう。だって、ただドレッシングがこぼれただけじゃない。何をそんなに悲しむことがあるというの? ただただ、もうどうしようもないだけ……)
そう、どうしようもないことなど、世の中にはもっと沢山ある。
死人は生き返らないし、戦場なんて、そういうことのオンパレードだ。今更、彼女はそのことに怯えたりする歳ではないし、そういう性格でもない。
ないはずなのだが、彼女の涙はいくら拭っても留まることを知らないらしかった。むしろそうすることでより氾濫する量を増やしたようにも感じられる。溢れて止まらないのだ。目を擦っても擦っても――。
「ちょ、」そこに、一番今会いたくない人の声がした。「大丈夫ですか、ノーラさん?」
彼女は思わず顔を上げた。そこには、さっきまで席に座っていたはずのユーリがいた。傍らにお盆を持って、目をぱちくりとさせていた。上官が食事の席で泣いているのだから、そうもなろう。
「何があったんですか? 誰かに何か言われたんですか? それとも、何か苦手なものが?」
彼は膝を折って、彼女と目線を合わせた、あるいはそれを通り越して覗き込むようにした。上目遣いで見てくる彼は、ノーラには魅力的に映ったし、見せる献身は、彼女の恋心をくすぐるものだった。
今すぐに抱き締めたくなった。
全てを吐露して、楽になりたかった。
(でも彼は)と、彼女の理性は訴えた。(私のことが好きじゃないのだ。愛してはいない。彼の愛は私のものではない)
そう思うと、余計に涙が出てきそうだった。辛くて苦しくて、耐えられそうになかった。こんなこと、全て悪い夢だったらいいのに。あるいは、初めからやり直せたらいいのに。そうしたら、最初から好意を隠したりなんかせず添い遂げてみせるから。
アンナ・ジャクソンなんかに、出会う前に――。
そのときノーラはハッとした。自分の中にあるそのどす黒い感情に気がついてしまったからである。そう、アンナがいなくなればいいのだ。惜しむらくは彼女が整備兵であることだ、乱戦に紛れて後ろからということができない。自然に戦死することを願うしかない――そこまで考えて、ハッとしたのだ。
そんなことは、考えてもいけないのだと。
そんなことを考える人間が、彼と結ばれていいはずはない。
「いえ――」そう思ったとき、涙は自然と引いていた。「何でもありません。ドレッシングが跳ねて、目にかかっただけで」
「本当ですか? その割には随分泣いてましたけど……」
「量が量だったので。それより、急いでいたんじゃないんですか? 随分素早く食べてましたけど」
「え?」見られていたことにユーリは僅かに違和感を覚えたが、すぐに答えた。「……ええ、まあ、善は急げというか、鉄は熱い内に打てって感じで……」
――善、か。
ノーラはその言葉に僅かに心が痛んだ。確かに、恋敵を心中で呪うような女が善であるはずはない。だが、取り繕った。
「なら、こんなこところで私に構っていていいんです? 早く行かないと、いけないんじゃないですか?」
そうだ、早く行ってくれ。いつまでこの涙が抑えられるか分からないのだ。早く目の前からいなくなってくれ。頼むから。
「……そうですね」その想いは口にしなければ届かない。だが彼はそう言った。「それでは、また――訓練のとき会いましょう」
それからユーリは立ち上がると、脇に置いたお盆を手に取って、立ち上がった。そうしてノーラには背を向けて、行ってしまう。返却口にお盆を置いたなら、彼は、もう、私のものではなくなってしまう。
「……さよなら」
ノーラの口を突いて出たのは、そんな言葉だった。それは誰にも聞こえない程度の音量で、口の中で溶けて消えた。残されたのは、酷く塩辛いサラダと味のしないソテー。悲しみにも味があるのだと、彼女はそのとき初めて知った。
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