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11.夢はまだあるだろ

 窓の外は小雨だった。


 ちょうど一年前、予報は「くもりのち雨」。「明日の演技構成を見てほしい」とメモを残しランニングに出る。


 パーカーを羽織って薄闇の道を走った。冷たい霧雨が夜明けの街を覆っている。


「高見くん!」


 前からお揃いの黄色いレインコートを着た映実と秋田犬が走ってきた。


「今日って雨じゃなかったよね。現実とリンクしてるのかな」

「明日には晴れるはず……だけどな」

「補助は元の通り高見くんの学校の先生でいいんだよね?」

「ああ、部活で演技構成を確認してくる。あとで向井と連絡取ってくれるか」

「任せておいて」


 記憶力だけは自信あるんだよね、とそらで向井の自宅の電話番号と住所を読み上げた。


「あの人たちも助けてくれるし上手くいくよ。高見くんは試合に集中してね」


 頼もしさを感じながらうなずいた。今回は婆さんと例の少年とも連携することになっている。


 映実はモチコの鼻先についた雨水を拭って言った。

「高見くんの演技、楽しみにしてるね!」

「任せとけ、予定通り完璧に決めてやる」


 立ち上がった映実とハイタッチを交わした。手のひらについた水しぶきが飛んで、朝靄の中できらめいた。




 翌日も明け方から雨が降っていたが、試合会場につく頃には雲の切れ間から太陽が顔をのぞかせていた。


「やったねー雨雲さよならー」


 晴れ男と自負する雅彦が曇天に向かって手を振る。


 何もせず時間を進めたらまた雅彦は消えてしまうのか、それとも消えずに俺たちと同じ未来に進むのか。肉体と中身が違う俺はどうなる、高校一年の記憶を持ったまま中学を卒業するのか。


 中身って何だ、魂のことか、と考えても仕方ないことが頭をよぎる。


「俊って緊張したことないの?」


 控え室に続く通路で雅彦が言った。


「試合前なのに全然緊張してないみたい」

「俺だって緊張はするさ」

「そうなの?」

「余裕なんてこれっぽっちもない。この一カ月は演技構成のことで頭がいっぱいだった」


 控え室は選手でごった返していたので廊下でテーピングを取り出した。未来の和真さんに教えてもらった手順で巻いていく。


 試合前の熱気に満ちた通路で「うんうん、そうかあ」と雅彦が笑った。テーピングをカットする俺をじっと見てくる。


「なんだよ」

「俊は体操楽しい?」

「楽しくなかったらここにはいないだろ」

「ぼくに遠慮せずいつもの体操をやってよね」

「ああ……うん」


 雅彦はいつものように笑っているのに、背筋に冷たいものが走った。どうして今回は「楽しくない」演技構成だとわかったような話し方をするんだ。


 現実の試合なら新月面も伸身ユルチェンコ二回ひねりもやっただろう。試合でしか味わえない肌がひりつく感覚を追い求めたいのが本音だ。


 けれど今回の目的は勝つことじゃない。


 係員が戸口でアナウンスを始めた。迷いは捨てろ、これが最後のチャンスだ。


 テーピングをバッグに押し込み、せかす雅彦についていった。




 団体競技が始まった。ゆかの一本目は前方伸身宙返り、高さには余裕があり着地もピタリと決まった。客席から拍手が起こる。


 続いてロンダートから後方二回宙返りと後方宙返りの組み合わせ。さらに前方宙返り一回ひねりを跳ぶ。着地でゆかに手をついて宙返り転、トーマス旋回に移る。


 最後はロンダートから後方回転、跳び上がって後方伸身宙返り二回ひねり、C難度の技を決めた。


 頭を下げると審査員たちがうなずきながら点数をつけ始めた。雅彦や部員たちとハイタッチを交わして待機席に戻る。


 演技を振り返りながら審査員の様子をうかがった。言われた通り、元々この試合でやった演技を完璧に再現した。審査員たちの和やかな雰囲気に手応えを感じる。


 点数が表示された。雅彦が「やったね、さすが俊!」と後ろから抱きついてくる。


「……13・200?」


 汗などかいていないのに背中に冷たいものが流れる。過去と同じ演技構成なのにどうして0・2点も高いんだ。


 観客席を見上げた。映実が両手を上げたり横に張ったりする。首を傾げると、立ち上がって着地の姿勢を取り、口を横にイーッと引き伸ばした。


 そうかEスコア。指で「E」の文字を作ると映実はうなずいた。


 もう一度スコアボードを見た。前年度全国大会の得点を上回っている。ゆかのEスコア(演技のでき映え点)が満点に近いなんて初めてだ。


 体は小さく筋力も落ちたけれど疲れを感じていない。和真さんとのあん馬の特訓がこんな形で結果に出るとは思わなかった。


 嬉しさと不安が同時にせり上がってくる。この調子だと跳馬も予定していた得点を上回ってしまう。技の難度を下げるべきか、そんなことをしたらまた未来が変わってしまわないのか。


「素晴らしい演技だったね、面白くなかったけど」


 沖間が俺の肩を叩いた。


「本当はもっと難しい技ができるでしょ? 無難にEスコアを取りに行くのは君の体操じゃないよ」

「なんで俺の体操がわかる」


 目の前の沖間とは初対面のはずだ。不自然な馴れ馴れしさに気持ちの悪い汗がにじみ出す。


「本当はもっと高難度の技をやりたくてウズウズしてる。新月面とか伸身ユルチェンコ二回ひねりとか」


 やっぱりこいつも未来の人間か。時逆の度に前回の得点を上回るのは現実の世界で何を習得しているか知っているからだ。


 ギッとにらみつけた。眠らせていた闘争心がたぎり始める。何でも知ってると思うなよ、次は度肝を抜くような技をやってやる。


「どうしたの? 跳馬に移動するよ」


 雅彦が間に入った。水をかけられたように我に返る。


 次の演技楽しみにしてるよ、と捨て台詞を残して沖間は応援に戻った。ゆかの演技直前だというのにあの余裕は何だ。


 苛立ちながら跳馬の待機席に向かった。客席から歓声が起こり、沖間の完璧なムーンサルトが思い出される。


 惑わされるな、雅彦を助けることだけを考えろ。せり上がる衝動を飲み込み、技のイメージを繰り返した。




 胸のざわつきはおさまらず跳馬の着地が乱れた。跳んだのは価値点2・8のユルチェンコ一回ひねりだ。


 スコアボードを見る。計画通りの合計点数に安堵しながらも不快感が湧く。着地の失敗を喜ぶなんてどうかしている。部員たちは「頼もしいなー」と肩を組んでくるけれど、こういう時の正しい反応がわからない。


 鉄棒を見ながら元の試合の通り、ピアッティからの落下を何度もイメージした。雅彦のためとはいえ、落下のイメトレが必要になるなんて思わなかった。


 待機席に座り、タオルをかぶって周りの音をシャットアウトした。歓声が起きているのは沖間が跳馬でユルチェンコ二回ひねりを決めたからだろう。


 今の自分には関係ないことだと言い聞かせて、鉄棒の演技構成を復唱した。




 部員たちの声援の中、最終演技の鉄棒が始まった。エールを全て跳ねのけて足を振り上げる。


 迷いを捨てろ、ここは雅彦を助けるために生み出された世界なんだ。


 車輪をしながらふと思った。雅彦のいる未来に上書きしたら俺はどうなる、習得した技はまたやれるのか。映実や向井、貴橋と交わしたあの会話は全てなかったことになるのか。


 誰がそんなことをできるんだ。婆さんか、イツセという少年が消してしまうのか。


 雑念を振り切り、三回目で勢いよく足を下ろした。余力はある、その気になれば高難度の技だって跳べるけれど、今は迷うな。


 開脚シュタルダーから振り上がって手を離す。回転の軌道に乗った体は鉄棒を越えて後方へ、そこから手を伸ばした。


 バーに指が触れると反射的に力が入った。違う、握らずこのまま。


 伸身の姿勢のまま、マットに落ちた。会場は静まり、体から力が抜けていく。


 これでいい、落下で0・5点の減点。顧問に「続けるか?」と聞かれ、演技を再開する、だけなのに。


 何だってこんなに腕が震えるんだ――


「俊!」


 雅彦が声を上げた。最後までやらないと三度も過去に遡った意味がない、ズルい方法で沖間を打ち負かした意味も。


 けれど指が震える。いつも感じていた妙な力は消滅した。体に力が入らない。


「高見くん、君の体操をやるんだ!」


 叫んだのは沖間だった。俺の体操をやる、未知の技に挑むんだ、違う雅彦を助けないと。


「君が必死になって技に取り組んでいたのを知ってる、ほら早く!」

「でもそれじゃ……」

「心配ないよ、雅彦はぼくの中にいるから!」


 沖間は顧問をうながし、審査員に「再開します!」と叫んで俺をバーにつかまらせた。時間内に再開しないと0点になってしまう


「ガンバやー! 高見ー!!」


 客席からバカでかい声が聞こえた。向井が使用禁止のメガホンを口に当てている。つまみ出されるぞと思っていると「気ぃすむようにやれ! 自分に負けるな!」と叫んだ。


 「高見くん思いっきり跳んでー!」と映実が叫ぶと、あちこちから「ガンバー!」と声援が上がり始めた。


 波のうねりのような声援に心臓が震える。


 沖間が演技再開の催促をしてきた。支えた足をトントントンと三回叩く。顧問は時間を計っている。


「ぼくの夢はもう叶ったよ! だから俊の体操をしてよ!」


 雅彦の言葉に胸がきしむ。泣きそうになるのをこらえて顧問に視線を送った。顧問が審判に合図を出す。


 俺はバーにぶら下がったまま言った。


「夢はまだあるだろ……一緒に関東大会に行くんだ」


 雅彦がうなずき、蹴上がりから演技を再開した。同じ技をやり直しても得点にはならない。けれどもう鉄棒にかけたプライドはどうでもよかった。


 手の中にバーがある、プロテクター越しに金属のきしむ感触が伝わってくる。雅彦が見ている、俺の体操をやる。


 一回、二回と後方車輪を繰り返し、三回目の下降で脇をしめて体を押した。閉脚シュタルダーで更に加速、バーの真下を通過する。


 バーがきしむ、視界がはっきりと見える。スローモーションで展開するフロア、観客席、天井、目映い照明。


 目を閉じるな、迷いを振り切れ。自分を信じろ!


 鉄棒のほぼ真上で手を放した。反った体を引きながらバーとの距離を計る。


 つま先が触れないようにこらえろ、あの「何か」わからない力は必要ない。体の声を聞け、持てる力を全て感じ取るんだ。


 胸をふくんで伸身の姿勢でバーの上を越えていく。


 腕を伸ばしてバーをキャッチした。全体重が指先にかかる。絶対に離すな、重力に逆らわずあるべき流れに乗せるんだ。


 伸身ピアッティ、E難度の技が成功し会場がどよめいた。


 続けざまに車輪を加速させる。ここからもう一度振り上がって手を放し、バーの手前で後方屈伸宙返りひねり。


 しっかりとバーをつかみ、伸身ピアッティとギンガーの連続技が成功した。会場に大歓声が沸き立ち、俺の背中を押す。


 鉄棒の声なんてものは聞こえない、けれど演技をしている自分の姿が手に取るようにわかる。真下にいる雅彦、沖間、観客席の映実と向井の姿も見える。


 下り技に残った力を注ぐ。車輪のあふりで手を放し、空中で後方宙返り一回ひねりをした。そこから畳みかけるように後方宙返り一回ひねり。


 眼前にマットが迫り来る。


 着地の音が響き渡った。足裏から伝わる激しい衝撃をこらえて体を起こす。


 「後方かかえ込み二回宙返り二回ひねり下り」、新月面宙返り下りが決まった。


 俺が両腕を上げると、試合会場に大喝采が巻き起こる。


「俊! 最高だよー!」


 マットから下りるなり雅彦が抱きついてきた。踏ん張る力は尽きて次々とのしかかる部員ごとフロアに倒れてしまった。あわてた顧問が俺を抱き起こす。


 ざわめきが収まらない中、審判員たちが何か話し合っていた。


 ピアッティからの落下が試合放棄だと見なされても仕方ない。バーを握る意思がなかったのは事実だ。


 得点係がスコアボードの数字をめくり始めた。固唾を飲んで得点を見守る。右端は「0」、次は「5」と「5」、コンマをはさんで「3」、最後の数字は――


 「1」が表示された。得点は「13・550」、やり直したあとの演技が認められた。


「うわあ、すごい! 落下がなかったら14点を越えてたね!」


 喜びながらも少し悔しそうな面持ちで雅彦が言う。俺は「そうだな」と応えてもう一度スコアボードを見た。


 やってしまったことは取り戻せない、やり直すこともできない。


 どれだけ後悔したとしても。


 部員たちにもみくちゃにされながら待機席に戻ると、最終演技者の沖間がプロテクターの準備をしていた。間仕切りを挟んで近づいていくと、沖間もよそを向いたままにじりよってきた。


「まさか伸身ピアッティと新月面下りをやるとはね。あれはジュニア選手権で挑戦する技だったはずだ」


 やっぱりこいつの中身は高校生の沖間だ。拍手が鳴りやまない中、俺はひっそりと声を出す。


「まだ一回も成功してなかったけどな。心臓飛び出すかと思った」


 ちらりと沖間に視線を送ると、鉄棒を見たまま苦笑していた。


「高見くんって……本当に無謀だよね」

「おまえもけっこうアレなんだろ、ほんとは」

「アレって?」

「無謀なことほど挑戦したい体操バカ」

「気づいてた?」


 沖間は演技中のチームメイトに声援を送りながら不敵な笑顔を見せる。


「まあ見ててよ」


 プロテクターをはめた手を伸ばしてきた。お互いよそを向いたままぐっと握り合わせる。豆だらけの手から熱が伝わってくる。


 青地に黄色いラインの背中を見ながら「雅彦はぼくの中にいる」ってどういう意味なんだろうと思った。


 演技直前に三回叩くあの仕種も心の隅に引っかかっていた。




 沖間の最終演技は「無謀」という言葉を全て「実力」に変えるとんでもないものだった。


 懸垂振動技とアドラー系の技のほとんどがD難度、手放し技もシャオ・ルイチだけでなくコバチをあっさりやってのけ、下り技は「バーを越えながら後方屈伸二回宙返り二回ひねり下り」だった。


 新月面宙返り下りと同じD難度。多少着地が乱れたが、バーを越え、かつ屈伸姿勢の方が格段に難しい。汗もかかずにガッツポーズをする姿を見て、悔しいやら嬉しいやらいろんな感情がないまぜになって込み上げた。


 またあいつと試合がしたい。叶わぬ夢だとわかっていても思わずにいられなかった。




 団体総合戦の優勝校は沖間が率いる長道星南中学、大差の準優勝は俺たちの中学となった。個人総合戦の覇者は沖間、僅差で俺が続く。


 種目別は予定通りにいかず、ゆかは俺、跳馬と鉄棒は沖間が優勝。意外にもあん馬は俺がトップとなった。


 表彰台に立ちながら、どこかで婆さんと少年が見ていたらさぞかし怒っているだろうなと苦笑する。


「たっかみー! おっつかれー!」


 正面玄関で向井が待ち構えていた。両腕を広げて「さあおれの胸に飛び込んでこーい!」とバカなことを言うので「いやだ」と言って素通りした。


 なんだかんだと絡んでくる向井の後ろから「ちょっとどいてよー」と映実が姿を見せる。


「まーくん、高見くん、お疲れ様!」


 心身ともに疲れ切っていたけれど、向日葵のような笑顔に心がゆるむ。


「映実ちゃん、俊と知り合いなの?」

「まーくんがいつも言ってる『すごい友たち』でしょ」


 首を傾げた雅彦に、彼女はそう切り返した。うまく丸め込まれた雅彦は「そうだったねー」と笑い合う。


 すごいってなんだ、と思っていると後ろから肩を叩かれた。


「じゃあね。いい演技だったよ」


 去っていく沖間に「またな」と返すとなぜか渋い表情になった。


「またはないかもね」


 そう言い残すと沖間は振り返りもせず、青地に黄色いラインのウェアを着た集団に消えていった。


「どういうことや」

「さあ……」


 未来では体操ができないということか。だったら何のための時逆だと胸が苦しくなる。


「あいつも気の毒やけど、今はおれらのことだけ考えるで」

「わかってる」


 計画通りにできなかった今、婆さんと少年がどう行動するか読めない。そもそも前回は姿さえ見えなかったのだ。


 彼らを頼らず自分たちで雅彦を守る、そう意気込んで俺たちは顔を見合わせた。

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