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3.補助の才能

 体を跳ね起こすと住宅の垣根が目に飛び込んできた。


 高校指定のボストンバッグが転がっている。着ているのは高校のブレザーだ。


「婆さん、もう一回飛ばしてくれ! 次はもっと」


 言いながら周囲を見渡したが、あの巨木がどこにもなかった。


 ボストンバッグを担いで歩き回った。角を曲がったところに大通りがあり、先に駅の改札口が見える。いつもの通学路だ。


 夢を見たのだろうか。


 屈伸ピアッティからのギンガー、真下で見ていた父さん。ユルチェンコ二回ひねりを決めたあの選手の顔もまざまざと蘇る。


「見っけた!」


 角を戻ろうとしたら真正面に向井が立っていた。口から心臓が飛び出しそうになる。


「おまえ……なんで」

「こっちのセリフや。光ったと思たら姿ないし、どこ行ってたんや!」


 見下ろされながら肝が冷えた。姿が消えたって、本当に過去に行っていたのか?


「すばしっこいのにも程があるで!」


 向井は文句を続けたが俺はあいつの演技を思い返した――まぶたの裏に焼きついている見事なユルチェンコ二回ひねり。


「くっそぉー! 次は絶対勝ってやる!」


 雄叫びのような声に向井が身を縮める。俺は胸倉を引きつかんで言った。


「体操器具、どこにあるんだ!」

「タイソウキグ?」

「高校に体操部、あるだろ!」


 質問というより恐喝に近かった。通行人がジロジロと見てくるが誰も止めようとしない。 


 向井はゆっくり手をほどくと「落ち着き」とネクタイを直した。


「そういや体操場あったかな。校舎の隅っこにあるボロい建物……」

「行くぞ!」


 向井のごつい腕を引っ張った。体操スクールは休館日で、出張中の父さんが鍵を持っているので使えない。どこでもいいからこの苛立ちを発散させたかった。


 嫌がる向井の巨体を引きずり、通学路を逆戻りした。




 高校の体操場に着くなり引き戸を開け放った。男子数名がゆかでトレーニングをし、もやしのように細い中年の男性教師がいた。


 施設を見渡した。ゆかは競技用のものが張られ、古そうだが鉄棒や跳馬、あん馬やつり輪、平行棒まである。


 鉄棒の真下には床をくり抜いたピットがあり、真新しいウレタンの角材が敷きつめられていた。跳馬の手前にあるロイター板も新しい。


「失礼します! 跳馬お借りします!」


 しっかり頭を下げてから靴を脱いで上がり込んだ。うろたえる向井にも手招きをする。


「一年三組、高見俊、体操歴は十三年です。跳馬の補助をできる方はいらっしゃいますか」


 もやし教師が汗をふきながら近づいてきた。


「今は初心者ばかりでね、補助が必要なことはやってないんだが……というか君は……」

「向井、こっち来い!」


 そんなことだろうと思った。向井は「せわしないやっちゃな」と愚痴ながら走ってくる。


「ここに立ってろ」

「なんでや」

「あとで説明する」

「はあ?」


 戸惑う向井を跳馬の着地点より少し後ろに立たせた。


 俺は助走開始の場所に立ってカッターシャツを脱いだ。スラックスは膝より上に折り返してベルトもはずす。


 上半身裸でストレッチをすると教師がひ弱な声を上げた。


「まさか跳ぶつもりじゃないだろうね」

「責任は自分で取りますから」

「何を言ってるんだ、何かあってからじゃ遅い……」


 適当に聞き流してスラックスの腰回りを折り曲げ、股にフィットさせた。


「向井、おまえは補助だ。頭から落ちたら受け止めろ!」


 叫ぶと跳馬の奥から顔をのぞかせた。


「補助ってなんや? 何するつもりなんや!」


 うろたえるのも構わず両手両足を振った。あの感覚が体に残っている。地区大会で跳んだユルチェンコ一回半ひねり、着地には余裕があった。難度を上げる余地はある。


 俺は多少しくじっても死にはしない。


 意識を跳馬に集中させた。一直線上にロイター板と跳馬が見え、空間が凝縮する。辺り一帯の時間が一筋の流れとなって前方に集約する。


 ふうっと息を吐き出して手を上げた。


 助走のトップスピードからロイター板に向かってロンダート、踏みきって後方に着手し、胸を軸に後方宙返りをしながら体をひねる。


 地区大会の時よりも高く、長く、ありったけのエネルギーを集中して体をひねる!


 まっすぐに伸ばした体が宙に浮いた。視界が急激に迫りくる、天井が見える、一回、二回。


 体操場に着地の音が響き渡った。マットからほこりが舞い上がり、足裏から衝撃が走る。


 伸身ユルチェンコ二回ひねり、これをやれば絶対に負けなかった。


「くっそおぉぉー!」


 叫びながらマットの上で地団駄を踏んだ。


 成功する可能性はゼロではなかった。なぜやらなかった、いつから俺は日和(ひよ)るようになったんだ。


「おっ……おまえ、バケモン……」


 向井が腰を抜かしている。化け物はあの婆さんだけどな、と思いながら手を引くと、教師と部員たちもポカンと口を開けて突っ立っていた。


「何なん、今のやつ……」

「伸身ユルチェンコ二回ひねりだ」


 何やそれ、と首をひねったので助走をやって見せた。助走に続くロンダートは側転と違い、手をゆかについたあと両足をそろえて後ろ向きに着地する。


「ロンダートからロイター板を蹴って後ろ向きに手をつく技をユルチェンコっていうんだ」


 俺が指二本で解説をすると「ほー」と目を輝かせた。


「体を伸ばして跳ぶのが伸身、縦軸を中心に二回転するから二回ひねり。ひねりが増えると難度も上がる」


 気づくと部員が俺たちを囲むように集まっていた。もやし教師はルールブック片手につぶやく。


「いや全く肝が冷えたよ。急にやってきてあんな高度な技を跳ぶとは……今の技は価値点が4・8もあるじゃないか」

「4・8ってすごいんですか。おれ、体操は全然わからんのです」


 俺は指を回しながら向井に説明をした。


「二回半ひねるとシューフェルト、三回ひねるとシライ/キムヒフンになる」

「なんか聞いたことあるで」


 向井がルールブックに食いついたので続けて言った。


「三回半ひねったらシライ2になる。価値点は6・0、最高点H難度だ」

「おおっ……おまえすごいやんかあ!」


 そう叫んで向井が抱きついてきた。「俺はまだ二回ひねりだけど」と言ったが「とにかくすごいんやろ、なっ!」と目を輝かせて同意を求めてきた。


 数名の部員と教師が一斉にうなずく。こんな反応、雅彦にユルチェンコを見せた時以来だ。


「高見の筋肉の秘密はこれやったんか。ええ体しとるなあ」


 向井は腹筋や背筋を遠慮なく触ってくる。「やめろ」と言ってもお構いなしだ。


「今の技、試合でやるの?」

「ああ、うん……」


 部員のひとりに聞かれて頭をかいた。明日、神社で婆さんに聞いてみるかと思うけれど、虚しさが胸をかすめる。過去の試合でこの技をやって、そのあと俺はどうするんだ。


「君っ、ぜひ体操部に入ってくれ!」


 もやし教師は興奮気味に体操部の現状を語り始めた。技を決めた興奮が冷めていく。


「部活はやらないって決めてるんです。突然お邪魔してすみませんでした」


 俺の胸筋を観察していた向井の肩を叩き、服を拾い集めた。教師が何やら言っているがもう耳には入ってこない。


「なんでやらんのや」


 向井は俺のボストンバッグを担いで言った。


「入ったらええやん。全国も夢ちゃうで」

「そういうのはもういいんだよ」

「もう日本一になったんか?」

「なってないけど」


 「待ってよー」と追いすがる部員たちを振り切り、スニーカーに足を入れた。向井は俺を見下ろして言う。


「なってへんのにやらんのか。逃げてるんか?」

「……そうだな」


 ボストンバッグを受け取り、外に出た。校舎はすっかり夕闇に染まっている。向井は太い眉をしかめてにらんでくる。


 全国一位を目指していたこともあった。けれど大会に出ると雅彦を思い出して技がブレる。キレも精細もへったくれもない。やる度に自己嫌悪の沼にはまる。


 それに時々、指先や爪先に火花のようなものがかすめる。あれが見えるときはまずい。自分のものでない「何か」の力が働いているのがわかる。


 中学時代はあまり感じなかったのに、このところ意思とは無関係にあふれ出してしまう。高度な技に挑もうとするとなおのことコントロールが効かなくなるけれど、こんなこと誰にも言えやしない。


 俺は頭をかいて言った。


「急に補助を頼んで悪かったな」

「結局、補助ってなんやったんや」

「あの技、タイミングを間違えると顔面から突っ込むんだよ。そうなったら受け止めてもらおうと思ってた」

「受け止める? おれが?」

「それが補助の役割」

「顔面から……?」


 向井の顔が青ざめた。


「あのジェット機みたいなやつを受け止めろ言うんか! ぎゃー怖いー!!」


 ムンクの叫びみたいな顔を作ると、声を上げて走り去ってしまった。


 怖い、か。俺の中にそういう感覚があったのは小学生の時に一度きりだ。まあ普通の感覚なら跳馬は怖いかな、やっぱり。


 懸垂勝負のあと、体育の授業中に向井を観察したことがあったが、あいつは体幹がよさそうだった。あれだけ上半身が大きいとバランスを崩しやすいはずだけれど何をやっても転ぶ気配がない。


 反射神経もいいし、体操をやれば平行棒やあん馬を器用にこなしそうなタイプだ。


「おまえの補助だったら跳んでもみてもいいけどな」


 俺が夕日の沈むグラウンドでつぶやくと、向井はブーメランのように戻ってきた。必死の形相で俺の肩を鷲掴みにする。


「補助とかいうのがおらんくても高見はあの技をやるんか?」

「危ないからやらないけど」

「じゃあ補助がおったらおまえはあそこでアレやるんか!」

「早く成功率を上げたいからな」


 難易度の高い技を習得したいけれど、高見体操スクールには全国クラスの選手がごろごろいて思うように跳ばせてもらえない。獣医学生の和真さんも忙しくてなかなか付き合ってもらえないのだ。


 向井の胸倉や腕をつかんだ時、じっと俺の挙動を観察していた。こいつはきっと目もいい。伸身ユルチェンコ二回ひねりを向井の補助でやってみたい、そう思っていると大きな瞳を輝かせて言った。


「わかった、おれが補助やったる! 空手の稽古の後にな!」

「ああ、うん」

「だから体操部に入部するんや。目指せ全国ナンバーワン!」


 一本指を突き出して空に向けた。そういうことか、と思ったが嫌な気はしなかった。いずれ俺の後ろ向きな感情に嫌気がさすかも知れないけれど。


「おれはめっちゃくちゃ感動したんや。高見の体操を試合で見てみたい!」


 俺の考えを遮って言った。目が眩みそうなくらい、まっすぐなやつだな。


 宵の明星が西の空に輝いている。山の稜線の真上で異質な光を放つ星、俺はまたあんな風に輝けるのだろうか。


 目を細めて紫から青に染まる空を見上げていると、向井が屈んでつぶやいた。


「補助が何かようわかってへんけど、教えてくれる?」


 おて、おかわりの次に出る指示を待つ犬みたいだ。飼っていた犬を思い出し、俺は吹き出した。「なんで笑うんやー!」と正拳突きを当ててきたが全く痛くなかった。俺たちは笑いながら犬のようにじゃれあってグラウンドを走る。


 技が成功する度、一歩雅彦から遠ざかる感覚がする。挫けそうになる自分に喝を入れ、正門に向かって全速力で走っていった。

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