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美学生 水咲華奈子Ⅸ -常識知らずの男-  作者: 茶山圭祐
第9話 常識知らずの男
2/4

事件編《後編》

        3


 授業は滞りなく終了した。静かだった教室の空気は一気に震え出した。

 佐々木原はこの授業中、隣りの漆黒のロングヘアーを腰まで垂らした親友に、駅の改札を出たところからこの教室に来るまでの一部始終を事細かに説明していた。親友は佐々木原の話を真剣に聞き、決して話の腰を折るようなことはしなかった。たった15分間のドキュメントだったが、佐々木原の喋り方や身振り手振りで、山あり谷ありの飽きのない内容となった。

「やっぱり、後ろの鍵が壊れたときにすぐに新しい鍵を買うべきだったね」

 童顔の佐々木原に対して大人びた顔付きをした親友は、そう言いながら教科書やノート類を揃えるとキャリーケースにしまった。

「でも、自転車を盗んだ犯人はこの大学の学生か先生ってことになるよね?」

 佐々木原は少し得意気に意見した。

「そうだね。大学の駐輪場にあったんだから、それ以外にないよね。ののちゃんに盗まれたことを聞いて、すぐにメンバーに聞いてみたんだけど、うちのメンバーではないみたい」

「メンバーはみんな、鍵を持ってるからね」

 すると、彼女らが座っている右斜め前の人の塊から笑いが沸き起こった。ダークグレーのスーツを着た、就職活動でもしてそうな学生が周りの仲間達を笑わせていた。

「あそこのスーツを着た人も、席に座ったとたんに名前を呼ばれたんだよ。ギリギリだったみたいね」

 ロングヘアーの親友は小さな声で佐々木原にそう囁いた。

「でも、ののちゃんほどじゃないけどね」

「私ほどギリギリな人は、そうはいないでしょ?」

 佐々木原は鼻高々に言った。

「それ自慢になんないでしょ。入口付近の人には完全に顔を覚えられたね」

「うそ? マジで?」

「マジで」

 佐々木原はいそいそと机の上の物を片付けた。

「華奈さ、自転車盗んだの誰なのかな?」

 片付けながら、佐々木原は楽しそうにそう聞いた。

「さぁね、誰なんだろう。分かんない」

 あっ気ない親友の返答に佐々木原はいささか期待外れだった。いつもの彼女なら、ずば抜けた推理力を発揮して犯人を突き止めるところなのに。

「なーんだ、いつもの華奈らしくないね。華奈のことだから、私の話を聞いただけで、もう犯人が分かってるのかと思った」

 すると、親友は笑いながら言った。

「うーん、分からないな、いまのところ。だって、自転車がいつ盗まれたのかも分からないからね。ののちゃんは今日、久し振りに自転車を見たんだよね? 昨日盗まれたのかもしれないよね? おとといかもしれない。いつ盗まれたのか特定できないと、犯人見つけるのは難しいよ」

 親友が立ち上がって背伸びをすると、佐々木原も一緒に立ち上がって背伸びをした。

「そっか。そうだよね。今日盗まれたとは限らないもんね」

「でも、一応念のため、盗まれた自転車はこの目で見てみようとは思うけど。そこでまた何か発見があるかもしれないからね。たださ、わたし思うんだけど、自転車はとりあえず戻ってきたんだから、そんな必死になって犯人を捜さなくてもいいんじゃないかな?」

 確かにそうだ。結局のところ、被害は自転車の鍵のみという、極めて小さな事件で終わってしまった。壊された鍵の為に、全力を尽くして犯人を捕まえることなど、そこまでする必要がどこにあるのだろうか。

「犯人が近くにいれば話は別だけどね。目の前にいるなら黙ってないよ。例えば、この教室にいるとかね」

 彼女が冗談交じりで言っているのは佐々木原にはよく分かった。佐々木原も同じ気持ちになっていたからだ。

「なぁーんだ。それじゃあ今回の犯人は、華奈ちゃん事件簿史上、初の完全犯罪で終わりそうだね」

「ちょっと、そんなイヤな言い方しないでよ。わたしが悪いみたいじゃん。しかもそれなに? そのナントカ事件簿って」

「いやー、ほんと今日は寒いよねぇ。せっかくクリーニングに出そうと思ったコート、またクローゼットから引っ張り出してきたよ」

「こら、話を変えるなよ」

 2人は教室の後ろのドアへ向かって歩いていった。教室の前から、またさっきの連中の笑い声が沸いてきた。仲のよさそうな連中だ。2人はちらりと振り返ってその様子をうかがうと、ロングヘアーの親友を先頭に教室を出ようとした。

「駅前デパートのあの時計から音楽が流れてきてさ……」

 その言葉が聞こえたと思ったら、佐々木原は前を歩いていた親友の背中にぶつかってしまった。ヘアートリートメントのいい匂いが漂ってきた。親友が急に立ち止まったのだ。

「ちょっと、華奈、どうしたの?」

 親友の大きな瞳は宙を見つめて何かを考えていた。それも束の間、彼女は振り返ると、実に楽しそうに呟いた。

「ののちゃん。完全犯罪で終わんないみたいよ、華奈ちゃん事件簿は」

「うそー? なんで?」

「まさか、ほんとにこの教室に犯人がいたなんてねぇ」

「分かったの? だれだれ? どこどこ?」

 佐々木原は目を輝かせた。

 やはり彼女はすごいと感じた。それでこそ自分の理想の女性である。

「あそこのダークグレーのスーツを着てる人。さっき授業に遅れて来てたんだよなぁ、彼女と一緒に」

 佐々木原は左右それぞれの手で丸を作ると、目に宛がって双眼鏡を覗く仕草をした。

「あいつか、私達の自転車を盗んだのは。しかも今回は共犯者付きだ」

「まだ犯人かどうか決まったわけじゃないけどね。あやしいって段階だけど、辻褄は合う」

 早速2人は踵を返した。


        *


 この教室で授業を受けていた旅行サークルのメンバーは、旅行サークルの中でも特に仲の良いグループだった。このグループは1週間ほぼ全ての授業が一緒なのである。だから、次の4時限目に授業を取っている者は1人もいなくて、更に次の5時限目はここにいる全員が同じ授業だった。ただし、今日からこのグループに加わることになった人物が1人いた。石巻である。石巻も偶然、次の4時限目はなかったが、5時限目だけはここの連中とは違っていた。

 彼らは3時限目が終わると、いつもここでゆっくりと時間をつぶすのが日課だった。

「駅前デパートのあの時計から音楽が流れてきてさ、見に行ったんだよ。その時計を見て、初めて1時だったことに気付いたんだよ。でも、ちょっとだけ見入っちゃったけどな」

 瀬戸宇治はギリギリ授業に間に合ったことを、まるで武勇伝のように大袈裟に語っていた。今日は、石巻がこのグループに加入することになった祝いとして歓迎会をすることになっている。武勇伝に力が入ってしまうのは至極当然だった。

 石巻の様子をうかがった。彼女は真顔だった。真顔でふくらはぎを揉んでいた。他のみんなは楽しそうにしているのに、彼女だけは楽しそうではなかった。このグループにいることにひどく違和感を感じる。

 瀬戸宇治は視界の片隅に彼女を置きながらも、とりあえず話だけは続けた。

「あのぅ、すみません」

 そこにいた旅行サークル8名が一斉にその声へ振り向いた。

 聞き覚えのない女性の声だった。見覚えのない女性の顔だった。見覚えのない女性は、他にもう1人いた。

 恐らく、声をかけたと思われる女性は髪の長い方だ。彼女は頭の上に黒のサングラスを乗せていた。ブラウンのニットのワンピースを着ていた。花柄の刺しゅうの入った黒のストッキングを履いていた。黒のハイヒールを履いていた。簡単に説明すればそんなところだ。

 だが、彼女の服装は一癖あった。ワンピースの襟はVネックで大きく開き、両肩を出していた。鎖骨と胸の谷間も見える。ワンピースのウェスト自体は引き締まった形をしているのだが、黒のベルトをして、より一層引き締めていた。丈はマイクロミニスカート並みに短く、太ももの花柄が見える。

 この身なりに違和感を感じないのは、彼女のスタイルが見事に整っているからだ。背丈も程良く高く、モデルかレースクイーンになれるに違いない。身体のスタイルばかりでなく、顔のスタイルも整っていた。

 左右対称の眉毛と大きな瞳、長いまつげ。瞼には薄っすらとピンクのアイシャドウを塗っている。真っ赤な口紅は妖しいほどに輝きを放っている。だが、それ以外はそれほど化粧をしている様子もなく、アクセサリーは腕時計と右足首のシルバーの輪っかだけだった。

 艶かしいとも思われるその女性とは対称的に、そのかたわらにはもう1人、背丈が自分とあまり変わらない女がいた。艶かしいの「な」の字も当てはまらない、子供じみた女だ。2人がそうして立っていると年の離れた姉と妹のように見える。

 瀬戸宇治は自分の話の腰を折られたこの見知らぬ女に対し、少し腹を立てていた。

「なに? あんた誰?」

「ごめんなさい、お話の最中に。わたし、水咲といいます」

 水咲と名乗る彼女のその名前に聞き覚えがあった。

「水咲? なんか聞いたことあるぞ」

 真っ先にその名前を思い出したのは、今まで黙っていた石巻だった。

「ミスキャンパス」

 瀬戸宇治の詰まった回路に記憶という波が一気に押し寄せて来た。

「ああー、ミスキャンパスか。確か、そんな名前だったな」

「いや、確かじゃなくて、本人だから」

 すぐさま水咲の隣りに立っていた童顔女が瀬戸宇治に対して訂正した。

 瀬戸宇治は、視線の高さが同じ女をにらみつけながら眉間を狭めた。

「彼女はわたしの友達の、ののちゃん」

「こいつの名前なんてどうだっていい。ミスキャンパスがなんの用なんだ?」

「こいつ? こいつって……」

 佐々木原の表情がみるみる変わると、水咲はすかさず答えた。

「わたし、名探偵研究会の会長やってます。皆さんはサークルにもう……入って、いますよね?」

 その言葉を聞いて、瀬戸宇治の表情もみるみる変わっていった。

「もしかして、あんた勧誘に来たの? 僕達は旅行サークルっていうサークルに既に入ってるんだけど。なんか用ですか?」

 瀬戸宇治は嫌味を込めてそう言った。だが、水咲の感情には何ら変化ないようだ。

「そうですよね。入ってますよね。でも、いつでも遊びに来て下さい。歓迎しますから」

 瀬戸宇治は首を横に振りながら声を荒げて言った。

「あのさ、遊びに行くわけないでしょ。僕らはサークルに所属してて忙しいの。掛け持ちなんてムリ。はい、帰って」

 武勇伝を遮断され、サークルには勧誘されでかなり頭に来ていた瀬戸宇治は、この女の頭を引っぱたいてやりたかった。

 ところが、水咲は意外なことを言い出したのだ。

「実は勧誘しに来たんじゃないの。あなたとお話がしたくて」

「おっ、先輩やるー。急にモテ始めましたね」

 桑谷がからかってそう言った。

「うるせー。お前は黙ってろよ。あのね、悪いけど僕、今日から付き合う女がいるんだ。あんたみたいなわけのわからん女と付き合ってる暇はないんだよ!」

 瀬戸宇治はダークグレーのネクタイをキュッと締め上げた。

 こんなセリフが言えるなんて思いもしなかった。これまで、モテない人生をずっと歩み続けてきた。女と付き合ったことは何度かあるが、どれも短い恋ばかりだった。その原因は自分の身長にあると思っていた。だから、自分より背の低い女と付き合えば問題ないと思った。しかし、自分が好きになってしまう女はいつも背が高かった。このときばかりは親を恨んだ。子供は親を選べない。もし、背が低い男はモテないということを、自分が精子レベルの時点で知っていたとしたら、きっとその卵子には飛び込まなかったことだろう。

 背が低いことはどうしようもない。だから、自分しか持っていない魅力といえばカネだ。それを知ったとき、今度は親を見直した。金さえちらつかせれば、大抵の女は寄り付いてきた。石巻もきっとその1人に違いない。

 そして、どうやって僕のことを嗅ぎつけたのかは分からないが、知らない女まで寄って来るほど、自分の金持ちぶりが大学内に浸透しているということだ。これは、今日を堺に続々と女がやって来るに違いない。そう考えると、自分の飛び込んだ卵子はそれはそれで良かったようだ。

「お話って、そういう話じゃないですよ。心配しないで下さい」

 周りにいた後輩は笑いを堪えていた。自分の妄想まで覗かれて笑っているのではないかと錯覚してしまう気分だ。

「なんだよ、話って」

 瀬戸宇治はちらりと石巻を見た。彼女はつまらぬそうな顔をしていた。

「向こうで話しません? ここは人が多いから」

「いいよ、別に。ここで言えばいいじゃん」

「でも、あなたが困るんですよ」

「いいって。僕はここにいる」

 水咲と佐々木原は見つめ合った。

「いいんじゃないの? 本人がいいって言ってるんだから。言っちゃいなよ、めんどくさい」

 こいつ呼ばわりされた佐々木原の気分はかなりの傾斜があった。

「実は、うちのサークルの自転車が盗まれたんです。シルバーの自転車でハンドルの所にライトが付いてる。結構新しいんですけどね」

 そのとき、瀬戸宇治と石巻は誰にも見つからないようにチラリと目線を合わせた。まさか、話がそれだとは微塵も思わなかった。

「駅前の駐輪場に置いてあったはずの自転車が大学の駐輪場にありました。盗まれたと思ったんですけど、見つかったんで結局のところ良かったんですけどね」

「それで、それがなに?」

 瀬戸宇治は声を荒げた。

「自転車の鍵が壊されてて、弁償してほしいなぁって思ってるところなんです」

 すると、桑谷が不思議な顔をして水咲に語りかけた。

「ちょっと待って下さいよ。その話を瀬戸宇治先輩だけに話そうとしてたんですよね? ということは……」

「僕に弁償しろって言ってんの? 僕が壊したと言ってんの?」

 瀬戸宇治はとっさに自分の犯行を隠した。突然現れた女が、何の躊躇いもせずに自分を犯人扱いしたのだ。まさか見られていたのか? どういうつもりでそんなことを言っているのか少し様子を探りたい。

 そのとき、石巻がますます不安な表情で自分を見つめていることを目撃した。

「ちょっと待ってよ、どういうこと? 僕があんた達の自転車に乗っていたところを見たって言うの?」

「いや、見てません」

 あまりに堂々とした水咲の後ろ向きな言葉に驚いてしまった。それならば何もビクビクすることはない。

 瀬戸宇治は驚いた表情をしたまま、みんなの方を向いた。

「皆さん聞きました? 見てないって。見てないのに、僕が鍵壊して自転車盗んだから、弁償しろとおっしゃる。どう思います? 皆さん、どう思います? なんなんですか、この人。神ですか?」

 おばさんが井戸端会議をしているような仕草にみんなが笑っていた。

 しかし、笑いの渦の中を戸惑いもせず突き進むように、水咲の声が空気を震わせた。

「自転車の荷台には荷物を巻きつけるためのゴムひもが巻いてありました。そのひもが駅前の駐輪場に落ちてたんです。どうしてか分かります? なぜ、わざわざひもを取ったんだと思います?」

 水咲の質問で笑いの渦が徐々に小さくなると、やがて完全に消え去った。

「荷台に座るためです。座るときにお尻がひもに当たって邪魔だから取ったんです。ということは、犯人は2人乗りをしていたってことになります」

 水咲の指摘に誰も口を挟まなかった。

 瀬戸宇治は、その推測は間違っているとは言えず、別の切り口から攻めるしかなかった。

「だからって、どうして僕達カップルになるんだよ! カップルなんてこの大学内に腐るほどいるぞ!」

 大声で威嚇しても水咲には通用しなかった。水咲は何事もなかったかのように淡々と意見を述べた。

「あなた、さっきの授業に遅れてきたよね? 彼女と一緒に。それが1時10分。わたし、ののちゃんがなかなか来ないから、気になって時計を何回も見ていて憶えてるんだけどね。で、さっき、駅前デパートの時計から音楽が流れてきて、それで1時だったのを知った、って言ってたよね?」

 そのとき、なぜ水咲が彼を疑っているのかが分かった佐々木原は、分かるや否や笑顔になって瀬戸宇治を見返した。

「1時の時点では駅にいたあなたが、10分後にはこの教室にいた。駅から大学まで歩いて20分以上はかかります。どうやったら10分で来れるの?」

 そのとき、瀬戸宇治は鼻で笑った。そんなことで疑っていると言うのか。この女の浅はかな考えから、さっきの武勇伝を中断させられたと思うと腹が立ってくる。

 瀬戸宇治は馬鹿にして、子供をあやすように説明した。

「あのね、どうやったら10分で来れるか教えてあげようか。駅のロータリーにね、タクシーっていう乗り物があるんだよ。いいかい? タクシー、タクシーだよ」

 瀬戸宇治のその言い方に、後輩らがまたくすくすと笑い始めた。

「タクシーって乗り物はね、お金を払うと自分の行きたい所まで運んでくれるんだ。ただし、遠くなればなるほどお金が高くなるんだよ。分かったかなぁ?」

 教室はまた笑いの渦となった。

「瀬戸宇治さん、最高っすよ、最高。すんげぇ、うける」

「タクシーで来たってことも思いつかねぇで、探偵気取るのもいい加減にしろよ!」

 瀬戸宇治は水咲に向かって人差し指を力強く差し向けた。

「タクシー? あなたはタクシーなんて使ってない」

 水咲の言葉こそ力強かった。その瞬間、再び教室内が静寂に包まれたほどだ。

 どうしてそんなに自信満々なのか意味がわからない瀬戸宇治は、すぐに静寂を打ち破った。

「使ってない? なに言い切ってんだよ。あんた見たのか?」

「この教室に入ってきたとき、あなた手袋をしてたから」

 水咲は机の上に置いてある瀬戸宇治の手袋を指した。

「手袋? なんだよ、しちゃ悪いのかよ。今日は寒いからしてただけだろ。みんなだってしてるよ」

「タクシーから降りてこの教室まではほとんど距離はないから、手袋を外してまたはめ直したってことはないよね?」

「はめ直した? 何ではめ直す必要があるんだよ。手袋なんて最初から外してないんだから、そんな必要ないだろうが」

 水咲は嬉しそうにつぶやいた。

「ふーん、外さなかったんだ。すごいね」

 何がすごいのか瀬戸宇治には全く理解できないまま、水咲は続けた。

「さっき授業が始まる前、そこのお友達が大きな声で言ってたけど、あなたって常に50万円持ってるんだってね」

「そうだよ、悪いか? だけど、それがなんだよ」

「タクシーでお金払うとき、手袋をしたまま財布からお金を出すのって、難しくない?」

 そのとき、そこにいた誰もがハッとした。

「駅から出てるタクシーって、カード支払いはやってないんだよね。だから、現金で払わないといけない。手袋をしたまま50枚もあるお札を1枚だけ取り出すのって難しいと思うよ。小銭を取り出すのも難しいし。わたしも経験あるけど。だから、ふつう手袋外すよね。遅刻しそうで慌ててるんだからなおさら」

 瀬戸宇治は生唾を飲み込んだ。それは石巻も同じだった。

「あっ、まさか彼女が払ったなんて言わないでね。彼女も手袋をしたまま教室に入ってきたけど、お金を持ってるあなたが彼女にタクシー代を払わせるなんてこと、するわけないわよね?」

 後輩達は水咲を茶化す言葉が見つからなかった。

 そこにいた者の中で唯一笑っていたのは佐々木原だけだった。

「どうなのよ、あんた達? 何か言うことはないの?」

 佐々木原はここぞとばかりに反撃をした。

 誰も何も言わないかと思っていると、瀬戸宇治は言い訳がましく反撃した。

「そ、そんなの想像じゃんかよ。僕は手袋をしたままお金を取り出したんだ。ぜ、全然難しくなんてなかったぞ!」

「そ、そうだ。瀬戸宇治さんは簡単にやってのけたのかもしれないんだ。い、一概に手袋をしたままじゃ無理だなんて言えない」

 桑谷の発言から、桑谷は水咲の言っていることに納得はしているが、とりあえず先輩を立てている、というのは誰の目にも明らかだった。

 今まで胸を張っていた佐々木原は徐々に自信を失っていった。桑谷の意見に続くように、他の後輩達が同じようなことを口走った。やがて、佐々木原は後ずさりをして水咲にぴたりとくっついた。

「この女、ふざけやがって。みんなのいる前で僕を犯人呼ばわりしたな。これは名誉毀損になるぞ! 訴えようか?」

 瀬戸宇治の怒りは周りの人間がはやし立てたおかげで頂点に達していた。

 ちょっと綺麗な顔しているからっていい気になりやがって。女だから許すなんて甘い考え、僕には持ち合わせていない。そうやって長い脚出して色気なんて使っても、僕には通用しない。僕は女だろうがなんだろうが、自分を攻撃するものには厳しく当たる。いつもそうしていた。

「カネならいくらでもある。弁護士つけてお前を告訴してやる!」

「自転車盗んだくせに、何が名誉毀損よ!」

 佐々木原は水咲にしがみつきながら最後の力を振り絞った。

「なんだとこのガキ!」

 次の瞬間、瀬戸宇治は佐々木原の頬を平手打ちしていた。その衝撃で佐々木原は床に倒れこんだ。

 窓の外で風が唸っている。その風で木の葉がわさわさと音を立てているのが良く聞こえる。

 全員の目が点になった。そこにいた旅行サークルのメンバーだけでなく、その教室で団らんをしていた他の学生も話をやめ、彼らに注目した。しばらくの間、瀬戸宇治の息遣いだけが教室内を支配した。

 水咲は慌てて佐々木原を抱きかかえた。

「ののちゃん大丈夫!?」

 佐々木原は頬を押さえながら笑っていた。

「殴られちゃった。こんなささいな事件で殴られちゃった。私、バカみたいだね」

 佐々木原は笑いながら両目を手の平で隠した。笑いながら鼻水をすすった。笑いながら目をこすった。笑いながら頬に一筋のしずくを流した。

「瀬戸宇治さん、ちょっと、それは……」

 さすがに桑谷も他の後輩も今の瀬戸宇治の行動にフォローはできなかった。

 だが、瀬戸宇治にフォローなど必要なかった。

「ぼ、僕を犯人に決めつけた天罰だ。よーく、は、反省しやがれ」

「瀬戸宇治さん、私……」

 それまで存在すら忘れられていた石巻が突然喋り出した。瀬戸宇治は眼球を石巻へ向けた。

「なんだよ」

「……な、なんでもないです」

 石巻は何かを言おうとしたが、押し黙ってしまった。

「もう行くぞ。今日は最悪だな。付き合う初日だってのに」

 瀬戸宇治は教室から出ようと背を向けると、後ろから誰かに力強く引っ張られた。水咲だった。水咲は瀬戸宇治のネクタイと襟元をつかむと自分に手繰り寄せた。見上げると、間近に水咲の顔があった。今まで見たこのない真剣な表情がそこにあった。

「あんたが盗んだっていう証拠、必ず見つけてくるから。覚悟しなさいよ」

 水咲はすぐにつかんだ襟元を放した。瀬戸宇治は何も言わず、黙って教室を出た。それに引き続いて、ぞろぞろと後輩らが教室を出てゆく。最後に石巻が残った。石巻はそこを出て行く際には何も言わず、ただ目線だけを水咲と佐々木原に送った。


        *


 水咲は長い脚を伸ばして座っていた。佐々木原は目を赤く腫らして下を向いて座っていた。2人は並んで座っていた。

「目の前に星が回るって言うけどさ、ほんとに回るんだね」

「ののちゃん、ごめんね。元はと言えば、会長のわたしが自転車の管理を怠ったから、こういうことになったんだよね」

 水咲は申し訳なさそうに謝った。

「華奈のせいじゃないよ。何より、自転車は戻ってきたから良かったよ。あいつが全部悪いんだ。あいつ、なんて名前だっけ? セトオジだっけ? あいつが自転車を盗んだ証拠ってないの?」

「ないのよね。証拠もなしに彼に接触するのは良くなかったかな?」

「そんなことないよ。今まで、華奈が怪しいと思った人間て100パー当たってるもん。きっとあいつが犯人なのは間違いないよ。問題は証拠だよなぁ、証拠。どうすれば盗んだことになるんだ? ハンドルに指紋がついてるとか。ああ、ダメだ。あいつ手袋してた。てゆーか、私たち最初から指紋なんて採れないね」

 佐々木原は頬を押さえながら、あれこれ証拠になりそうな事柄を独り言のように挙げていった。

「通学路に自転車のタイヤの跡がついているとか。ああ、これもだめか。あいつらが乗ってたっていう証拠にはならないよなぁ。だったら、自転車のカゴにあいつらの忘れ物が置いてある、とか。いや、これはあいつらが盗んだ証拠にはならないなぁ」

 水咲も脚を組んで腕を組み、一点を見つめて考え込んでいるようだ。やがて、佐々木原の意見が独り言になっていたとき、水咲の表情がフッと変わった。

「ああ、この考えもダメだな。ええー、これ証拠ないよ。ムリだよ、誰かが目撃してないと。大変だなぁ、目撃者捜しは」

 水咲はとある一点に歩み寄るとしゃがみ込んだ。そこはちょうど瀬戸宇治らが座っていた辺りだった。そして、水咲はその一点を摘み上げた。それは濡れたピンクの花びらだった。

「なにそれ、どうしたの? サクラの花びらじゃん」

「サクラだよね、これ?」

 すると、佐々木原はこのときばかりは珍しく頼りがいのある発言をした。

「もしかしてこのサクラ、通学途中に咲いてるサクラじゃない? そうだよ、絶対そうだよ。サクラってここら辺にはあそこ以外ないもん。そうか、今日は風が強いから散っちゃってるんだ。これだ! 見つけたよ、証拠!」

 勢いよく立ち上がった佐々木原に水咲は「ちょっと待って」と手の平を立てた。

 今のですっかり頬の痛みがとれたと思いきや、またも痛みがぶり返してきた。

「ののちゃん、まだ喜ぶのは早いよ。サクラの花びらが落ちてたからってどうなるの? タクシーの窓を開けていたから、入ってきちゃったって言えば簡単に逃げられちゃうわ。だいたい、この花びらは彼らの身体にくっついてここまで運ばれてきたっていう証明もできない」

 ますます頬の痛みが増してきた佐々木原は、がっくりと肩を落とした。この花びらは何の役にも立たないということではないか。

「ちょっと自転車見てみたいね。盗まれたあと一度も見てないから」

 こうして、2人は校舎の外へ出た。それにしても4月だというのに風が冷たい。今日はまた3月上旬の気温に逆戻りになると天気予報で言っていた。

 大学の駐輪場にはさっきと変わらぬ数の自転車が置いてあった。どの自転車にも鍵は前と後ろについていて、1個しかついていない自転車など名探偵研究会の自転車くらいだ。

 2人はしゃがみ込んで自転車を観察した。鍵以外に外傷はなく、以前と変わらない。いや、ゴムひもがないくらいだ。

 自転車のカゴに桜の花びらが1枚落ちていた。

「この自転車があのサクラの下を通ったことは間違いないけど、彼らがこれに乗っていたのかまでは分からないな」

 水咲は花びらをカゴから追い出した。

「花見をやる前に全部散っちゃわないかね?」

「華奈の場合、花が全部散っても関係ないんじゃない?」

「それどういう意味よ?」

 そう言いながら水咲は、自転車のとある所からまたも濡れた花びらを摘み上げた。今度は1枚ではなかった。花の茎から切れてしまったのか、3枚の花びらが茎にかろうじてくっ付いていた。

 それを見た水咲は満面の笑みで佐々木原に言った。

「この事件、解決かもよ。ちょっと自信がないんだけど」

「うっそー? さすが華奈! やってくれるね!」

「ところでののちゃん、このサクラってソメイヨシノっていう品種だって知ってた?」

「知らなーい。サクラはサクラじゃないの?」



 第9話 常識知らずの男~事件編《後編》【完】

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