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5.新月面宙返り

 俺は体を跳ね起こした。薄暗い部屋を飛び出し携帯電話を確認する。


 半年前の七月二十三日だ。携帯電話を握ったまま父さんの部屋のドアを乱暴に叩く。


「父さん! あとでゆかの演技を見てくれ!」


 返事を待たずに着替え、明け方の街に飛び出した。


 清涼な空気の中を無心に走る。映実と犬たちはどうなったのだろう。息を切らしながら五魂神社の敷地に入ったが誰の姿もなかった。


 朝日が目映く街を照らす。山の裾野に一軒家の屋根が連なり、ビルが陽光を反射している。朝もやの中、何十匹もの鳥が連なって羽ばたいていく。


 もうすぐいつものランニングの時間だ。すれ違うだけなら知らぬふりをして過ぎ去ろう。今度はゆかの特訓からやり直しだ。何がなんでも新月面を習得してやる。


 意気込んで石段を下りようとしたとき、白い犬を連れた映実らしき人物と目が合った。


「……高見くん!」


 思わず「松谷」と言いそうになり息を飲んだ。セミロングヘアの彼女が石段を登ってくる。


「夢で逢えるなんて嬉しいな」


 痛くなーい、と頬をつねったり犬の口元の皮を引っ張ったりした。モチコと思われる秋田犬は何か言いたげな顔で俺を見る。


「夢ならこんなこともしちゃおう」


 えいっと抱きついてきた。黒髪から爽やかな香りが立ち、柔らかな二の腕が腹筋に当たる。


「おいっ……やめろ!」


 もがいたが増々しがみついてくる。頭の頂点まで熱くなるのを感じながら声を上げた。


「松谷っ夢じゃない! 俺もおまえも過去に飛ばされたんだ!」


 必死になって叫ぶと力を緩めた。モチコが俺を見上げる。映実もそろりと体を離し、見る間に顔が赤くなる。


「ええー! 夢じゃないの?」


 街中に響き渡るような声で叫んだので「しーっ!」と顔を近づけてしまった。視線がかち合い、気まずくなる。


「ここは……過去の世界?」

「神社の婆さんがおかしな力を持ってるんだ。俺は二度目で……」


 映実は目を丸くした。正直、何から話せばいいかわからない。


「前回はちゃんと元の世界に戻れた。今回もきっと」


 説明しながら、どこまで言うべきかわからなかった。消えた親友を取り戻したいなんて信じる人間がどこにいるだろう。小さな手が震えていて胸がズキリと痛む。


「じつは俺、友たちを……」


 覚悟を決めて言おうとしたのに、映実は俺の頭を鷲掴みにした。


「ほんとに中学生の高見くん? やだー懐かしい、髪が長い!」


 嬉々として頭をなでられ拍子抜けした。もしかして女子は見えている世界が違うのか。「やめろ!」と石段を駆け下りたがお構いなしに「高見くん可愛いー!」と追いかけてくる。


 太陽が東の空に昇る。そうだ、急いで戻らないと。


「松谷、向井の居場所ってわかるか」

「えっと、高校に入る直前に引っ越してきたって言ってたから、中三の夏なら大阪かも」

「遠いな」


 新月面を試合でやるために補助が欲しい。父さんは審判員の割り当てがあるし、E難度の技は中学の顧問には頼めない。


「会いたいなら探しに行くよ?」

「いや、補助を誰に頼もうかと思って……」

「補助?」


 手短に説明すると彼女はポンと手を叩いた。


「お兄ちゃん、大学で体操やってるよ」

「体操歴、長いのか」

「十四年くらいかな。でも補助ってできるのかなあ。家でそういう話しないから……」

「今日明日、頼めそうか?」


 期待に胸を膨らませて肩をつかむと、こくりとうなずいた。


「部停で練習できないから家で勉強してるって言ってた」

「じゃあ補助、頼んでほしい! 今日の夕方五時、高見体操スクールで待ってるから!」


 俺は射られた矢のように駆け出した。向井がいればベストだが贅沢は言えない。そもそも自分の力で跳べるようにならないと。


 練習メニューを頭の中で組み立てながら全速力で走っていった。




 夕方、中学の部活動から直行するとスクールの前に映実と和真さんがいた。


 犬を伴って誇らしげに「お兄ちゃん連れてきた!」と言うが、和真さんは困ったように頭をかいている。


「俊、妹と知り合いだったの?」


 青ざめながら二人を見比べた。つややかに青く光る黒髪や人懐っこい目元は兄妹と言われれば似ている。他人と言われれば他人に見える。


 言い合う彼らの姓が『松谷』だったことを思い出した。


「妹とどこで知り合ったの?」

「どこ……というか」


 柔和な笑顔に潜む瞳が怖い。笑いながら妙な圧力をかけるところがやっぱり兄妹だと思っていると、映実が割り込んできた。


「そんなこといいじゃない。高見くんは補助を探してるんだよ」


 頬を膨らませて詰め寄るとモチコが便乗して一鳴きした。和真さんは「わかったわかった」とため息をつく。


「大会は顧問に補助をやってもらうんでしょ?」

「ゆかで新しい技をやりたいんです」

「何をするつもりなのかな」

「新月面です」


 その言葉に和真さんの目の色が変わった。


「俊はムーンサルトを練習中だよね?」


 笑顔を作ったまま腕を組む。ムーンサルトもできないのに「無謀だ」と言いたいのだ。俺はごくりとつばを飲んだ。


「実は和真さんが……」

「僕が何?」

「夢に出て……新月面の補助をしてくれたんです」


 訝しげな表情で首をひねったが思い切って頭を下げた。


「お願いします、明日の大会で補助をして下さい!」

「成功率はどれくらいなの?」

「まだ一度も」


 和真さんは笑い出した。映実が「お兄ちゃんやめてよ」としがみついたが、そりゃ笑うだろう。成功率ゼロの技を明日の試合でやるなんて暴挙でしかない。


「どうかお願いします」

「夢で僕はどんな補助をしたの?」


 目を丸くすると「覚えてないのかな?」と言葉を重ねた。


「バク転の腰の引き上げと、跳躍した瞬間の足裏からの押し上げです。今日は集中してロンダートとバク転、宙返りの練習をしてきました」


 体は小さくなったけれど技の感覚ははっきりと覚えている。あのイメージを今すぐ再現したい。


「ふうん、なかなかリアルな夢じゃない」


 映実が腕を引っ張って「ねーやってあげてよー」とせがむと、和真さんは妹と犬を引きずりながら扉に手をかけた。


「いいよ、やってあげても。ただし今、僕の補助で跳べたらだけど」

「よろしくお願いします!」


 体が喜びに疼く。和真さんは「あーあ、僕も甘いなあ。また亮先生に怒られるよ」とつぶやきながら扉を開けた。


 映実は「よかったね」と笑顔を見せたが、しまった、父さんのことを忘れてた、と肝が冷えた。




 しばらくして父さんが体操場にやってきた。ロンダートと後方回転のタンブリングは合格点をもらい、胸をなでおろす。


 やるなら本番と同じだよ、と和真さんは言った。ゆかの対角線上で父さんと補助の相談をしている。


 補助が向井から父さんに変わっただけなのに、どうしてこうも嫌な汗が出るのだろう。練習生の視線が煩わしい。


「高見くーん、ガンバー!」


 映実の声が響いて練習場がどよめいた。心臓が飛び出しそうになりながら大きな窓を見ると、外で映実とモチコが手を振っていた。無理やり前足を動かされている。


「俊のガールフレンドか」

「ちがっ……」「違います!」


 俺と和真さんが同時に叫ぶと、父さんは「おまえも隅におけんな」と意外そうな顔をした。


 あわてた俺と怒った和真さんが「だから違うって!」「僕の妹ですよ!」「違う違う!」「だから僕の!」と詰め寄るよそで、映実は「応援してるよー!」とまた前足を振る。


 練習生がヒュウっと口笛を吹いたので、俺はあきらめることにした。今はそんなことをしている場合じゃない。 「あれは僕の妹だよ」と和真さんが釘を指す横で、父さんに頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「本来なら試合の前日にこんなことは許されない。くれぐれも怪我のないようにな」


 そう言って俺の背中を押した。ふと前回のことを思い出す。屈伸ピアッティからのギンガー、父さんがいなければ跳べなかった技だ。


 コーナーに立って深呼吸を繰り返した。跳ぶべき軌道がはっきりと見える。着地点には父さんと和真さん、恐れるものは何もない。


 合図で駆け出した。ロンダートから後方回転、ゆかに仕込んだスプリングのおかげで跳躍が増す。後方回転からの着地で宙に体を投げ出し、後方宙返りをしながら体をひねった。


 両膝を胸に引き寄せると視界が急速に回転した。いける、もっとひねるんだ!


 縦軸の回転が止まらず、着地点を見失った。まずい、例の「力」が漏れ出してしまう、こらえろ。


 着地ですべって尻餅をついてしまった。父さんが背中を支える。


「おまえ……なんてこと……」


 声が震えている。練習生たちが一気に駆けより、俺をもみくちゃにして叫ぶ。何がまずかったのか考えていると和真さんが言った。


「今、何やったかわかってる?」

「新月面……のつもりだったんですが」

 和真さんはため息をついた。


「新月面じゃない、二回半ひねってた」

「二回……半?」

「僕は補助をしてないよ」


 和真さんが苦笑いをしたので、ふつふつと喜びの感情が湧き起こってきた。練習生たちが俺を御輿のように担ぎ上げ、教室中がお祭り騒ぎになる。


「高見くん、すごーい!」


 映実は照れもせずに叫んだ。一斉に冷やかしを受けて神輿の上でもがく。和真さんが俺の首根っこをつかんで言った。


「明日やってもいいよ、新月面。ただし二回半ひねるなんてばかなことしなければ、だけど」

「ありがとうございます!」

「新しい技の度に心臓が縮むぞ。早死にしたらどうしてくれるんだ」


 真面目な父さんなりのジョークに俺は笑った。和真さんと映実が「帰りなさい」「帰らない」と言い合うそばで、父さんは困ったように微笑んだ。


「満足のいく演技をしてこい」


 力強く俺の肩を叩いた。いつだってそうだ、父さんは決して「勝て」とは言わない。勝手にこだわっていたのは俺だ。


 明日は満足のいく演技を、と心に決めて父さんを見上げた。

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