8.子の三つ時
神社に来るなり、向井は「ホンマすまん!」と頭を下げた。ギプスで固定した左腕を三角巾で吊っている。
「どうした、それ」
「昨日、組手の練習試合でまずい受け方してもた。恐ろしいスピードの後ろ回し蹴りで……」
意気消沈しているのかと思いきや、相手が好敵手だったのか目を輝かせながら腕を動かそうとする。
「ダメだよ!」
映実の思わぬ形相に向井は固まった。小さな手でギプスされた腕を挟んだので俺まで止まってしまった。
「お医者さんは安静にする前提で治療してるの。理解した上で生活しないと」
三十㎝も身長差のある映実に諭されて向井が呆然としている。「わかった?」と念を押されると、しおらしく「申し訳ございません」と頭を下げた。
「どれくらいで治るんだ」
「全治四週間」
そうか、と言うと深く頭を下げた。
「しばらく補助はしてやれん。勘弁してくれ、この通りや」
「治すのが先だろ、安静にしてろよ。今日は別の用件だから」
「子の三つ時に来い、て言うた誰かがおるんやろ」
「なんでわかった?」
「高見が『子の三つ時』なんて言葉知ってると思えん」
思わず向井の背中をはたいた。わざとらしく痛がりながら「怪我人を労れ!」と叫んだので「俺のことバカだと思ってるだろ!」「古典の授業いっつも寝とるやないか!」と取っ組み合いになった。
「高見くん、誰に呼ばれたの?」
映実に言われ、向井の袖から手を離した。
「雅彦の……婆さん」
「おれらを過去に飛ばした張本人か」
二人の目の色が変わった。過去でのでき事は夢のようなものだったらしい。それ以前も過去に戻ったことがあるか、よくわからないと映実も言っていた。
向井は懐中電灯で前方を照らした。
「ほな、会いに行きますか」
人工の明かりを頼りに石段を登っていく。後ろから来る映実の足取りが重い。
「怖いなら無理に連れて行かないけど」
「えっ? ううん、大丈夫!」
肩が少し震えている。手を差し出すと一瞬間があって、俺の豆だらけの手を握り返してくれた。
鳥居の真下で向井が足を止める。一瞬、青い煙のような何かが体を覆ったと思ったが「どうした?」と声をかけると消えてしまった。ぎこちなく振り向いた向井が「何もない」と境内に入る。
「よく来たね、小僧ども」
地鳴りのような声が響き、拝殿に目を凝らした。紫の袴をはいた婆さんがゆっくりと宙に浮く。奥には鈴尾が見え、体は透けている。
「まーくんのおばあちゃん……」
「ばっ……ばあちゃん浮いとるで!」
口々に言ったが我関せずといった様子で浮いたまま近づいてくる。
「これで全員かね」
「もう一人気になる奴がいるけど」
「何故連れてこなかった」
「あいつはまだ信用できない」
沖間が俺の演技構成を口にした、あの衝撃が忘れられない。俺が戦ったのは高校一年の沖間だったのか。体操はもうできない、あの声が耳の奥にこびりついている。
「まあ……今回はよしとしよう。ついて来い」
御弊を手にした婆さんは浮かんだまま拝殿へ入っていった。
向井は手を震わせながらも冷静に婆さんを懐中電灯で照らしていた。光は婆さんの体を貫通して拝殿の奥を照らす。影もできない。
何度も試すと怒られたが、納得いった様子で「あれは実体とちゃうんやな」とつぶやいた。
「向井くん、かしこーい」
映実がささやいた。向井が「定期考査で学年一位の奴に言われても嬉しないわい!」と叫んでしまい、婆さんにきつくにらまれた。
古い木戸を開けて暗闇に入る。俺たちは身を縮めながら顔を見合わせた。
「松谷ってすごい奴だったんだな」
「苦手な数学でお兄ちゃんのヤマが当たっただけだから」
「まぐれで一位なんか取れんわ」
「向井くん、五点差で二位なんだよ。古典と日本史がトップなんてすごいよね」
「きー! おまえのそういうところが腹立つ」
またしても向井が声を上げてしまい、透けた袴が頭に覆い被さった。
「ここは本殿に続く神聖な道なんだよ、今すぐあの世に送ってほしいのかい!」
「いえっ、申し訳ゴザイマセン!」
変な関東の発音で言って必死に頭を下げた。自然の洞穴に人工の鉄骨を合わせた通路には不気味な風が吹くのに、向井が全部吹っ飛ばしてしまう。
おかしな奴だなと思うと、自然と緊張も解けた。
「入りな」
薄暗闇の中に小さな鳥居が三つ連なっていた。どこからか風の吹き込む音が聞こえ、背筋が冷たくなる。
「なんで洞窟の中に鳥居が……」
「この世とあの世の境目なのさ。長居しなけりゃ死にゃしないからさっさと通るんだ」
透けた体の向こうに紙垂のかかった木戸がある。息を飲んで顔を見合わせ、婆さんの後に続いた。
「ひえ……なんやここ」
入るなり向井が声を上げた。朽ちた木戸の向こうに果てしない空間が広がっている。
遥か高い所に天井があり、石か植物か発光する物体が張りついている。右も左も正面も果てが見えない。空間全体に薄もやがかかり寒気がした。
「お連れ致しました」
婆さんがうやうやしく頭を下げると少年が姿を現した。
「待ちわびたぞ」
衣褲姿の少年がにこりと笑った。八の字に結った髪を耳の下でまとめ、勾玉を通した首飾りをしている。ゆったりとした白い衣を手元で結い、腰には鞘のような物を下げていた。
膝のあたりに結んだ鈴がちりりと鳴って、心臓が止まりそうになる。
「雅彦……?」
「マサヒコは我が血統の末裔である」
「……祖先なのか?」
「正しくは我が弟の子孫であるがな」
少年が宙に舞い上がる。呆気に取られていると「これを見よ」と言って手を振りかざした。
映画のスクリーンのように空中に映像が写し出された。駅の改札前に俺と雅彦が写っている。着ているのは揃いの赤いTシャツだ。そばに映実もいる。
背中がざわつく。無音だが間違いなくあのシーンだ。真っ赤なスポーツカーが脇目もふらず突っ込んで雅彦をはねとばす。
映実の頭を腕で抱きかかえた。音がなくてよかった、と嫌な汗をかいていると向井が食い入るように映像を見ていた。
「なんで避けようとせんねん……普通はとっさにハンドル切るやろ」
雅彦が血を流して倒れている。少年は「ふむ、ではもう一度」と人差し指をくるくると回した。
映像が始めに戻る。談笑している俺と雅彦、映実がいる。周囲の人間が何かを見て驚いている。そこへ突如スポーツカーが現れる。
「ここだ、よく目を凝らしてみよ」
少年は静止させた画像の一点を指した。砂のように揺らめく映像に目を凝らす。示すのは前輪を宙に浮かべたスポーツカーの運転席だ。ドアウィンドの向こうに街の風景が映し出されている。
「……誰も乗ってない?」
信じられない光景に唖然とすると「えっ、何ー見えないー!」と映実が腕を外し、映像に見入った。
「マツ、転回させよ」
映像が三六〇度回転した。赤い車体が前後左右、全て写し出される。どの角度から見ても乗車する人の姿がない。異様な光景に手が震える。
雅彦をはねた車には誰も乗っていなかった――
「あぁ、疲れた」
少年が地面に足をつくと映像が消えた。天井の植物は再び発光し、冷たい風が流れてくる。首を回して年格好に似合わない動作をすると、音もなく近づいてきた。
「あやつの復活を阻止するものがいる」
「復活って、やっぱり雅彦は死んだのか?」
「いや、肉体が消えただけだ。魂は存在している」
「魂?」
少年はこくりとうなずいた。
「あれは我らと同類の力を以て動かされた物体だ。どこの輩か知らんがマサヒコが存在しては困る者たちがいるのだろう。幾度やり直しても上手くいかぬのはそのせいだ」
また映像を出した。雅彦が血を流している場面だったので映実の視界を遮ろうとしたが「大丈夫だよ」と俺の手を握り返した。
婆さんが御弊を振ると映像は逆再生になり、雅彦がはねられる瞬間が映った。映実の手に力が入り、目を閉じたくなる。
「ここだ、よく見よ」
とばされた雅彦とスポーツカーのすき間を指した。ぼんやりと人の像のようなものが写っている。
「なんだ、あれ」
「我である」
事も無げに言ったので俺たちは「ええっ?」と声を上げた。映像を通り抜ける手前まで近寄って「うむ完璧だったな」と自画自賛する。
「もしかしておまえが雅彦を助けた?」
心臓が早鐘のように鳴る。「おまえとはなんだい、イツセ様だ」と婆さんに頭をはたかれてしまったが、少年は満足気にうなずいた。
「二度も妨害されるとは思わなんだ。この時は我があの物体をはじき、マツがかばって血の色に似せた花の汁をまいたのだ」
褒めてつかわす、と笑顔を見せると婆さんは「勿体のうございます」と頭を下げた。
「して其方らに頼みがある。マサヒコの肉体は復活しておらぬ。その状況は我らにとっても都合が悪い。三度目の時逆に挑んでくれるな?」
袖で顔を半分隠し、当然了承するだろうという面持ちで俺を見た。
「どうすんねん」
「どうって」
向井が俺の肩を叩く。雅彦に似た顔の少年に説明され、もう一度過去に行けと言われても気持ちがついてこない。
「あの怪しい奴の言うこと、信じてるんちゃうやろな」
こっそり話すような格好をして、わざとらしく言った。映実が「どういうこと?」と食いついてきたので彼らにも聞こえているだろう。
嫌になるほど有り得ないことに遭遇した。少年と婆さんを信用しているわけじゃない。共通するのは雅彦を取り戻したいという思いだけ。
でもそれが今の俺の全てだ。
「今すぐか」
少年は不敵に微笑んで刀の柄を天井にかざした。透明の宝石のようなものが目映くきらめき、石と植物を発光させる。
「時逆には膨大な神力が必要だ。一度使えば次に満たされるまで四十四日かかる。最後の時逆は四十と一日後」
頭の中でもカレンダーの日付を追った。四十一日後は――
「七月二十四日……」
雅彦が消えてからちょうど一年になる日だ。
「わかった、その日に来ればいいんだな」
「それまで我らも動向を探るとしよう。では」
少年は霧のように消えてしまった。いつの間にか婆さんの姿もなく、俺たちは洞穴のような空間に取り残された。
「やるんか、三回目のやり直し」
向井の問いかけにうなずいた。俺には「やり直す」以外の選択肢がない。
「ほなおれらも作戦練りますか」
「私も手伝うよ!」
急に意気投合した向井と映実はこれまでの事を分析し始めた。俺が関わったはずなのに遠い世界の話をしている感覚がした。
向井が前方を照らし、後について行く。背中にまた青い煙が見えた。映実の肩にもかかっている気がする。この空間のせいかと目をこすると消えてなくなった。
手のひらの赤い「何か」が炎のように揺らめいている。懐中電灯で照らすその先に、ほんのわずかだが希望の光が見えた気がした。