1.時を遡れ
朝の五時、俺は目覚めたばかりの街を走る。桜の蕾がほころび、澄んだ空気の中に土の香りがする。
街並みの向こうから太陽が顔を出した。柔らかな光を浴びながらペースを上げる。
折り返し地点の五魂神社に入った。長い石段を一気に駆け登り、小さな鳥居をくぐる。
賽銭箱の前で袴姿の老人が地面を掃いていた。
「飽きないね、小僧」
顔中の皺をよせて婆さんは言った。雅彦の曾祖母にあたるこの人は年齢不詳、いつ来ても境内を掃除している。
「もう小僧じゃないけど」
二拝二拍手一拝をすると「私からすればみんな赤子さ」と言った。腕の筋を伸ばしながら「やっぱり妖怪か」と思う。婆さんがこちらを見たので心臓が縮んだ。
念入りにストレッチをしてから階段を下りた。東の空に太陽が登っている。
いつもと同じ朝だ。ただ、雅彦がいない。
半年前のあの日、あいつは車にひかれて死んだ。
正確には、死んだことになっていた。あの場に居合わせた俺は車にひかれる瞬間を見ていない。医者は軽い健忘症だと言った。友たちが目の前で事故に遭って受け入れられないのだと。
見ていないと言い張ったけれど本当に雅彦はいなくなった。葬式で泣いている母親を見た。俺は父さんに背中を押されて手を合わせた。
雅彦がいないのが当たり前のように日々が過ぎていく。けれど大会に出る度、あいつの声が耳の奥で響いた。
一緒に行くでしょ、関東大会――
それ以来まともな演技はできなくなった。
訳がわからないまま春が来て高校に進学した。朝のランニングは変わらず続けている。
「おはようございまーす!」
石段を下りた所で髪を結わえた中学生が走り去っていった。
彼女とはこの近辺でよくすれ違う。白い秋田犬が何匹もの犬たちを先導しているが、今朝はいつもに増して多かった。
「いち、にい、さん、し……」
数えると八匹もいた。大小様々な体格の犬を連れているのにリードがからまる気配もない。秋田犬以外はいつも違う顔ぶれだけれど、きちんと彼女の命令を聞いている。
何者なのだろうと後ろ姿を見ていると、秋田犬が振り返った。目が合った気がして、こっそり手を振ってみた。
***
二時間目は体力テストだった。トレーニングを重ね、身長体重、体脂肪率を毎日計っている俺には面倒な授業だ。
「次、高見俊と向井勇也。準備しろ」
俺は名前を呼ばれて鉄棒の下に入った。
体操競技用の鉄棒は幅二四〇㎝高さが二八〇㎝ある。高校の鉄棒なんて物干し竿みたいだ。
待機している生徒が「届かねえんじゃね?」と笑った。高校一年で一五四㎝、四十二㎏だと小さい方だ。言われなくても知っている。
「よろしくお願いしまっす!」
向井と呼ばれた男子が野太い声を上げた。背が高く、淡い栗色の頭髪の真上にバーがある。さっき野次ったばかが「親子じゃねーか」と笑った。
教師が注意したが「先生、持ち上げてやれよー」と俺を指さした。無視して垂直に跳び上がり、バーをつかむ。
「やるやん」
隣にぶら下がった向井が言った。関西圏の発音に意表をつかれる。
「おれは見くびったりせんで。その体格、普通とちゃう……」
言い切る前に教師が「始めるぞー」と声を上げた。笛の音と共に懸垂を始める。
かけ声に合わせて腕を引く。向井はしっかりとバーに顔を引き寄せていた。大柄だがつり輪をやらせたらいい所までいくかもしれない。
十回を過ぎると苦しそうな表情になった。俺は体重が軽い分、少ない負担で懸垂ができる。連中は小さいことをばかにしたが、体操で上を目指す俺にとってはアドバンテージだ。
十三回目で向井の顔が歪んだ。腕が震えている。俺に勝てるやつがいたら父さんが勧誘するだろうよと考えていると、ついに十五回目で落下した。
俺は十六回、十七回とスピードを上げた。生徒たちのどよめきは歓声に変わった。懸垂に合わせて「二十三、二十四!」と声を上げる。
三十回を超えると腕が疲れてきた。向井が真横で手を叩いて応援している。
「ス……ストーップ! もう十分だ!」
教師が止めたのは四十回目だった。地面に足をついた途端、向井が抱きついてくる。
「すごいやんかあ! スポーツやってんのか? 格闘技か?」
テレビで見る関西出身のお笑い芸人みたいだ。うっとうしいと思ったが振りほどけない。
「や……やめろ! 離せ!」
「ん? ただの筋トレマニアか?」
「離せっつってんだろ!」
力のかぎり突き飛ばしたつもりだったが、体が少し離れただけだった。
「おれは空手部なんや。おまえみたいな筋トレ小僧は大歓迎やで!」
「……は?」
腕の筋肉を緩めながら差し出された手を見つめた。左の手首から人差し指にかけてテーピングをしている。よくこんな手で懸垂をしたな。
向井を見上げた。差し出した手を拒否されるとは微塵も思ってなさそうだった。
「たっかっみー!」
向井の声が廊下にこだまする。
「なあなあ、来るやろ? か、ら、て!」
何度無視しても休み時間の度に空手部の勧誘に来る。「行かない」と渾身の力で押し返すが、びくともしない。
「おれは諦めへんで! おまえの筋肉の秘密を知るまではなぁ!」 逃げた俺の後ろから大声で叫んだ。捨てられた犬の鳴き声みたいで複雑な気分になる。
「バカだな、アイツ」
中性的な声に振り返ると、階段の中程に同じクラスのバッジをつけた男子が立っていた。目にかかるストレートの前髪、長いまつげ、薄いくちびる、細い首。違った女か、と思ったがスラックスをはいている。
「あいつだよ。あの空手バカ」
階段の下から女子の黄色い声が上がり、彼はわずかに微笑んだ。甲高い声に拍車がかかる。
「オマエ、何かやってるの?」
「何かって……何」
「さっきの懸垂見たよ。常人離れしたやつ」
「いや、別に」
「何もやってないわけないだろ」
そいつは急に俺の腕をつかんだ。とっさに振り払って階段を降りる。あんな無造作につかむやつがあるか、しかも予備動作ゼロで。
こんな苛立ちを感じるのは久しぶりだ。雅彦がいなくなって以来、中学の連中とは口をきいていない。
雅彦がいない世界で、俺は何を話せばいいかわからなかった。
正門をくぐると初夏を思わせる暖かな風が吹いていた。両サイドを短く刈った黒髪が風を受ける。
不意に向井の「諦めへんで!」という叫びを思い出して笑ってしまった。あの明るくて強引な感じ、雅彦みたいだな。
小学生の頃、近所の公園で逆上がりをしていたら「すごいね」と声をかけてきたのが雅彦だった。「教えてほしい」と言うので「逆上がりなんて誰でもできる」と返すと、「ぼくはできない」とすね始めた。
面倒くさいと思ったが、気づいたらいつも隣にいた。
雅彦は中学の体操部に入ったが、高見体操スクールには来なかった。俺も部活動はしなかった。同じ競技を同じ時間に、違う場所でしていた。
中学三年の夏の大会に出なければ、あんなことにはならなかったはずだ。
「やり直しは三度までだよ」
しわがれた声に肌が粟立つ。俺は背筋に冷たいものを感じて振り返った。
住宅街のど真ん中に樹齢千年はありそうな巨木がそびえ立っている。根はコンクリートを割り、幹を避けるように塀が立ち並んでいる。生い茂る葉は太陽を隠し、頭上でざわめいた。両腕を伸ばしても届かないくらい太い幹には紙垂がかけられている。
通学路にこんな大木はなかった。足元から得体の知れない恐怖がせり上がって声の主を探した。
「ここだよ、小僧」
聞き覚えのある声の方を見ると、俺の足元に雅彦の曾祖母がいた。紫の袴に神主が神事に使う棒のようなものを持っている。
「婆さん、それ……なんだっけ」
寒気を感じながら恐る恐る口を開いた。言葉が通じなければ化け物だと思おう。
「祭具の御弊だと言っただろう。体を使うことにしか頭が回らないのかい」
そう言って皺だらけの口をすぼめた。いつもの婆さんだと思うと体から力が抜ける。
「何やってんだよ……こんなとこで」
「小僧に用がある」
なぜか婆さんの体の向こうが透けて見えた。奥にある紙垂が袴と重なって見える。
「……もしかして死んだんじゃ」
「死んでいたら共にあの世に行くかい?」
婆さんは不気味な笑みを浮かべ、言った。
「小僧は今から三度やり直すことができる」
「……は?」
突然の提案に俺は首をひねった。死んだんじゃなくて死に際でボケているんだろうか。透けているのが気になって手を伸ばすと婆さんの肩をすり抜けてしまった。
「やっぱり死んでんじゃねーか!」
「いいからよくお聞き!」
耳をつんざくような声に身がすくんだ。鼓膜を振るわせる生の怒鳴り声だ。
「小僧は今、自然の流れに背いた時間軸にいる。大きな歪みが生じる前に過去をやり直さなければならぬ。やり直しの猶予は三度までだ」
「……やり直し?」
婆さんの言葉が胸に突き刺さる。弓で射抜かれたような衝撃を感じ、指先が震え始める。
「そんなのどうやって」
「小僧を過去へ送るのさ。上手くいけば時の流れは修正され、正しき流れに戻る。万が一しくじったときは私を呼べ」
正しき流れ。それが何か俺が見極めないといけないのか。俺は生唾を飲み込んで聞く。
「いつをやり直すか、俺が決められるのか」
「時逆の地点は決まっている」
「いつだ」
「半年前の夏、七月二十三日」
息を飲んだ。あの団体戦の前日だ。
胸の内が燃え始める。目の前に迫るマット、しなる鉄棒、車輪を加速させ、手を離す。やり直せるかもしれないのか、あの瞬間を。
「時間の要望くらいは聞いてやろう」
試合直前のような興奮が湧いてくる。落ち着け、気持ちがはやればまた同じ過ちを繰り返すことになる。 俺はこぶしを握りしめて言った。
「その日の早朝五時に戻してほしい」
「承知した。皆の者、心してかかれい!」
婆さんは懐から巻物を取り出すと何もない空間から人が姿を現した。皆、髪で目元を隠し、赤い袴をはいている。
辺りが目映く輝きだした。得体の知れないエネルギーが渦巻き、全身の毛が逆立つ。宮司たちは一斉に口元を動かし始める。
「一二三四五六七八九十……布瑠部……由々良々止布瑠部」
呪文のような言葉が唱えられ、巻物から浮き上がった文字が頭上に立ち昇った。風が巻き上がり、俺の足裏が宙に浮く。その時――
「おわっ、何やってんのや!」
叫んだのは向井だった。肩に胴着を下げて「ちょっと待て、おまえ浮かんでるで!」と突進してきた。婆さんが御弊を振り下ろす。
ばか、ぶつかる。そう思った瞬間、意識が遠のいた。
辺りは一瞬にして消え去った。宮司も、巨木も、光も何もかも。
俺はあの日を、やり直す。