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7.消えた雅彦

 翌朝、鉛のような体を引きずって登校すると正門で向井が待っていた。


「おはよーさん。あれから上手いこといったか?」


 何も言えず、向井の腕を引っ張って体操場に向かった。力が入らないのに向井は黙ってついてくる。


 やるせない気持ちを抱えて茂吉に借りたままの鍵を差し込んだ。絶対勝つと意気込んでいた日々が嘘のように、鉄棒を見ても心が動かない。


「雅彦くん、どないしてるやろなあ」

「死んだよ」

「……は?」

「二度も失敗した。もうこりごりだ」

「二度ってなんや、一度目もあったんか」


 向井が肩をつかむ。昨夜は眠れず散々悩んだ。こいつに言っていいのか、また巻き込んでしまわないか。


 泣いている映実を思い出した。もう巻き込みたくない、けれど三度目のやり直しがいずれやってくる。どうやって回避するのか、俺ひとりでやれるのか。


「高見、話してくれなわからん」

「……話していいか、わからない」

「そんなこと話してから考えたらええ」


 変な奴だな、聞いて後悔するとかないのか。雅彦と同じ、人を疑うことを知らない目だ。あの凄惨な場面が脳裏に走る。


「ひとりで考えるのはようない。おれのことは地蔵やと思たらええ」


 手を合わせて目を閉じたので思わず笑ってしまった。震える指を握りしめる。


「俺は消えた雅彦を取り戻すために過去で試合をした」


 始業のチャイムが鳴ったが、向井はまっすぐに俺を見ていた。




 体操場で事の顛末を話すと、向井は言った。 


「大変やったな」


 その言葉に感情のふたが弾けそうになる。口元を結ぶと向井は俺をフロアに座らせた。足裏から伝わる柔らかい綿の感触に涙腺がゆるむ。


「先に帰るんやなかったな」

「おまえ……なんで俺のこと覚えてたんだ」


 父さんと和真さんは俺が新月面宙返りに取り組んでいることを当然知らなかった。練習生たちもそうだ、向井とは面識すらない。


「中学の頃の夢見てて、急に試合の話を思い出したんや。そしたら中三のおまえが新月面を跳んだやろ。びっくりしたで」


 向井は夢だと思っていた。もしかして一度目も来ていたのか?


「ま、おれのことはええねん。雅彦くんが車にはねられた後はどないしたんや」

「すぐ意識がこっちに戻ったから……」

「車は?」 


 首をひねると「突っ込んでこんかったんか?」と続けた。


「雅彦くんの真後ろにおったのに、どうやってけたんや?」


 怪我がないか確認する向井を見ながらもやがかった記憶を探る。


「……消えた」


 俺がつぶやくと耳に手をそえて「なんて?」と言った。また指先が震え始める。


 スポーツカーは正面から雅彦をはねとばして眼前で消えた。まるで赤い霧が風で散ってしまうかのように。


「最初もそうだった、俺は雅彦が死んだところなんて見ていない。ただ消えた、それだけなんだ!」


 かぶりつくと向井は首をひねった。


「でも雅彦くんは死んだことになってる」

「そうだ……死んだことに……」

「なんでやろな」

「なんで……?」


 口の中で言葉が留まる。なんであいつは死んだことになってるんだ。あいつの体はどこに行ってしまったんだ。


「家族の人には聞いたんか」

「葬式に行ったし……家には祖霊舎それいしゃもある」

「祖霊舎てなんや」

「雅彦んちは神道なんだ、故人を祀るためのものらしいけど」

「ほな、ちゃんと死んでるんやな」

「俺は……見てない」


 この目で何も見ていない。雅彦が死んだ姿も、あいつの骨も。母さんが亡くなった時のことはよく覚えている。父さんに手を握られて焼いた骨を見た、この目ではっきりと。


「高見を過去に飛ばしたんは誰や」

五魂イツタマ神社の婆さん……雅彦のひい婆さんだ」

「そのばあちゃんに詳しく聞いた方がええんちゃうか?」


 こくりとうなずくと「他におかしなことないか?」と聞いてきた。


 やるはずのなかったムーンサルトを思い出す。過去より難度の上がったユルチェンコ二回ひねり、加点までついたシャオ・ルイチ。


「あいつの名前、知ってるか」

「なんや急に」

「沖間、下の名前なんだっけ」

「二文字やったような……マキ、マサ、マヤ……あっマヨか」


 フロアの上に指で文字を書いた。


「沖間麻世、やったな。それがどないしたんや」

「個人総合戦で二位になった選手、あれが沖間麻世だ」

「あっ……どっかで聞いたことあると思たら!」


 立ち上がったものの「でもあいつ体操できんやろ?」と首を傾げた。


 大きなため息をつく。この世界の沖間はやっと倒立ができるようになったところだ。


「あいつにはまた事情を聞くとして、雅彦くんのばあちゃんとこに行くのが先やな」

「婆さんっていうか、妖怪……」


 透けた婆さんを思い出して口走ってしまった。向井が「妖怪て何?」と大きな目を輝かせる。


 体操場に終業のチャイムが鳴り響いた。「あーしまった! 一限は英単語のテストやった!」と悶絶する姿を見ながら、やっぱり変な奴だなと思った。


 俺の言うことを嘘だとは思わないんだな。


「サボり組、はっけーん」


 中音域の声が聞こえたと思ったら貴橋が映実の手を引いて入ってきた。俺を見るなり映実が泣きそうな顔をする。


「朝からずっと泣いてんだよ、何とかしろ、この……」


 仁王立ちで言いながら貴橋は何か考え始めた。待ったが「この」の後が続かない。


「腹立つからやめた! 次、映実を泣かせたら承知しないからな!」


 そう言って映実の背中を押した。俺はぐっと息を飲む。


「昨日は……嫌な思いさせて悪かった……」


 昨日って何、と言いかけた貴橋を向井が止める。映実の瞳には瞬きをすれば零れ落ちそうなほど涙がたまっている。


「大丈夫だよ、次は私が守ってあげるからね」


 目を丸くすると映実は笑ってみせた。あふれた涙が頬をつたう。力強い笑顔に胸が苦しくなる。


「おまえはこの空手バカに守っても、ら、え!」


 貴橋が迫ってきたので反射的に「いやだ」と言ってしまった。映実がくすっと笑ったので、俺も笑ってしまう。


 怒った貴橋は俺の襟首をつかんだ。向井が「空手バカとはなんやー!」と覆いかぶさってくる。


 俺が「どけ! 苦しい!」と叫ぶと、映実が笑い声を上げた。その笑顔が見られるなら何だってできそうな気がした。



***



 それからしばらく沖間は練習に来なかった。俺は茂吉と練習メニューを組み、準備体操を始める。


 例の婆さんも見ていない。社務所にいる雅彦の母親に聞いてみたが首を振るばかりだ。向井は言った、物事には必ず原因と結果がある。雅彦が消えた理由もあるはずだ、あの婆さんは知ってて行方をくらませたのではと。


 倒立から前転をして起き上がった。他の部員がまだ倒立を練習する中、開脚旋回を始める。


「きれいな旋回だね」


 のんびりと言ったのは制服姿の沖間だった。うっかりバランスを崩し、両手がもつれてひっくり返った。


「おまえっ……欠席じゃなかったのか」

「家の用事があったから今来たの。見学させてもらうね」


 次会ったら問いつめてやると思っていたのに柔和な笑顔に出鼻をくじかれた。改めて観察すると、小柄な割に太い首としっかり伸びた背筋をしている。


「服、脱げ」

「え?」

「正体現せって言ってんだよ!」


 腕で胸元を覆う素振りに腹が立ち、沖間のネクタイを引っ張った。


「やめてよー!」


 高い声で叫んだので「ふざけんな!」とシャツの襟首をひっつかんだ。


「何バカやってんだ」


 声に振り返ると戸口に貴橋が立っていた。


「何の用だよ」

「ゴリ男から伝言、所用で休む。用があれば携帯で対応する、以上」


 言うなりメモ用紙を置いていった。ゴリ男って向井のことか。紙には書道師範のようなたち筆で名前と電話番号が記されていた。


「貴橋さんってきれいだね」


 沖間がつぶやいた。同級生に「さん」付けって何なんだと苛立ちながら、ため息をつく。


「本当に体操できないのか」

「ほんとだってば」

「じゃあ今まで何やってたんだ」

「何って……特に何も」


 沖間の袖を無理やりまくった。体操競技でなければつかない、しなやかな筋肉をまとった二の腕があった。


 けれど胴体に手が触れて息を飲んだ。あばら骨が浮くほどやせ細っている。


「だまそうと思ったわけじゃないんだ」


 たじろぐ俺に、困ったように笑って腕をなでた。


「体操……やってたよ。でももう、できないのと同じなんだ。言わなくてすむなら黙っていようと思ったけど、高見くんの目はごまかせなかったね」


 二の腕をあらわにした沖間がうつむくと部員たちが集まってきた。彼は「なんでもないよ」と首を横に振る。


「悪い、脱がそうとして」

「ううん、ぼくこそごめんね。体操はもうやらないって親とも約束したんだけど、鉄棒のしなる音を聞いたら我慢できなくなっちゃってさ」

「おまえやっぱり、あの沖間なんだろ」

「そうだよ」


 いたずらっぽく笑って袖を伸ばした。


「高見くんに負けたのは悔しかったなあ。新月面に伸身ユルチェンコ二回ひねり。鉄棒は屈伸ピアッティからのギンガー、下り技はストラウマン一回ひねり。着地を見て、あー負けたなって思ったよ」


 ぼくもムーンサルトをやったんだけどね、と部員たちに試合内容を説明をする沖間を見て、体毛が逆立ち始める。


 なんだその演技構成は。鉄棒で落下し、雅彦が消えた元の試合でそんな技はやっていない。


 どうして知ってるんだ、俺がやり直した演技内容を。雅彦がスポーツカーにぶっとばされたあの日のことを。


 全身の皮膚が粟立ち、体操場の外に飛び出した。




 グラウンドの隅で両腕をこすった。眠っていた細胞が覚醒したかのように総毛立つ。


 あれはやり直しじゃなく、現実の上書きなのか。雅彦は俺の目の前でスポーツカーに跳ねとばされたのか。


 手の中に赤い炎のようなものが揺らめく。抑えきれない。


「どうした」


 真横に貴橋がいた。あわてて拳を握り、体操場の裏手に隠れようとしたが捕まってしまった。俺が逃げて雅彦が追いかけてくれたあの日は消えてしまった。


「飲めよ。口つけてないから」


 貴橋はボトルを差し出してきた。消えない赤い「何か」をポケットにつっこんで首を振る。


「いらない」

「いいから飲めって」


 無理やりベンチに座らせると、俺にストローをくわえさせてどこかに行った。


 強烈な喉の渇きを感じて吸い上げると、脳天を突き刺すような甘みを感じた。中にはゼリー状の液体が入っている。


 戻ってきた貴橋にボトルの中身を見せて言った。


「これ、プロのアスリートが飲むやつだろ」

「いくら食べても痩せるから飲むように言われててさ」


 言うなり目の前に携帯電話を突きつけた。画面に犬を抱いた映実がいる。


「どうしたの?」


 髪をひとつにまとめ、水色のエプロンをつけた映実が言った。貴橋はにらんだまま言う。


「映実と話すと落ち着くから。腹立つけど今日は許す」


 黒い犬が吠え、どこかで猫が鳴いた。映実は犬を抱いたまま画面からフェードアウトする。貴橋が「オーイ、映実?」と話しかけたので笑ってしまった。


 犬と猫の鳴き声が聞こえ、続いて大きな物音がした。映実が「ごめーんまたあとで」と声を上げると貴橋は通信を切った。


「知っての通り映実はものすごく可愛い。おまえが惚れるのは仕方ない。でも手ぇ出したらどうなるか、わかってんだろうな」

「はあ? 何の話だ」


 にらみ返すと更に詰めよってきたので頭突きを食らわせた。


「いっだ! 何すんだ!」

「おまえ、松谷と付き合ってるのか?」

「ただの友だちだ!」


 額を押さえて腹立たしそうに言った。顔面をゆでダコみたいに赤くしている。整った顔も台無しだと思うとなんだかおかしくなった。


 ほんとバカだよな、と貴橋はつぶやいた。なぜか少し寂し気に見えて薄い肩を叩くと、豪快に叩き返してきた。


「いってー! 何するんだ!」

「バーカ、バーカ」


 子供のようにあっかんべーをしながらグラウンドに駆けていく。


 ベンチにボトルが残されている。気持ち悪いほど吹き出していた肌の突起はいつの間にか落ち着いていた。




 その日の夜、ランニングがてら神社に足を運んだ。


 日中の蒸し暑さは夕立と共に過ぎ去り、涼やかな夜風が吹いていた。家路を急ぐ人たちの背中を見ながら雅彦を思い出す。消えた理由がわからないのに、最後のやり直しで何をすればいいんだ。


 破れそうな心臓を抱えて神社の石段を駆け上がった。月明りが鳥居を照らし、砂利を踏みしめて拝殿を見上げる。


 その時、境内で箒を掃く婆さんの姿を見つけた。得体の知れない恐怖を感じながら近づいていく。


「話がある」


 婆さんは無視して箒を動かし続けた。負けじと近づいて言う。


「雅彦は消えたのか」

「何の話だい」


 地の底から這い出たような声に息を飲む。


「俺は雅彦が死んだところを見ていない。そもそもやり直しの目的もわからない。俺は何のために過去で試合を繰り返すんだ」


 婆さんはゆっくりと首を動かした。月の光が両目に差し込み、怪しげな光を放つ。


「小僧がそれを知る必要はないよ」

「じゃあ向井と松谷まで過去に戻ったのはなんでだ。やり直した過去の記憶を持ってる奴もいる。あいつらは関係ないだろ」


 まくし立てるように言うと、婆さんは背を向けた。つかみかかろうとすると急に体の向きを変えた。


の三つ時、もう一度ここに来い。その者たちを連れてな」

「いやだと言ったら」

「雅彦を救いたいのなら選択肢などないだろう」


 言うやいなや姿が見えなくなった。まるで霧のように夜の闇に忽然と姿を消す。


「くそっ!」


 砂利を蹴散らかした。選択肢はない、最初からそんなものなかったのだ。他に雅彦を取り戻す方法がないのなら――ためらいながら携帯電話を取り出した。


『子の三つ時、五魂神社に来てほしい』


 向井と映実に送信してから子の三つ時っていつだと考えた。


『了解、午前0時に神社の前で』


 ポンと表示された返信を見ながら、ふと思う。向井はともかく映実を深夜に連れ回すのはまずいんじゃないか。


 訂正しようとすると『りょーかい!』と犬が小屋を抜け出すイラストが送られてきた。やっぱり来なくていいと大急ぎで文字を打ったが、映実が矢継ぎ早にイラストを送ってきたのであきらめてしまった。


 子の三つ時まであと二時間ある。いつものように二拝二拍手一拝をした。夜遅いので鐘は鳴らさない。


 強風が境内を吹き抜ける。舞い上がる青い落葉を見ながら覚悟を決めるしかなかった。

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