2.屈伸ピアッティ
目覚まし時計のベルがけたたましく鳴った。
腕を伸ばして止めた。午前五時、もう少し寝たい……
二度寝をしそうになり体を跳ね起こした。
部屋を見渡す。無造作に置かれたトロフィー、卒業した中学の制服。ベッドから下りてコルクボードを見る。
『県中体連地区大会 七月二十四日 午前八時 県立体育館前集合』
あの日のメモが止められていた。大会のあと雅彦が事故に遭い、帰宅してすぐに破り捨てた。あの時の生々しい感触が手に残っている。
身震いしながら髪をつかむ。前髪が長い、腕も若干細い気がする。
薄暗いリビングで携帯電話を探した。テーブルに置かれたそれを手に取り、怖々と画面を押す。
西暦は一年前、日付は七月二十三日だった。
腕を確かめる、透けてはいない。こぶしでテーブルを叩く。音が鳴るし痛みもある。
「ずいぶん早いな、試合は明日だろう」
廊下から姿を見せたのは父さんだった。
「お……は……よう」
恐る恐る声を出した。新聞を手に持った父さんは目を丸くする。
「家で挨拶するなんて珍しいな、今日は雨か?」
「いや……晴れると思うけど」
父さんはテレビの天気予報を見て「曇りのち雨だぞ」とつぶやいた。まずい、言動には気をつけないと。
「父さん……今から時間あるかな」
「七時半までなら大丈夫だが」
「明日の演技を見てほしいんだけど」
「わかった」
そう答えるとすぐにテレビを切った。父さんは冷蔵庫から卵を出してフライパンに油をひき、俺はトーストと野菜ジュースの準備をする。
「いただきます」
父さんが手を合わせたので俺も同じようにした。いつもと同じ、穏やかな夏の朝だった。
「それじゃ遅い! もう一回!」
練習場に父さんの怒号が飛ぶ。急いで鉄棒脇の段差を登り、プロテクターを締め直してぶら下がる。
蹴り上げから車輪を繰り返し、バーの上で倒立する。下降しながら両足を開いて三二〇度回ったら手を離し、胸を引いて真下にバーを見る。開脚姿勢のまま背中側からバーを越えてトカチェフ、手を伸ばす。
またつかみ損ねてピットに落ちた。床を一m掘り下げたピットにはキューブ型のウレタンを敷きつめている。落下しても多少のことでは怪我をしない。
「どうしてピアッティにこだわるんだ」
父さんは呆れた様子で言い、ピットから引き上げてくれた。俺は汗まみれのTシャツを脱ぎ捨てる。
「上位選手にシャオ・ルイチをできるやつがいる」
「懸垂前振り前方開脚宙返り懸垂」、シャオ・ルイチは、シュタルダーと呼ばれる開脚姿勢から手を放し、回転方向と逆向きの前方宙返りからバーを握る。今の俺はチャレンジすらできない技だ。
「どちらもD難度だ。こだわる必要はない」
「わかってる」
あの衝撃が忘れられない。地区大会ではC難度の技も少ないと聞いていたのに、目の前で軽々とシャオ・ルイチだ。
落下直後にあんな演技を見せつけられて平気な方がどうかしてる。
苛立つ俺に、父さんはため息をついた。
「大体ピアッティはいつからやってるんだ。補助なしで練習していないだろうな」
「えっと……和真さんに補助を……」
「和真か」
父さんは「あいつが許可したなら仕方ない」と脱力した。
松谷和真さんは体操スクールに通う現役の大学生だ。教え方が上手くて幼い頃からよく練習を手伝ってくれる。安心して補助を任せられる数少ない人だ。
「屈伸ピアッティをやってみろ」
プロテクターをはめ直していると父さんは言った。
「開脚せずに閉脚のシュタルダー、そこから屈伸トカチェフだ」
早くしろと鉄棒を指すので、あわてて段差を登った。閉脚シュタルダーはできるが屈伸トカチェフはやったことがない。
ぶら下がりながら技をイメージしていると父さんが指を二本立てた。
「開脚のタイミングが毎回違うから成功率が低いんだ。足は閉じたままだ、いいな」
そう言って俺の足に反動をつけた。蹴上がりながらイメージする。
屈伸トカチェフは腰から足の先までまっすぐに伸ばす分、高く跳ばないといけない。つま先が引っかかれば即落下だ。
失敗すればバーに激突するかもしれない。恐怖と同時に興奮が湧き出し、胸が高鳴る。
車輪から倒立、足を閉じてバーに近づけ上半身を折り畳む。体重を乗せて遠心力で加速、最高速度で手を離し、爪先まで神経を巡らせる。
胸を引く、足指がバーの上をかすっていく。チリチリと赤い火花が飛ぶ。
落下の軌道がはっきりとわかる、腕を伸ばしてバーをキャッチ――
止まらず車輪を続けて「懸垂前振り後方屈伸宙返り1/2ひねり懸垂」、ギンガーを跳んだ。
宙に浮いたまま父さんを見下ろした。ポカンと口を開けているのがよく見える。
完璧だ。飛距離もバーの位置も見えたし、迷いなくギンガーにつなげられた。
ピットに下りると父さんは唖然としていた。
「やるならやると最初から……!」
「いけそうな気がしたから」
屈伸ピアッティとギンガーは落下地点が異なる。やっぱり怒るよなあと思いながら父さんを見ると、両手を震えさせながらウレタンの角材を蹴散らした。
「おまえは……本当に……」
大きな手で俺の頭を鷲づかみにした。声は震え、顔は苦虫を噛みつぶしたようだ。
「二本連続でやっても明日の試合では加点がつかない、わかってるな」
「もちろん」
プロテクターをつけたまま手を差し出した。父さんは俺の手を握り、背中に腕を回す。熱い体温を感じながら、そっと父さんを見た。
父さんは少し湿った目で「怪我だけはするな」とつぶやいた。
***
翌日はよく晴れていた。
家を出る直前まで父さんが練習に付き合ってくれたおかげで屈伸ピアッティの成功率は九〇%で安定し、試合で使う許可も下りた。
シャオ・ルイチを跳んだ選手はミスが少なくEスコア(演技のでき映え点)が高かったから、点差をつけるなら鉄棒のDスコア(演技価値点)を上げるしかない。
開門前の県立体育館で武者震いをしていると、赤いTシャツの男子が姿を見せた。
「俊、早すぎるよー」
息を切らしながら走ってきたのは雅彦だった。有り得ない光景に胸がきしむ。
「さーあ、がんばるぞー!」
ひとりで「エイエイオー!」とこぶしを上げ、俺の肩をトントントンと三度叩いた。雅彦流必勝のおまじない、あの日の朝と同じだ。
体育館の扉が開き、係員が看板を外に出した。
何がなんでも成功させて過去を変えてやる、そう意気込んで雅彦の腕を引いた。
団体戦はゆかの演技で始まった。雅彦はB難度の「後方伸身宙返り」を決め、Eスコアもよかった。
俺は手を上げて演技を開始した。一本目に「後方伸身宙返り一回半ひねり」と「前方宙返り」の組み合わせ技をすると会場がざわめいた。
いくつかの力技と旋回技の後、終末技で「後方かかえ込み二回宙返り」を決めた。ある選手と目が合う、シャオ・ルイチを見せつけたあいつだ。
俺はおまえを見くびったりしない。
拍手が鳴り止まない中、例の選手の演技が始まった。体力があるうちに跳躍技を持ってくるはずだ、確か一本目は、と思ったその時。
「後方かかえ込み二回宙返り一回ひねり」、ムーンサルトを跳んだ。着地と同時に会場がどよめく。
「う、わあ……すごいなあ。俊、できる?」
俺は唖然とした。D難度の技を中学生が軽々とやることにも驚いたが、あいつの1本目はひねりのない「後方かかえ込み二回宙返り」だったはずだ。
首筋から嫌な汗がにじみ出る。
その後もC難度とD難度の技をいくつもこなし、余裕のある顔で着地を決めた。
視線がかち合う。色素の薄い瞳でこっそりと笑った気がした。
「俊、ぼくたち四位だよ。こんなの初めてだ!」
部員たちが大騒ぎしているが、気持ち悪さを拭えない。屈伸ピアッティを習得したから過去が変わったのか、技の変更は偶然なのか。
跳馬を見つめた。高さは一・三五m、皿のような形をしたオレンジ色の器具がいつもより大きく見える。
勝てば問題ない、雅彦は消えたりしないと自分に言い聞かせた。
開始の合図が鳴り、跳馬の助走を開始した。
この試合では団体戦の跳馬は一度しか跳べない。審議は技のDスコア(演技価値点)とEスコア(実施点)からの減点のみだ。
二十四mの助走を加速させる。ロイター板の手前で「側方回転1/4ひねり」、ロンダート。着地で勢いよくロイター板を踏み、後ろ向きで跳馬に手をついて両足をかかえ込む。
宙返りをしながら体をひねった。
「ロンダート後転とび後方かかえ込み宙返り3/2ひねり」、ユルチェンコ1回半ひねりだ。
着地が決まり会場が湧き立った。
スコアボードを見る。価値点三・六の技、減点は0・1のみだ。俺はガッツポーズをする。
例の選手は価値点2・8のユルチェンコ一回ひねりのはずだ。次は鉄棒の演技で屈伸ピアッティとギンガーをやればいい、それで準優勝に手が届く。
ところがあの選手が跳んだのは価値点4・0のユルチェンコ2回ひねりだった。
「なんでだ……」
大歓声が上がる体育館の中で呆然とした。地区大会であれを上回る得点の技はない。あいつは涼しい顔で最高得点の技を跳んだのだ。
胸の底がざわつく。また記憶と違う、このまま鉄棒をやっても勝てない。無謀な技に挑み、同じ過ちを繰り返すのか。
あいつが首筋をかいて笑っている。
「婆さん、やり直しだ!」
俺の声が体育館に響き渡る。雅彦の姿がぼやけ、憎いあいつが消え去る。
辺りは一瞬にして闇に沈んだ。