第100話 不眠
宇宙服を畳み、所定の位置に仕舞って、まだ同室のマルコがいないのをいいことにベッドに音を立てて飛び込む。風呂上がりの髪の毛が湯気という悲鳴を上げて冷めていくのも構わずに、ユーリはそうして動かなかった。シャワーを浴びるだけのことだというのに、それだけで体力を使い果たしてしまったのだ。
かといって、眠るまではしない――しかしまだ夕飯を食べていないという空腹感だけが、その理由ではない。
頭の中にこびりついた、サンテの問い――もっと正確に言えばヴィルホの問いを、水で洗い流すことができなかったのである。
ユーリは、元々、戦う気などなかったのだ。
軍事教練も(少なくとも落第しない程度には)真面目にやってこそいたが、それは生来の真面目さから来るものであって、国防だとか、軍隊だとかが好きでやっていたわけではない。
それに、戦争が来てほしくないという願望に理性を従わせてすらいたではないか――あらゆる情報を見て、戦争が来ると分かっていたにもかかわらず、それを表に出すことを恐れた。倫理の授業で聞いたコトダマなる概念ではないが、現実になると思ったからだ。
それほど恐れていたというのに、今や、エースパイロットだ、国民英雄章授勲者だ、それも最年少のだ……といつの間にかまるで正反対のところまで来てしまった。恐らく後生の人間が彼の人生を公式記録から俯瞰したとするならば、彼は好戦的で愛国心に溢れる青年として描かれることになるだろう。
だがそれは、当然、事実ではない。
だとするなら何故、彼はあのときノーラの乗るエンハンサーを奪い取ったのだろうか?
(あのときは)と、ユーリは回想する。(命の危険がすぐそばにあった。いつ何時酸素切れになって死ぬかも分からなかったし、あのまま放置していれば近くに直撃弾を食らう可能性があった……)
だからだろうか、それが結論だろうか?
しかし、それは性急が過ぎるというものだ。何故なら、命の危険があるだけならシェルターに避難するという手があったではないか。そうしてさえいればエンハンサーに乗ることもなくただの一民間人として……?
(いや、それもあり得ない)
問題が一つある。
ルドルフだ。
かの歴戦の戦士が軍事教練で乗っただけのユーリを登用したほどなのだから、あのときの「ルクセンブルク」の戦力不足は著しいものがあったのだろう。だから結局あのコロニーで彼が戦うことは避けられなかったはずだ。
しかし、同時に、それは主体的な理由ではないことにもユーリは気がついていた。それはあくまで外的要因であって、ユーリの内面から出て来る理由ではなかった。
同様に、ノーラの機体を奪った理由とは関係ない。あのとき、ルドルフはそこにいなかった。
だのに彼は戦った、それも主体的に。
何故だろう?
(僕は……確か、戦争を否定したかったんだ。戦争なんて僕はしたくないんだって、望まなかったんだって、そう言いたかった……)
そう、それが始点だった。彼を突き動かしたのは、目の前の「戦争」という非道への怒りだった。「戦争」という不条理への反抗だった。
だからシェルターには行かなかったし、ウジェーヌの制止も聞かなかったのだ。
そうすれば、戦争を無批判に現実として受け入れてしまうことになるから。
そう、現実として――現状として。
その認識は、現在、どうだろうか?
(僕は、戦争を……している。してしまっている。し続けている。現実として、現状として、現在、戦時下にいる)
ジンスクの戦いが、ターニング・ポイント――あるいは、ポイント・オブ・ノーリターンだったのだろう。
あのとき、戦争を辞めることが出来たはずだ。あのとき、シャーロットの唇を受け入れていたならば、戻れたかもしれない。体を抱き留めて、深く愛していたら、結果は違っていたのかもしれない。
だが彼にそうする余裕はなかった。戦争がそれを許さなかった――しかしそれもまた、他動的。
根本的な理由は別にある。
だとすれば――ルドルフの死か?
仇討ちの念が、ユーリの心の中に幾分かでも残っていて、それが戦いに駆り立てるとでもいうのか。
(それも、有り得ない)
それがユーリの結論だった。
当然だ。
大体、そのような感情で戦っていたのではないし――そもそも、その仇はとうの昔に討ったのだから。
全滅させた、一個小隊を。
何の感動もなしに――だとすれば、それは何故。
何故、彼は何の感情も抱かずにこうも非人道的な殺戮に手を染めることができたのだろう。
(一人殺せば殺人者だが百万人殺せば英雄……だが僕は一体何人を手に掛けたというのだ? それも何の特別な意志を持たずに……)
例えば、平時に四人殺したとしよう。それも自分とは無関係な、無作為に選ばれた四人だ。するとそれはどう考えても惨劇である――と同時に、そこには強い感情が伴っていなければならない。そうでなくては辻褄が合わない、その悲劇という作用とそれを起こした人間の反作用として。その反作用にこそ話題が集まるのであって、それがニュースを賑わせるのである。
しかし、戦時の四人では、そんなものは話題にも上らない。語るべき反作用が生じないからだ。確かに対エンハンサー戦で四機ならまだあり得るかもしれないが、対艦攻撃ではもっと多くの人が一度に死ぬことを考えれば、それは例外と見るべきであろう。
そして、四人では利かない数の人間を彼は殺してきたに違いないのだ。だのにそこには一切の覚悟もなければ、自覚すら今このときにしたぐらいで、つまり今までは全く無感動に無批判に無作為に殺害してきたのだ。
だとすれば――今の彼は、ただの殺戮者ということではなかろうか。
ただ惰性で人を殺し続けたということではないのだろうか。
(! 違う!)ユーリはそのとき叫びたかった。(それだけは、絶対に違う。僕は……僕が、そんな人でなしになってしまったというのなら、僕はエレーナさんにどう顔向けしたらいいというのだ。こんなものが変わっていないとでも言えるのか。いいや言えはしないのだから、それだけは絶対にあってはならないのだ!)
主体的であればいいというものではないが、だからといって客体的ですらないというのは、存在してはならない歪みだ。
思ったからでもなく言われたからでもないのならそれは生物でも機械でもない、ただの物体でしかない。
ただ慣性の法則に従って一定の方向へと進み続けるだけ。
(そんな……そんなこと!)
しかしその残酷な光景を否定しようとすればするほど、彼にのしかかる十字架は重みを増し、彼を押しつぶそうとした。何しろ、それは数え切れない――否、数えていない。
だとすればそれはまるで不定形の怪物のようですらあった。数という明白な限界がない以上、脳裏という宇宙の中でいくらでもそれは成長していくのだ。もしそこにそれが巣くい、居座ったのならば、きっと彼はもう立ち上がることすら出来なくなるだろう。
(だから、か)ユーリは寒気に震え上がって縮こまった。(だからヴィルホは、僕を強くなる以前だと言ったのか。僕が殺す覚悟も生かす覚悟もしてはいなかったから……か)
だとして、どうしたらいいというのだ。
ユーリにとって、それはどちらも取れそうにない選択だった。前者ができれば今まで苦労をしてこなかったのだし、かといって後者は――散々人を殺しておいて今更、というものだろう。第一、戦場という死が支配する場所で人を生かすという選択肢を取ったところで、その敵を他の味方に殺されないとは限らないし、変に手負いにしてしまえば逆に追い込む結果になるかもしれない。
何より、そうなることで殺されるのは自分かもしれないのだ。
つまり、八方塞がり。
正しく、禅問答のようだった。
(どうしたらいい――どうしたら)
静かに衣擦れの音を立てながら、ユーリは頭を抱える。暫時はそうすることぐらいしか、できそうもなかった。
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