10.やり直しの意味
高校の体操場で汗だくになりながらあん馬をする。
三度目の時逆まであと一週間となった。定期考査の結果はさておき、放課後は高校で練習に励んでいる。
丁寧に修繕されたあん馬でセアを続ける。タンマをつけても汗で滑りそうになり、一心不乱にポメルを握る。基礎練習もずいぶん安定してきた。始めた頃はバックセアも満足にできなかったけれど、今はロシアン転向まで続けられる。
何よりあん馬が楽しい。必要なのは瞬発力ではなく持久力。高難度の技をやらなければと逸る気持ちがゆっくりと落ち着いていく。
沖間が俺を見ている。シャオ・ルイチを跳んだ沖間が、今は支えがなければ倒立さえままならない。複雑な気分になりながら横向き旋回に移る。
「高見、おれはつまらん」
あん馬の足元であぐらを組んだ向井が言った。旋回しながらポメルから馬背の中央、右端へと移動していく。ロシアン転向に切りかえて「何が」とつぶやく。
「腕が治ったのに高見はそれの練習ばっかり。おれの補助はもういらん、そういうことやろ」
でかい図体を丸め、指でフロアをいじりながら言うのでおかしくなった。確かにあん馬に補助はいらないけど、と思いながら倒立に持っていく。一回、二回と向きを変えて着地した。
「苦手種目からやらなきゃいけないんだよ、って何度も同じこと言わせるな」
「だっておれ、おっても無意味……」
大きな瞳をうるませて泣きそうな顔をする。驚異的な回復力で腕は完治したのに、和真さんに言われたことを未だに引きずっているらしい。
「あのな、あれが素の和真さん。あの人だってイラつくこともあるんだよ。ジュニアのすぐ後にインカレがあるんだから」
「インカレ……大学生の大会か」
「去年は腕を痛めて欠場したから初めての個人総合戦なんだ」
「そうやったんか」
向井は顔をこすって立ち上がった。
「わかった、補助の研究は自分でやる。ちょっと気になることあるんやけど、ええか」
「なんだよ」
汗で張りついたTシャツを脱ぎ捨て、スポーツドリンクを飲んだ。
「おれら以外にも過去に遡ってる人間がおるんちゃうかて考えたことないか」
「まあ……あいつとかな」
茂吉の補助で沖間が倒立をしている。茂吉が手を離すと不安定ながらも倒立姿勢を数秒保ち、マットにひっくり返った。
体操ができなくなったのは持病のせいだと沖間は言った。服の下は驚くほどやせ細っていて返す言葉がないくらいだ。足もかなり萎えているらしい。
「高見はあの沖間が過去に戻って、あの演技ができると思うか?」
練習に参加できない期間があると体だけでなく感覚もかなり鈍る。取り戻すには筋力的な衰え以上に時間がかかる。
あの体で、記憶に残る感覚だけであれほど繊細な演技ができるのだろうか。
「おーい、向井くんも手伝ってよー」
部員が声を上げ、「ちょっと行ってくるわ」と駆け出した。体操はできないけれど人懐っこい笑顔と面倒見のよさで皆に慕われている。俺が頭を打ったときの素早い対応も茂吉は感心していた。
向井と沖間がふざけ合うのを見ながらタンマ台に手を突っ込んだ。俺は恵まれている。あのおかしな力のおかげなのか病気や怪我に悩まされたことがない。現実で体がだめになり、過去に戻った時だけ体操ができるなら俺はどうするだろう。
ずっとその時間に留まっていたい、もしくは何度でもやり直したいと思うんじゃないか。
踏み台からつり輪にぶら下がる。床面から二八〇㎝の高さにある二つの輪を握って腰から後方にゆっくりと上がっていく。
余計なことは考えるな、今はジュニア選手権に向けてひとつずつやるんだと自分に言い聞かせた。
体操スクールに向かう途中、空はどんよりと曇り、山の向こうからくぐもった雷鳴が聞こえた。
「過去に戻ったときの演技構成はあれでええんやな」
「ああ、婆さんに言われたしな」
「胡散臭いけど言うこと聞かなしゃあないか」
正確には婆さんではなく例の少年からの伝言だ。無理に過去を変えようとする必要はない、これまで通り過ごせ、さすれば我らが力を貸すと念を押された。
「ゆかの新月面は封印か。もったいないけど雅彦くんを助けるためやもんな」
あいつの動きも気になるし、と俺が付け加えると「あいつな」と阿吽の呼吸でうなずいた。
その時、稲光が走った。街が一瞬にして夜のように暗くなり大きな雨粒が落ち始める。
「走れー!」
向井は俺の腕を引いて駆け出した。自分で走った方が早い、と思っていると例の巨木が姿を見せた。初めて時間を遡った時に見た大きな杉の木だ。
滝のような雨を受けて枝がしなる。婆さんは三度やり直せると言い、訳のわからないまま試合に臨んだ。三度目も失敗したらどうなるか聞く余裕もなかった。
次も失敗したら、俺は体操を続けられるのか。
「木に雷落ちたらどないすんねん、早よ走らんかい!」
腕を引かれながら杉の木を見上げた。あれは向井にも見えている、けれどいつも見えるわけじゃない。現実と虚構、消えた雅彦、俺は何を見ているんだ。
俺たちはシャッターの閉まった町工場の軒下に駆けこんだ。
ずぶ濡れになった向井がTシャツを脱ぐ。体操選手とはまた違った頑丈な筋肉をまとい、腕と胸に数ヵ所古傷があった。
「高見はずっと雅彦くんと体操がやりたかったんやろ」
その言葉に心臓が止まりそうになる。向井は雨に煙る街を見つめている。俺もシャツを脱いで地面に水滴を落とす。
「そんなに体操好きやのに大会出てへんかったんやてな」
「まあな」
「過去に戻るのもきっついわな」
「……そうだな」
技を決めたときの雅彦の笑顔を思い出して胸が苦しくなる。
「おれは時逆なんて胡散臭いこと、信じてなかったんや。ばあちゃんもイツセとかいう男も、過去で高見に会うたことも夢やて断言するつもりやった。現実や言うんやったら時逆の仕組みを解明してやろうて思てた。けど高見を見てるとな」
向井は両腕を上げて雷鳴のとどろく空を見た。
「おれもやったるでーって気持ちになるんや。細かいことはええ、おれも雅彦くん助けたるってな」
「……向井」
「だから心配すな、そんな難しい顔もせんでええ。おれらが何とかしたる。雅彦くんは絶対に取り戻す。高見は胸張って最高の演技をすればええんや」
その笑顔に心の重石が消えていく。胸の底から込み上げる熱いものをぐっと飲んで、顔を上げた。
「わかった。悔いのないようにやるよ」
「それでこそおれらの高見や」
いつの間にか夕立はやみ、向井は伸びをした。巨木は姿を消していた。地面には雨を遮った痕跡があるのに、葉の一枚も落ちていない。
「おれもやり直したいことようさんあるで」
「……例えば?」
「組手で空手仲間に大怪我させた、それが原因で家族別々に住むことになった。数えきれんほどある」
「怪我……」
新月面に挑んだ時を思い出した。焦りと不注意で側頭部から落ちた俺に向井はものすごい形相で怒っていた。仲間を思い出させたかと思うと胸に痛みが差し込む。
「俺も悪かった……」
「ああ、それはもうええねん。高見が過去をやり直すって聞いた時な、おれにもチャンスがあるんちゃうかと思たんや。気のせいやったけどな」
いたずらっぽく言って向井は飛び上がった。伸ばした手が枝に当たり、頭上から雨水が落ちる。「やめろ!」とあわてた俺を見て笑い、何度も飛び上がった。
濡れた木立から小鳥が飛び立ち、駅前の商店街にぼんやりと虹がかかった。やり直しが許された俺と許されない向井。違いは何なんだろうと考えずにいられなかった。
***
七月二十四日、時逆の日は朝から嵐だった。
暴風雨は明け方から本州に上陸し、高校は休校、体操スクールも休みになった。
この豪雨の中、どうやって神社まで行けばいいのか。時間も指定されていないのにどうしろっていうんだと苛立ちながら携帯電話を見つめた。
父さんは前日から試合会場近くのホテルに泊まっている。緊急連絡がないことを確認して朝食の準備を始めた。七つの時に母さんが亡くなって以来、食事の用意は父さんと分担している。
窓に叩きつける雨音を聞きながら「いただきます」と手を合わせた。白飯をかきこみ味噌汁を流し込む。
携帯電話が振動した。煮物を口に押し込んで画面をタップすると映実からイラストが届いていた。
考え込む猫に続き、走り回る犬が表示される。斜めになった傘のマーク、泣いているうさぎ。待ってみたが文は表示されない。「やばいな今日」と打つと、猛スピードでうなずく熊が表示された。
ひとり笑っていると音楽が鳴った。
「高見くん、おはよー。起きてた?」
「飯食ってた」
「ごめん、邪魔したかな」
「いいよ一人だし。それよりどうなんのかな、今日」
「あっそうそう、何時までに支度すればいいのかな。嵐の日は怪我して来る子が多いからわかると助かるんだけど」
「急に来るんじゃないのか?」
「一軒ずつ回るのかな?」
俺は吹き出した。それじゃ婆さんが集金に回るみたいだ。
「忙しかったら断れば?」
「そうしよう。ごめんなさぁい、手が離せないんでぇ」
訪問販売を断る主婦みたいな言い方をしたので笑ってむせてしまった。電話ごしに「大丈夫?」と笑っている。
「もし先に来たら連絡するね」
「飛ばすの待てって言うのか?」
「連絡するんでちょっと待って下さーい、すぐ終わりまーす」
「じゃあ俺もそうする」
ひとしきりふざけ合った後、映実は沈黙した。激しい雨がキッチンの小窓を殴りつける。
「……高見くん、大丈夫?」
「何が?」
「まーくんに会うの、三回目なんだよね。辛くない?」
「松谷こそ大丈夫か」
「うん、もう泣いたりしない。ほんとは死んでいないってことはわかってるから」
映実の声を聞きながら、やり直しを終えて戻った時本当に死んでいたら俺はどうするのだろうと思った。
「じゃあ向こうでな」
「うん、雨風に気をつけてね」
ホーム画面を見つめながら、嵐の中を戻るわけじゃないんだけどなと苦笑した。
「準備はいいかい小僧」
「わあっ!」
薄暗いキッチンに婆さんが浮かんでいた。口から飛び出しそうになった心臓を必死に飲み込む。
「ばあっ……さん……急すぎるだろ! 準備もくそもあるか!」
「イツセ様に急かされてね、昨夜からうるさいったらありゃしない。嵐で逸る気持ちもわかるが今日でないと時逆はできないと何度も……」
胸を押さえながら子守りの婆さんみたいだなと思った。婆さんは失言に気づいたのか咳払いをする。
「とにかく、時は満ちた。今こそ時逆のとき」
文句を続ける間もなく例の儀式のようなものが始まり、体が宙に浮いた。
三度目となれば慣れたもので、外が嵐だろうが部屋中が有り得ないくらい光っていようが冷静に婆さんを観察できた。
御弊を下ろす回数は時逆の度に増えているし、幽霊のように浮かぶ宮司の数も増えている。
「いやに落ち着いているね」
「さすがに腹もくくるさ、今度こそ雅彦を助ける」
「いい度胸だ」
婆さんは口の両端を上げて不気味に微笑んだ。
体はゆっくりと回転する。顔の見えない宮司たちに恐怖を感じながら、こうやって浮けるならあん馬も楽なのになと心の隅で思った。
「これにて時逆は終末を迎える。覚悟はよいな」
円状に並んだ宮司たちが迫る。紅色の光が瞬き、長い髪の下に顔が見えた――皆、まぶたはあるが瞳がない。目を凝らすと胴体は透け、足元はぼやけて輪郭を成さなしていなかった。
「一二三四五六七八九十……」
徐々に調子が強くなり、御弊に集められた力は赤く発光して大きくなる。婆さんの白髪が孔雀の羽のように広がったが文言は止まらない。
真っ赤な閃光が迸り全身の毛が逆立った。体の内に眠る「何か」が叩き起こされるような恐怖を感じる。
「布瑠部、由々良々止……」
婆さんは両目を見開くと同時に御弊を振り下ろした。
「布瑠部!」
御幣の先から激しい圧力を感じた。視界が一瞬にして赤く染まる。
「健闘を祈る」
婆さんの声が聞こえたかと思うと真っ暗闇に落ちた。薄れゆく意識の中で、俺は映実の笑顔を思い出していた。