表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
美学生 水咲華奈子Ⅸ -常識知らずの男-  作者: 茶山圭祐
第9話 常識知らずの男
1/4

事件編《前編》

旅行サークル所属  瀬戸宇治せとうじ 雅弥まさや

        1


「率直に言う。好きだ。僕と付き合え」

 それは、ウェイトレスに席を案内されただけで、まだ水すら来ていない状況での発言だった。

 黒のコートも脱がずに、まずタバコに火をつけた瀬戸宇治(せとうじ)雅弥(まさや)は、黒のパンツを履いた両足を広げ、テーブルに肘を突いて煙をくゆらす。両手の中指にはめたシルバーの指輪がぎらぎらと光っていた。

 一方、目の前に座っていた黒髪のショートカットの石巻(いしまき)(いずみ)も、首周りにフリルのついた白いコートを脱がずに戸惑った表情で座っていた。

 2人の間にはしばらく沈黙が続いた。その沈黙を少しでも耐えるために、彼は何度もタバコを口に咥えて煙を撒き散らした。

「ご注文どうぞ」

 彼女の返答より先に、ウェイターが水を持って注文を受けに来た。その瞬間、瀬戸宇治の表情は険しくなり、ウェイターをにらみつけると同時にタバコの煙を吹きかける。

「ちょっと待て」

 煙をまともに吸い込んでしまったウェイターはひどく咳き込むと、訳が分からず退散した。

 瀬戸宇治は石巻の返事を待った。その間はひどく長く感じられた。彼女は答えに迷っているのか、それとも、答えは出ているが切り出す言葉を探しているのか。どちらか分からないが非常にじれったかった。

 やがて彼女は「は、はい。よろしくお願いします」と、照れ臭そうにそう囁き、嬉しそうに水を一口飲んだ。

「ほんとか?」

「はい。実は、私も少し気になってました」

 今度は彼が嬉しそうに水を一口飲むと、さっきのウェイターを呼びつけた。

「おい、ウェイター、注文だ注文」

 ウェイターはこの客に対する気持ちを抑えながら、営業スマイルで接客を始めた。

「何が食べたい? 好きな物でいいぞ。うまいもん好きなだけ食べさせてやるよ。このメニューに乗ってるの全部頼んだっていい」

「そんなに食べられないですよ」

「食べられなかったら残せばいいんだから。遠慮するなって」

 彼はとりあえず彼女を差し置いて、まずは自分が食べたい物を注文した。

「なに悩んでんだよ。食べたいの片っ端から言っちゃえよ。俺なんて3つも頼んだぞ」

「すごいですね。じゃ、私はパスタで」

 ウェイターは注文を繰り返すと厨房へと引っ込んだ。

「それだけでいいのか? 遠慮しないでもっと頼めばいいのに。ああ、金のことなら心配するな。これからはすべて僕が出してやるから。今日から僕たちはもう他人同士じゃないんだから」

 ビルの地下にあるその店は、昼間でも店内の照明を落としてお洒落なカフェバーを演出していた。お洒落なカフェバー。なんと響きのいいことだろう。彼はこの店がとても気に入っていた。自分の身分に相応しいカフェバーだからだ。授業が遅くに始まる日は、いつもこの店に立ち寄ってから大学に行くことにしていた。

「それじゃ、今度の土日どこ出かけるよ? 横浜のランドマークに泊まるってのはどう?」

 横浜に泊まるといえば、日本で1番背の高いランドマークタワーに決まっている。なんでも1番が好きなのだ。一応彼女に意見を聞いてはみたが、心は既に決まっていた。

「横浜ですか?」

 まさか疑問文が返ってくるとは思わなかった。こっちはホテルの部屋はどの方角がいいかを検討していたところだったのに。

「嫌か?」

 瀬戸宇治は黒のコートと首に巻いていた白いマフラーを荒々しく脱ぎ、かたわらのソファーに放り投げることによって苛立ちを表現した。ダークグレーのワイシャツにダークグレーのネクタイ、ダークグレーのスーツをビシッと着こなしている姿は、まるでクラブのホストさながらだった。

「いや、その、私は瀬戸宇治さんの行きたい所でいいです」

 彼はにこりと笑顔を返した。やはり彼女に告白してよかった。すぐに突っかかってくる女なんて好きじゃない。

 石巻は白のコートを脱ぐと自分の座っている椅子の背もたれにかけた。白のセーターに白のミニスカート、黒のブーツを履いていた。薄暗い店内も彼女の周りだけは明るく見える。

「じゃあ、決まり。予約しとくよ。ホテルとハイヤーに」

 ホテルとハイヤーに予約する。この言葉は女性と遠くへ出かけるときの決り文句だった。彼は自動車の免許を持っていなかった。車の運転なんてあんなに面倒なものはないし、自分が運転しなくても親が乗せていってくれるので持つ必要がないからだ。

 もう少し大学が近ければ、きっと毎日送ってもらっていたに違いない。しかし、自動車通学をしていたら、この店に巡り合えなかったことだろう。この店があるから毎日の電車通学が苦にならないのだ。

「ハイヤーですか。贅沢ですね」

「全然、贅沢じゃないよ。あいつらは人を送迎することを仕事としてるんだから、もっと利用してやらないと」

「でも、高いですよね?」

 石巻はごく普通の女性だった。飛び抜けて派手な格好をしているわけでもなく、地味な格好でもない。飛び抜けて美人でもなく、またその逆でもない。お金に対する価値観も人並みだった。

「高くない、高くない。だって高級車だよ。高級車で家まで出迎えてくれて、酒飲んでる間に目的地まで運んでくれて、最後はまた家まで送ってくれる。これであの値段。安いもんだよ」

 ハイヤーが高いだなんて思うってことは、よっぽど今まですさんだ生活を送ってきたのだろう。貧しい生活を送ってきた女を彼女にすると、実に金の使い甲斐がある。こっちが金を出してやるだけで驚きの表情をしてくれる。結局、この世の中金なんだ。金が持っている奴が1番偉い。

 だから、自分より金持ちの女は嫌いだ。自分より偉い奴なんて見たくもない。

「泉は、カネのことは一切考えなくていいんだからな。なんたって僕と付き合ってるんだからね。欲しい物あったら何でも言いな。ダイヤの指輪でもネックレスでも、ブランドのカバンでも。この世の中で1番の物を僕は腐るほど持ってるんだから」

 瀬戸宇治と石巻は1年差の旅行サークルの先輩後輩の関係にあった。去年の今頃に石巻が入部してきたので、出会ってから1年が経っている。瀬戸宇治は彼女が入部したときから気になっていたが、その時点では他に好きな子がいたので、今まで何も発展せずにきていた。ところが、ちょうど今から1ヶ月前、その短い片想いは花と散った。だから今度は石巻へと急接近していったのである。

 彼は上着のポケットから長財布を取り出すと、5枚のクレジットカードを見せびらかすようにひらひら振って見せた。

「ようやくこれが大活躍するときが来た。やっぱ男はカードの4、5枚は持ってないとかっこ悪くてしょうがないでしょ」

「す、すごい」

「現金も常に50万は持ち歩くことにしてる」

 財布の中をチラリと見せた。札束がぎっしり詰まっている。

 彼女は驚きの言葉しか出てこないらしい。僕にとっては当たり前のことなのに。

「お待たせしました」

 最初の注文品がやってきた。

「ここは頼んだらすぐに出てくるから好きなんだよな。どんなに店が混んでいても出てくるのが早い」

「そういう店って嬉しいですよね」

「そうだろ? この店は一押しだよ。会計もカード使えるし。ここで泉に告白できて、いい返事がもらえたんだから、こんなに嬉しいことはないよ。僕は今最高の気分だから、この勢いで今度のゴールデンウィークの計画も立てちゃおうぜ。海外に行こうか?」

 彼の金遣いの荒さは留まることを知らなかった。


        *


 瀬戸宇治と石巻は2時間ぶりに地上へ出た。外はどんより曇っていたが、それでも眩しく感じられた。

「おお、寒い」

「良かった。まだ降ってないですね」

 今日の天気予報では午後から雨になると言っていた。だから、2人は勿論、辺りの街行く人々は片手に傘を持っていた。今日の予報が外れたとなると、この傘は今日1日無用の長物となってしまう。

「なんだよ、まだ降ってないのかよ。僕、このパターンが1番嫌いなんだよな。持ってきたのに使わないっていうさ。降らないなら降らないって言ってくれよ」

「昨日、午前中まで降ってたから予報がズレたんじゃないですかね? でも、この様子だといつ降ってきてもおかしくないですけど」

「早く降れ降れ」

 瀬戸宇治は傘で天を突いた。

「どうして降ってほしいんですか?」

「だって、この傘ブランドもんだから、広げて歩きたいんだよね」

 石巻は「そ、そうですか」と言うと、赤い手袋をした。瀬戸宇治も同じく黒の手袋をした。

「ちなみに、この手袋もブランド物」

 瀬戸宇治はふざけて石巻の陰に隠れながら歩いた。

「背が高いからいいね。風除けになるよ」

 瀬戸宇治は石巻より10センチほど背が低かった。彼は悲しいことに自分より背の低い女性と今まで一度も付き合ったことがなかった。石巻は女性の平均身長を上回っていて、2人の身長差はあからさまだった。

 彼らはふざけながら歩いていた。このカップルが、つい2時間前に誕生したとは誰も思わないだろう。

 大学は駅の東口から徒歩25分の所に位置していた。結構な距離だ。真冬のその道のりは更に遠くに感じられた。

 瀬戸宇治のお気に入りの店は駅の西口に構えている為、一度駅の中を通らなければならなかった。1人で歩くときにはこれがまた長く感じられるが、今日はそんなことはないようだ。

 駅の中は風がないため暖かかった。お昼なので朝ほどの混雑は見られない。ふざけて歩いていても人にぶつかることはなかった。

 東口へ抜けた。こちらの方が西口よりも賑やかだった。西口はオフィス街なので大きなビルが建ち並び、就業中はいたって静かだが、お昼の時間になると虫が湧いたように大勢の人々で歩道は賑やかになる。それに対し東口はショッピングセンターやデパートが集中している商店街だった。買い物客で常に賑やかだった。夕方になると、似たような服装をした高校生がカラオケ店やゲームセンターの前にたむろっている姿が見られるようになる。

 2人は楽しそうに話をしながら歩いていると、突然、前方から大きな音楽が流れた。ディズニーでお馴染みの『小さな世界』だ。デパートの外壁に備え付けられた巨大な時計が午後1時を示す音楽だった。

「ラッキー。見に行こうぜ」

 2人は走って時計を見に行った。そこは小さな人だかりとなっていて、みんな時計を見上げている。

 時計盤には小さな扉がいくつもあって、音楽に合わせて1つずつそれが開く。すると、中から可愛らしいディズニーキャラクターが出てきて踊り出すという仕掛けだった。時間がジャストになるとこの仕掛けが毎回稼動し、人々の足を10分ほど休ませた。

 時計を見上げている人の大半は、時間がジャストになったときに時計のそばを偶然通り掛った人、または待ち合わせでそこにいた人である。2人のように偶然通り掛って時計を見られる確率というのは極めて低いので、彼らはこの10分間をじっくりと堪能するつもりだった。

「ちょっと待てよ。もしかして、今1時?」

 1時を回って30秒も経たないうちに瀬戸宇治は異変に気付いた。

「やばい! もう1時だったのか!」

 瀬戸宇治は石巻の手を引っ張り、なぜか大学とは逆方向へと走り出した。

 石巻は瀬戸宇治の行動にわけがわからず、とりあえず彼に引かれるがままに付いて行く。どうやら、駅のロータリーへ向かっているようだ。タクシーに乗ろうとしているのだろう。タクシーで行けば10分かからずに行ける。

 しかし、瀬戸宇治はタクシー乗り場が近付いてきても、走る速度を緩めなかった。緩めるどころか素通りしてしまった。

 わずか1分ほどしか走っていなかったが、石巻はブーツだったので足が痛くなってきた。これ以上走ったら、足を挫いて転んでしまうかも知れない。しかし、瀬戸宇治はそんな石巻のことなど考えもせず、自分のペースで走り続けていた。

 ロータリーから少し離れたところに市営の駐輪場があった。瀬戸宇治はそこへ走りこんだ。

 その駐輪場は、市営のわりには設備がしっかり整っているわけではなく、屋根もなく外灯もない。単に地面がコンクリートで固められ、白線が引いてあるだけの駐輪場だった。駐輪場の入口にはプレハブの事務所があり、市の職員がいつも誰かしらいるようで、それがなかったら市営であることが分からない。

 2人は堂々とその事務所の前を通って駐輪場の奥へと向かった。

 なるほど、瀬戸宇治はこういうときの為に自転車を用意してあるのだ。随分と準備のいい人だ。タクシーに乗らないわけである。石巻は瀬戸宇治の頼りがいのある一面を見たと思った。

 ところが、彼は不思議なことを言い出した。

「どの自転車がいい?」

 石巻の表情は一変した。

「ど、どういうことですか?」

「この中から1台借りるってこと。どれがいい?」

 そこには自転車は腐るほどあった。何百台とあることだろう。しかし、この中には1台も彼の自転車はないのだ。

 瀬戸宇治は目玉をキョロキョロさせて手頃な自転車を選んだ。

「よし、これにしよう。2人乗りできるから」

 その自転車はいわゆるママチャリと呼ばれている一般家庭の主婦が乗るスタンダードな自転車だった。まだ買ったばかりなのか、いつも磨いているのか分からないが、全体がシルバーで輝いている。前にはゆったりとした大きなカゴが付いている。後ろの荷台にも荷物を載せられるように、ダンボール箱などを縛り付けるゴム製の紐が巻いてあった。前輪からハンドルにかけての右フレームには、傘を入れておく筒が備え付けられている。また、反対の左フレームには最新型のライトが付いている。周りが暗くなると自動的に察知して点灯する、少し高価なライトである。ハンドルの中心には予備のライトまでついている。

「これでいいでしょ?」

 石巻は口ごもって返事に困っていると、瀬戸宇治は鶴の一声を発した。

「しかもこれ、鍵が1個しかついてないからこれがいい。時間ないし」

「は、はい」

 そして、瀬戸宇治は入口のプレハブ小屋を見て誰も見ていないことを確認すると、前輪に付いていた鍵を蹴り飛ばした。


        2


 午後1時3分。瀬戸宇治と石巻が自転車にまたがったときだった。

 縁のないメガネをかけた小柄な女性が駅の改札から勢いよく飛び出してきた。2つに縛ったセミロングの髪をゆさゆさと左右に揺らし、それと同調してイヤリングとネックレスも躍らせながら全力疾走で駆けていた。膝を出したジーンズのスカートが邪魔して、思い切り歩幅を開けて走ることができなかったが、それでも何とか走り続けた。

 彼女は腕時計を覗き込むと、苦しそうな表情で肩からずり落ちそうになった白い布製の大きな手提げ袋を引き揚げた。袋の右下の隅に『佐々木原』という刺しゅうがしてある。

「まずいよ。遅刻だよ」

 白のソックスに褐色の革靴を履いた彼女は、パタパタと大きな音を立てながら走る。

 佐々木原は、これまでにない自分の足の速さに酔い痴れていたが、周りの人にはそれほど早くには映っていなかった。人間、思い込みで行動するとロクなことにならないと思われがちだが、思い込みが功を奏す場合もある。彼女の場合、100メートルを走った時点でまだ10秒しか経っていないと思い込めていたのは幸せだった。もし、この思い込みがなかったら、途端に精神と肉体のバランスが崩れ、息が乱れて10メートルで走るのをやめていたに違いない。

 彼女は実に軽快な足取りで市営の駅前駐輪場に滑り込んだ。

 駐輪場の真ん中辺りで、いつもはプレハブ小屋でぬくぬくとしている市の職員が自転車の整理をしていた。自転車と自転車の間に隙間が空かないように綺麗に並べている。

 ひどく息切れをしながらゆっくり走り込んできた佐々木原をちらりと見ると、すぐに仕事に集中した。

 未だ息切れがおさまらない佐々木原は体がフラフラしながらも、素早く自分の自転車を探し回った。ここの駐輪場に停めている大半の自転車のサドルは黒だった。佐々木原の自転車のサドルはグレーなので簡単に見つかるかと思った。ところが、何度目を凝らして探しても、見慣れたいつもの自転車が見つからない。

「おかしいな。ないよ」

 1分、2分経つにつれ、彼女の鼓動は早くなっていった。せっかく落ち着いてきた息切れも再発した。ゆっくりと探している時間があればいいのだが、今は緊急事態だ。早く自転車を見つけて授業へ出なければならない。

 腕時計を覗く。1時7分。

 もう、佐々木原には自転車を探し出す能力はなくなっていた。時間を知った瞬間、冷静さを失った彼女の頭は真っ白になってしまったからである。

「どうしよう、どうしよう。なんでないの?」

 佐々木原は、自転車があるだろうと思われる範囲の端からもう一度探し出すが、何も成果は挙げられなかった。

 彼女は手を震わせながらカバンから携帯電話を取り出し、リダイアルボタンを押そうとしたとき、見覚えのある紐が地面に落ちているのが目に入った。それはまるで、人間界をさまよい続けて力尽きた蛇が干乾びてしまったように見える。

「うっそー! これ、うちらのやつじゃん」

 その紐が何を意味するのか、誰にも教わらなくても佐々木原は理解できた。自転車が盗まれたということだ。佐々木原の、いや、名探偵研究会の自転車が何者かに盗まれたということなのだ。

「うそでしょー!」

 盗まれたとするなら、何度探しても、どんなに目を凝らしても見つかるはずはない。佐々木原は最後にもう一度だけ辺りを見渡した。だが、あのシルバーの自転車は見つからず、代わりに市の職員と目が合った。

「おじさんのバカ! 役立たず!」

 佐々木原は走って駐輪場から飛び出した。おじさんは口を開けたまま突っ立っていた。


        *


 自転車を盗まれたことに佐々木原が気付いた頃、とある教室で、旅行サークルの瀬戸宇治の後輩6人は、先輩がなかなか教室に現れないことを心配していた。もう既に1時を過ぎているというのに、どこで何をしているのだろうか。早くしないと先生が来てしまう。と、先生が来てしまうことを恐れ始めると、意地悪なもので関瓦(せきがわら)教授がやってきてしまった。

 後輩6人のうち、髪を緑に染めた一際目立つ桑谷(くわたに)は、先生が来たことをきっかけに連絡をとってみることに決めていた。この授業は先生がやってきてもすぐには静かにならない。なぜならば、出欠をとるからである。だから、その間に電話ができるのだ。

 この授業はどんなことがあっても、この出欠のときに本人が返事をしなければならなかった。

 関瓦は壇上の椅子にデンと構えると生徒の名前を呼ぶ。そこまではよくある光景だが、その後に、返事をした学生は起立しなければならないのだ。顔を見せる為である。つまり、代返は通用しないということだ。

 関瓦は視力と記憶力が非常に素晴らしかった。500人収容できる講堂で授業を行っても、500人全ての学生の顔を記憶する。これだけ学生が多いのだから、1人や2人同じ人間が立っても、という甘い考えで代返をすると痛い目に遭う。代返を成功させるには、顔を整形しない以外になかった。

 代返がバレてしまうと、即刻教室から排除され、かつ単位も与えない。初めの授業でそう忠告していた。

 学生の人数が多い場合、当然、学生の名前を呼ぶ順番に不公平が生まれてくる。だから、関瓦は呼ぶ順番を色々と変えていた。したがって、誰もが一番初めに呼ばれる可能性は十分にあった。

 これだけ出欠取りが厳しいのにはわけがある。関瓦の成績判定は出席率なのだ。すなわち、出席率100パーセントは、前後期2回のテストを受けなくても単位を与えると言うのである。授業に出るだけで無条件に単位取得。関瓦の授業に飛びつかない学生はいなかった。だから、いつも大入満員である。

 そんな素晴らしい出欠システムを導入している授業なのに、始まって2回目でもう瀬戸宇治先輩と石巻先輩は脱落しようとしているのだ。今日は瀬戸宇治先輩は石巻先輩に告白をする日。授業に遅れているということは、恐らく高い確率でうまくいったのだろう。きっと、浮かれて時間が経つのを忘れているに違いない。

「先輩、電話に出るかな? もし、慌てて走ってたら、ズボンのポケットに入れてるからまず気付かないだろうな」

 桑谷は急いで瀬戸宇治の携帯電話とコンタクトを始める。すると、ものの10秒もしないうちに繋がった。

「おし、つながった。先輩、どうしたんですか? 今どこにいるんですか?」

 周りの仲間達は桑谷の会話に耳をすませた。

「そうですか。分かりました。どうやら今日はあいうえお順を降順で呼んでいるようなので、多分大丈夫だと思いますけど、なるべく急いだ方がいいですよ。あっ、それから……」

 桑谷は一度間を開けて焦らすようにゆっくり喋った。

「……今日の件はうまくいったんですか?」

 そして、桑谷は電話を切ると、周りの仲間に状況を伝えた。

「先輩はあと5分くらいで着くってさ。まぁ、5分程度なら瀬戸宇治先輩も石巻先輩も呼ばれないだろう」

 この授業は定員100名なので教室もそれほど大きくない。だから、遅れて教室に現れれば当然見つかってしまうのだが、関瓦は遅れてくることは問題にしていない。要は、名前を呼んだときにそこにいるかどうかなのだ。

 桑谷は再びみんなの顔を見ると、真剣な表情を笑顔に変えて言った。

「それと先輩、告白がうまくいったから、多分今日の飲み会は先輩の全おごりだ。松森、ふぐ料理屋に予約しとけ」

「わかりました!」

「あと、ビンゴゲームの紙も忘れずにな。こういうときの為に、先輩は常に50万持ってるんだからな」

 6人は静かにガッツポーズをとった。

「久し振り来たなぁ、ビンゴゲーム」

「こんなに燃えるビンゴゲーム、他ではないよな」

「景品が現金なんてどこのサークルにもないよ」


 5分後の1時11分。電話の予告通り、瀬戸宇治と石巻は教室に現れた。

 2人は小走りに教室の中を歩くと、サークル仲間が集まっている机に辿り着く。

「お待たせ。まだ僕の名前は読んでないよな?」

 と、瀬戸宇治が言った瞬間、瀬戸宇治の名前が呼ばれた。

 瀬戸宇治は元気よく返事をすると勢いよく立ち上がった。

「あぶねぇ、ギリギリセーフ」

 瀬戸宇治と石巻はコートと手袋を外して改めて席に座った。

「先輩、どうしたんですか? 2回目でこんなんじゃ、先が思いやられますよ」

「大丈夫だって。今日だけだ」

 しかし、桑谷の言うことも満更ではない。もし、名前を呼ぶ順番が違っていたらアウトだったかもしれない。

 瀬戸宇治は隣りに座っていた石巻を見た。彼女はブーツの上からふくらはぎをさすっていた。

「大丈夫か? ちょっと慌てちゃったな。今度から遅れないようにしような」

 石巻は黙ってうなずいた。


        *


 大学に面した国道を1台のタクシーが信じられないスピードで走っていた。やがて、耳を衝くブレーキ音を立てて大学の正門前にぴたりと止まると、後部ドアが開く。

 佐々木原は1000円札を1枚手渡すと、運転手は予め用意しておいたお釣りを素早く出した。

「今、1時15分。間に合うかな?」

「ありがとうございます。走ります」

 そして、タクシーから降りて正門を一歩跨いだとき、正門脇に大学の駐輪場が目に入った。佐々木原は横目でそれを見ながら走り出そうとすると、見覚えのある自転車を見つけた。シルバーの自転車だ。大きなカゴが付いている。ハンドルの中心に予備のライトが付いている。そして、荷台にはゴム紐が巻かれていない。

「あぁー! あったぁー!」

 佐々木原は自転車に駆け寄った。間違いない。名探偵研究会の自転車である。まるで、何十年振りかの再会のようにサークルの自転車が懐かしく思えた。確かに、ここ数ヶ月は遅刻などなかったので、今日のようにこの自転車を必要とするときはなかった。だから、数ヶ月ぶりの再会であるのは確かなのだが、それ以上に長い間見ていない気がした。そして、何とも思っていなかった目の前の自転車に対し、急に愛着が湧いてきた。

 この自転車は去年の学園祭で、サークルでシュークリーム屋をやる為に、駅のデパートまで買出しに行くのに必要だろうということで購入した物だった。メンバーでお金を出し合って買ったのだ。

 学園祭が終わると、この自転車を駅前駐輪場に置くことにした。目的は、今日の佐々木原のように、授業やテストに間に合わない場合、この自転車を利用できるようにする為だ。だから、購入してからまだ半年も経っていないのに、もしもこのまま盗まれたままだったら大変なことになっていた。

 ふと前輪部を見ると、ガッチリと踏ん張っていた自転車の鍵がだらしなくよそ見をしていた。明らかに、鍵が蹴り飛ばされて壊れている。

「もう誰よ! こんなひどいことする奴は!」

 佐々木原は再会の感傷に浸るのもそこまでにすると、一目散に正面玄関へ向かった。

 教室までの道のりは50メートルもなかった。授業のある教室は1階にあるので、玄関をくぐればすぐの所にあったからだ。

 校舎に入ると、目の前の教室からマイクを通して佐々木原の名前を呼ぶ声がした。

「佐々木原」

 名前を呼ばれてしまった。これに返事をしなければ、期末テストでいい点を取らないと単位がもらえない。と、一呼吸の間が空いた後、もう一度名前を呼ばれた。

「佐々木原」

 その直後、佐々木原は教室のドアを思い切り開け、手を挙げながら返事をした。

「はーい! はーい! ここにいまーす!」

 教室にいた学生が一斉に振り向いた。入口付近にいた学生からワッと笑いが起きる。中には拍手する者もいた。

「セーフ! セーフ!」

「よく頑張った!」

 そんな声がちらほら飛んだ。

 佐々木原は笑顔に包まれながら教室内をゆっくり移動する。

 教授は微笑みながらその様子を眺めていると「はい、静かにしなさい」と言って出欠取りを再開した。

 佐々木原は教室内を見渡す。すると、自分の居場所を示すように手を振っている者がいた。彼女はそこを目指して移動した。

「危ない、危ない。こういうのをギリギリセーフって言うんだね。こんなにギリギリだったのは生まれて初めてだよ」

 佐々木原は、1人で長椅子に座っていた髪の長い女性の隣りに座ると、持っていた手袋を机に置き、コートを脱ぎながらそう呟いた。

「大変だったね」

 髪の長い女性は滑舌のよい、甘い美声の持ち主だった。



 第9話 常識知らずの男~事件編《前編》【完】

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ