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3.理性と本能

 翌日は朝から高見体操スクールに向かった。


 「雅彦は敵」と言っておきながら、和真はそれ以上話さなかった。ナガスネビコの末裔である自分が雅彦に近づくとどうなるのか、分からないことが多すぎる。敵だと決める前に探りを入れておきたい。


「おや、よく来たね」


 体操スクールの前で高見の父親に鉢合わせた。会うのは二度目の時逆の直前、高見が新月面宙返りに挑んだとき以来だ。


「おはようございます。あの、高見くんに連絡もらったんですけど」

「今朝から練習に参加しているよ。どうぞ入って」


 遠目にも若そうだなと思っていたけれど、間近で見ても高校生の息子がいるようには見えない。全身は筋肉で引き締まり、現役アスリートのようだ。


 おれもこんな親父オトンがほしかった、と見事な上腕二頭筋に見惚れていると、その人は重そうなダンボールを二個も担ぎ上げた。


「あっ、持ちます!」


 上に乗せたダンボールが揺らいだのであわてて支えたが、あまりの重さに「ぎゃっ!」と叫んでしまった。


「なっ……何が入って……」

「トランポリンのスプリングが伸びてきたから入れ替えようと思ってね」

「ごっ……ご自分で取り替えるんですか……すごいっす!」

「まさか。もうすぐ業者が来るんだよ」


 彼は笑いながらダンボール二個を軽々と運んでいった。「俊から聞いていた通り、面白いね、君」と眉を下げて笑う姿を見て、あ、やっぱり高見の父ちゃんやと思った。


「手伝います!」

「悪いね。そこにあるのをお願いしていいかな」

「はいっ」


 悪いね、のイントネーションが高見の「悪いな」にそっくりだった。くすぐったい気持ちになりながら鉄の塊のようなダンボール箱を持ち上げる。体操男子の元日本代表、この若さで体操スクールを経営するなんて、きっとすごい選手だったのだろう。高見も同じ道を歩もうとしてたんやろか、雅彦くんがおらんようにならんかったら。


 いないと決めつけるのはまだ早い、と思いながらダンボールを抱えて彼のあとについていった。




「もう一回お願いします!」


 練習場に入るなり、和真の声が響き渡った。コーチらしき人物から指導を受け、険しい顔つきでゆかのコーナーに立つ。ふうっと息を吐き出すと彼は勢いよく走り出した。タンブリングバーンを踏みしめる音が鳴り響き、前方倒立回転の着地から宙に両足を蹴り上げる。


 両腕を胸に引きつけて伸身の姿勢、前方宙返りをしながら一回、二回とひねる。


 着地音と共にゆかがたわんだ。


 前方伸身宙返り二回半ひねり、E難度の技だ。振動は空気を割って頬にビリビリと響く。


 次はロンダートからバク転、後転系の技かと思いきや、着地から思い切り腕を引き上げてひねりながらジャンプをした。まっすぐ身体を伸ばして一回転、二回転。最後はひねってゆかを見ながら着地する。


 後ろとびひねり前方伸身二回宙返りひねり、E難度の「ペネフ」だった。着地は完璧に決まり、和真が体を起した。


 話に聞いてるんと全然ちゃうやろ、と息を飲んだ。高見は堅実で落ち着いた演技をする人だと言い、和真本人は「跳躍技は苦手だ」と言っていた。


 これのどこが苦手やねん、こんなダイナミックな技、黙って見てろ言う方が無理やろ。


 思わず拍手をした。和真と目が合ったが、にこりともせずゆかから下りる。


 おれにはもう「お愛想」はせんちゅうことやな、と思ったその時、後方でロイター板を蹴る音が響いた。跳馬に手をつく音が聞こえ、心臓をひねり上げるあの光景が眼前に迫る。


 ミサイルのようにギリギリと体をひねりながら高見が跳んできた。


 反射的にマットを見た。あの高さならこの辺りの着地、弾丸のような肉体が迫る恐怖をこらえてしっかり目を開ける。何回ひねっても腰の位置は見逃さない。


 回転不足だったのか高見は大きなマットに落ちた。うつぶせの姿勢から体を起こして「くそっ」とつぶやく。


 今の技は「伸身ユルチェンコ二回半ひねり」、価値点5・2のシューフェルトだ。また新しい技に挑戦してるんか、あんなことがあったのに全然変わってへんやんか、と不意に目頭が熱くなる。


「向井……」


 高見が目を丸くしておれを見た。照れくさいような嬉しいような、言葉にできない感情が湧いてくる。


「病み上がりちゃうんか」

「おまえこそ、体は……」

「おれの回復力なめとったらあかんで。相変わらずの体操バカやな」

「そうだな」


 目尻をくしゃりとさせると助走開始地点に走っていった。また跳ぶつもりだ。あわてて跳馬のそばにいた補助の人たちに頭を下げる。跳馬の向こうで父親の助言を受ける高見の様子をうかがいながら、補助の手伝いがしたいと申し出た。


 補助の一人が「マットのそばで何をどう跳ぶか見ておいで」と言ってくれた。こくりとうなずき、巨大なマットに近づく。


 跳馬の着地点に立つと、助走開始地点にいる選手の姿は全く見えない。助走とロイター板を蹴る音、手をついた時の音を頼りに技の軌道を予測する。この感覚は自らの経験で得るしかないと和真は言っていた。


 初めて高見の跳馬を見た時、恐怖で腰が抜けた。もし着地に失敗したらどうなっていたか、知識がつくほど補助をするのが怖くなった。予定通りにやる時はいい。けれど急にひねりを加えたり違う技を跳んだりする。大怪我をしたらどうすると何度怒っただろう。


 けれど高見は跳ぶ。才能なのか本能なのか、その瞬間、最良に決まる技を判断して跳んでくる。おれが受け止めると信じている。


 ロイター板を蹴る音が鳴り響いた。伸身の姿勢で高見が跳んでくる。一人は跳馬のそばで、もう一人はマットの反対側で構えている。


 今回は何を跳ぶつもりなのか見極めるつもりだったが、回転の軌道がわずかにずれた。高見は踵から落ち、姿勢が大きく崩れた。体は右に傾いて床に側頭部が迫る。


 とっさに床を蹴り、高見に向かって身を投げ出した。


「セッ……セーフ」


 おれの手のひらに頭が収まっていた。補助の人たちが駆けよってきたが、仰向けで呆然としていた高見が笑い声を漏らして言った。


「おまえがいたら何でもできるな」

「なっ……何でもできるかー!」


 おれはマットに伏せたまま声を上げたが、彼はまた助走開始地点に戻っていった。


 補助の仕方を練り直さんと。そばにいた体操経験者に相談して、あわただしく立ち位置を決めた。よっしゃこい、おまえがそう言うんやったら何でも受け止めたる。自然に湧いてきた感情が心をたぎらせた。




 散々、高見のシューフェルトに付き合い、正午の時報がなった。高見がコーチと練習動画を見るそばで、和真はつり輪を続けている。


 二つの輪にぶら下がった状態から蹴上がって倒立支持、振り下がって体を水平に保つ。


 輪より高い位置で制止する上水平支持、輪と同じ高さの中水平支持、連続で腕より頭が下にくる下水平支持。腕は震え、(あご)から汗が滴り落ちる。


 二秒静止した後、振り上がって体を十字の形に保った。高見のつり輪と違ってロープがほとんど揺れない。けれど顔は真っ赤だ。いつも涼しい顔の和真が口を固く結び、筋肉が弛緩しないようにこらえている。鬼気迫るとはこのことやな。


 彼の後ろには高見がいる。高見は自覚なく彼を慕い、彼は笑顔でそれに応える。けれど体操を続けるかぎり獣のようにひたひたとあいつが追ってくる。


 和真のつり輪は苦行のようにも思えた。おれの胸まで苦しい。


「おまえ、昼は?」


 高見の声で我に返った。脅されたとこやのに共感してどないするんや。


「持ってへんよ。高見は午後も練習か?」

「もう上がるように言われたけど」

「そやったら松谷の様子、見に行ってみんか?」


 高見は目を見開いた。なんとなく二人で和真に背を向けて声を潜める。


「行ったら和真さんにぶん殴られるかも」

「だから今行くんや。あの人はしばらくここで練習してるやろ」

「俺らだけで行ったら家の人に追い返されるんじゃ……」

「サトと連絡済みや」

「サト?」


 高見が素っ頓狂な声を上げたのであわてて口を塞いだ。


「貴橋や」

「おまえらいつからそういう仲なんだ?」

「ち、が、う!」


 動揺を隠そうと高見の首を締めにかかった。春に比べるとずいぶん筋肉のついた腕で押し返してくる。


「行くんか、行かへんのか」

「……行く」

「よっしゃ、ほんなら腹ごしらえに行こ」


 肩を抱いたまま立ち上がると高見は足元を見た。


「こんな格好でか? すっげー汗くさいけど」

「急にきれいにしたら和真さんに怪しまれるやろ。大体おれらはいっつも汗くさい」

「そうだった」


 高見ははにかんだ。無愛想な彼が見せるほんの一瞬の隙。それ、女子を一撃で落とす、ずっこい笑顔や。うっかりおれまで落ちそうになったわ、とアホなことを考えながら熱気にあふれた練習場を後にした。

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