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6.シャオ・ルイチのあいつ

 試合会場のゆかに上がり、あいつの姿を見た。


 くせのある薄茶色の髪、透き通るような瞳、やっぱり似ている。他人の空似なのか、離れて暮らす兄弟なのか。


「高見くーん! がんばってー!」


 観客席から映実の声が響いた。対角線上にいる和真さんににらまれる。


 雅彦が声援に便乗して部員たちを盛り上げる。生きた雅彦が目を輝かせて俺の演技を待っている。


 競技開始の合図が鳴り響き、手を上げた。


 タンブリングバーンを駆け出した。助走でスピードを増し、ロンダートからバク転、加速した勢いを跳躍に乗せて宙に舞い上がる。両膝を胸に抱え込んで後ろに二回宙返りをしながら二回ひねる。


 高さは十分にある、和真さんを信じてひねり切れ!


 会場に着地の音が響き渡った。足の裏から衝撃が走り、震える両足をこらえて上体を起こす。


 「後方かかえ込み二回宙返り二回ひねり」――新月面宙返りが決まった。


 会場が湧き立ち、和真さんが「よしっ!」とつぶやく。


 肩の力を抜いてすぐさま次の跳躍に向かった。「前方伸身宙返り一回半ひねり」と「後方宙返り」の組み合わせ、ゆかの連続技には加点がつく。


 「後ろとび屈伸身正面支持臥」「前後開脚座」「フィドルチェンコ」と続け、コーナーから助走してロンダート、後方回転、「後方かかえ込み二回宙返り」を跳んだ。


 着地で足を一歩踏み出してしまった。雅彦の声援が聞こえ、乱れた呼吸を整える。審議は前方系の跳躍技、後方系の跳躍技、跳躍以外の技、終末技の計七技で得点が決まる。残すところあとひとつだ。


 一筋の流れが見える。会場は静けさに包まれ、意識を集中させる。神経を研ぎ澄ませて着地点を見つめる。


 見える、跳ぶべき軌道が、跳んでいる姿が、着地をするその場所が。


 最後のタンブリングを開始した。力を振りしぼってロンダートから後方回転、ゆかを蹴り上げたら体を半分ひねって後方宙返り、もう半分ひねりながら後方宙返り――


 着地の音が高々と響き渡った。「後方かかえ込み二回宙返り一回ひねり」、ムーンサルト。高校の体操場で完成させた技だ。


 会場が歓声に沸き立った。着地の姿勢から体を起こし、小さくガッツポーズをする。


 息を切らしながらスコアボードを見た。得点は「13・450」。


 怒号のような歓声を浴びた。手を上げて声援に応え、和真さんとハイタッチを交わす。


 観客席にいる映実にこっそり手を振った。縦に長いバルーンで応えてくれる。


「俊っ、新月面なんてすごすぎるよー!」


 興奮した雅彦が突っ込んできた。部員たちに頭をもみくちゃにされながらスコアボードを確認する。前年度の最高得点「13・000」を上回っている。俺は未来の人間だという後ろめたさが胸をかすめる。


 雅彦のためだ、気にするな。けれど早く戻って元の世界で真っ当にやりたい。


「君、やるね」


 沖間に似たあいつが来た。思わず身構える。


「まさか新月面をやるとはね。跳馬と鉄棒もすごい技を用意してるんだろう?」

「おまえは……シャオ・ルイチをやるつもりなんだろ」


 牽制のつもりで言ったのに、彼はクスリと笑った。


「そうさ、君が跳べない技をやるよ。けど勝つのはなかなか難しそうだね」

「おまえ、何者なんだ」

「君のライバルだよ、末永くよろしくね」


 氷のように冷たい手で肩を叩いた。チームメイトの演技が始まり、彼は選手席に戻る。


「あの人、知り合い?」


 雅彦に声をかけられて我に返った。


「知り合いというか……」

「強豪校の最終演技者なのにすごい余裕だね。どんな演技をするんだろう」


 ざわめく会場の中、彼は紺地に黄色いラインの入ったジャケットを脱いでフロアに上がる。


長道ながみち星南せいなん中学三年、沖間おきはざま麻世まよくん」


 アナウンスがかかり彼はスッと手を上げた。


「沖間……」


 叫びそうになるのをこらえる。未来の体操ができない沖間のフルネームなんか知らない。けれどこんな珍しい名字がそうあってたまるか。


 彼はタンブリングを開始した。ロンダートから後方回転、後方かかえ込み二回宙返り一回ひねり。減点なし、非の打ち所がない完璧なムーンサルトだった。




 沖間を筆頭に長道星南中学の選手はゆかで高得点を叩き出した。


 あいつの演技に振り回されないよう周囲の音をシャットアウトして、俺は次の演技のイメージを繰り返す。


 跳馬は予定通り「伸身ユルチェンコ二回ひねり」を決め、鉄棒では屈伸ピアッティとギンガーの連続技を成功させた。会場がどよめく。腕の筋肉が引きつるをこらえてアドラー系の技を続ける。


 あいつの技の精度にはまだ遠い。いつか追い抜かしてやるから待ってろ。


 最後の下り技で車輪を加速させた。いつだって全力でやってきた、手を抜いたことなんて一度もない。


 けれどこんな熱い気持ちになるのは初めてだ。


 雅彦のために、自分のためにこの技を決める!


 三回目の車輪でバーを大きくしならせた。車輪の基本、三角形の押し・ぬき・あふりの最高点で手を離す。


 バーを越えて視界の真下にある鉄棒との距離を計る。十分な高さだ、視界がスローモーションで展開する。体を小さく折り畳み、天井を見て後方宙返りをしながら半分ひねり、さらに後方宙返りと半分ひねり。


 着地で額がマットにつきそうになった。懸命にこらえて体を起こす。


 「バーを越えながら後方かかえ込み二回宙返り一回ひねり下り」、ストラウマン一回ひねりが決まった。


 腕を上げる俺に大喝采が巻き起こる。足元から興奮がせり上がってくる。叫びたいのを我慢して審判員たちに頭を下げる。


 拍手を浴びながらマットを下りた。もう叫んでもいいか、俺はやったぞ。


「俊ー!」

「たっかみー!!」


 雅彦の声に覆い被さるように野太い声が聞こえた。思わず観客席を見上げる。


「さっすが高見やな! 感動したで!」


 叫んだのは坊主頭の向井だった。記憶より体は小さいが、太陽を閉じ込めたような瞳は変わらない。


「なんでこんなところに……」

「こないだの話、急に思い出してな。大阪からすっとんできたんや。下りてってええか?」

「いいわけないだろ、そこで待ってろ!」


 ちょっと行ってくる、と雅彦に断ると「知り合い?」と首を傾げた。「あーうん、遠征先でちょっと」とごまかして荷物を預けた。


 あいつ、俺が過去をやり直したいって言ったことを覚えてたのか。


 くすぐったい気持ちを抱えて通用口に出るとロビーで向井が待ち構えていた。


「試合、上手いこといったみたいやな」

「まあ、なんとか」

「謙虚やなーもっと胸張ったらええねん」


 言うなり俺の背中を思い切り叩いた。この痛みは高校生の俺が知っているものだ。俺は中学生じゃないのに中体連の試合に出た、と今更ながら罪悪感が込み上げてくる。


「またそういう顔しよる」


 向井は俺の頬を挟んで揺すった。「やめろ!」と脛を蹴ったがびくともしない。


「技を決めたんは高見の実力やろ。しっかりメダルもろてこい」


 向井の言葉がすとんと胸に落ちた。自分の力で勝ち取ったと思っていいのか。


「ほなな。じいさんに黙って出てきたから、ばれへん内に帰るわ」


 別れを告げる間もなく向井は会場を飛び出した。


 大きな背中を見送ると雅彦たちが一斉に飛びついてきた。興奮して早口になる奴もいれば、結果も出ていないのに泣いている奴もいる。


 早く元の時代に戻りたい。そう思った瞬間、情けなさがにじみ出した。どうして俺まで涙腺が緩んでいるんだ。


 なんで俺は勝った負けたと怒り狂って雅彦に当たったのだろうと、記憶の底に埋めた感情が揺らいだ。




 団体戦は長道星南中学が優勝、俺たちの中学は準優勝となった。さらにあん馬の得点を加えた個人総合戦は俺が一位、沖間が二位になった。


 表彰台に立ち、満面の笑みでメダルをかけてもらう雅彦を見ながら安堵した。やれることは全部やった。


 最上段にいる沖間は本来なら個人総合戦でも優勝したはずだ。次は真っ当な試合で真正面から挑みたい。


 俺はもう未来に戻る、そう思いながら盛大に拍手に応えた。




 部員たちと体育館の外に出ると映実が待っていた。


「あれ? 映実ちゃん?」

「まーくん、高見くん、お疲れ様!」

「俊、知り合いだったの?」


 それは俺のセリフだ、と思っていると部員たちに紹介し始めた。家が斜向かい同士の幼なじみらしい。


 向井は本当に帰ったんだな、と辺りを見回していると雅彦が肩を組んできた。


「ニヤニヤしちゃってー。個人総合一位、種目別もゆか、鉄棒、跳馬で優勝だもんね。俊でも顔が緩むよね」


 そう言う雅彦が誰よりも嬉しそうだった。


 部員たちと映実も連れ立って駅までの道を歩いた。気の早い部員が関東大会の話をする。


 アスファルトを溶かしそうな夏の日射しの中、人々は足早に過ぎ去っていく。


 雅彦が消えた現場の近くを通りすぎた。心臓が嫌な音を立てるが、明るく笑っている映実のおかげで少し気が紛れた。


 俺が飛び出さなければ雅彦は死んだことにならないはずだ。


「じゃあな」

「俊、また明日ね」

「お疲れさま!」

「またなー!」


 改札前で別れを告げた。俺と映実はこのまま神社に向かうつもりだった。やり遂げた、未練はない。早く元の時間に戻って雅彦がどうなったか知りたい。


 雅彦が改札を抜けようとしたその時、ロータリーから心臓をぶち破るような音がした。スリップ音が悲鳴をかき消し、真っ赤なスポーツカーが電柱に激突する。


 一旦バックすると、ひん曲がったボンネットを全開にして突っ込んできた。とっさに映実の腕を引く。真後ろには券売機、両脇は切符を買い求める人の列で身動きが取れない。


 自分は死んだっていい、けれど映実を守らないと。


 前方に雅彦が立ち塞がった。細い腕を目一杯広げて視界を遮り、映実が「まーくん!」と叫ぶ。俺はもう片方の腕を伸ばしてあいつの肩をつかもうとしたけれど。


 スポーツカーの前輪が雅彦を跳ねとばした。


「雅彦!」


 叫んだ声で内臓が飛び出しそうだった。映実の手が震えている。いや違う、震えているのは俺の両腕か。


 体から血を流して横たわる雅彦を見ながら「どうしてこうなるんだ!」と叫んだ。目眩がして意識は空に吸い込まれる。


 駅も、車も、映実も雅彦も、揺らぐ視界の中に消え去った。


 ***


 街は夕闇に包まれていた。


 辺りを見渡すと、色褪せた鳥居があった。木々はざわめき、湿り気を帯びた風が頬をなでる。


 へたり込んだ俺の横で、映実が泣いていた。


「まーくん……嘘だよね」


 手の甲を涙で濡らして泣きじゃくっている。膝に座ったチワワが悲しげに黒い瞳をうるませ、モチコが俺の袖をくわえた。


 なでてやると他の犬も不安気に目を細めた。あの衝撃音が耳にこびりついて離れない。


 どうしようもない痛みが胸を締め上げる。ただやり直せばいいと思っていたのにこんな事になるなんて。 映実の泣き崩れる姿に肺が押し潰される。


 そっと手を伸ばして彼女の黒髪をなでた。涙に濡れた頬が夕陽に照らされ、心臓は糸で縛られたようにきしんだ。


 喉の奥から嗚咽がこみ上げる。ぐっと飲み込むと彼女は涙をこぼして言った。


「ごめん、私ばっかり泣いちゃって。高見くんも辛いよね」


 チワワが懸命に頬を舐めた。ありがとね、と映実は微笑む。どうして笑えるんだろう、俺より辛いはずなのにこんなに優しく。


 映実の頭を胸に抱きよせた。挟まれたチワワがキャンキャンと鳴いたが、かまわず腕に力を入れる。


「高見くん?」


 藍紫色に染まっていく空を見上げた。何羽もの黒い影が山に向かって飛んでいく。


 頬につたう熱いものを、どうしても見られたくなかった。

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