9.魂の色
「勝負しろ」
昼休みの度に貴橋が立ちふさがった。空手部の勧誘から解放されたのに何なんだ。
いやだ、と言って弁当の包みを閉じると俺の首根っこをつかんだ。
「なんでだ、女だからか!」
「違うって言ってんだろ」
何度繰り返したかわからない不毛なやり取りにため息をつく。
婆さんと古代装束の少年に会った日の帰り、俺は貴橋が女だと知った。映実が「サトコがね」と言うから女みたいな名前だなと思っていたら本当に女だった。
勘違いしていたのは俺だけで、向井なんか目を点にしやがった。あの時の開いた口が塞がらないって顔、思い出しただけで腹が立つ。
体操競技は男子と女子で種目が違う。体の作りが違うのだから当然だ。それぞれの長所を生かしているのだから誰もが納得している、なのにこいつはしつこい。
「陸上でも男女で競技は違うんだろ。体操だって……」
「五十㎞競歩と十種競技以外は全部同じだ。女子にだって七種競技はある!」
俺の言葉を遮って叫んだ。映実が「サトコ声が大きいよ」となだめても引き下がる気配すらない。
「一度でいいから勝たないと気がすまない」
憤る貴橋に胸倉をつかまれた。なぜこんなに敵対視されるのか。
「ええやん、いっぺん競ったら」
デカい握り飯を食べながら向井が横やりを入れた。余計なことを言うな、と思ったが貴橋は「いいこと言うな、来い!」とやる気満々で俺の腕を引っ張った。こいつ本当に女なのか。
誰かこいつを止めてくれ、と俺の祈りもむなしく、グラウンドまで引きずられて五〇m走三本勝負をするはめになった。
言われるがままグラウンドの隅でストレッチをする。貴橋がスラックスを膝の上まで折り返すとギャラリーから甲高い声が上がった。男子生徒がにやにやしながら通り過ぎていく。
好奇の目を気にしない性格なのか、本当に心は男なのか。「映実は可愛い」と連呼するし、俺がそばにいると烈火のごとく怒る。会話の端々から男として扱ってほしい感じも受ける。
けれど体は女だ。男と同じように扱っていいはずがない。まいったな、と思いながらスタートラインに立った。
「準備はええか」
靴の先でスタートラインを描きながら向井が言った。ゴールへ意識を集中させる。隣にいるのは対戦相手だ、男とか女とか考えるのはよそう。
「位置について、ようい」
向井が手を上げた。俺はスタンディングスタート、貴橋は地面に両手をつくクラウチングスタートだ。
「ドン!」
号令と共に駆け出した。スタートからの初動はほぼ同時、斜め四十五度に倒した姿勢から加速していく。徐々に体を起こし、残り一〇mで最大加速に引き上げる。後方から貴橋が迫り、獣みたいな速さで追い抜いていく。
「サトコ六秒八〇、高見くん六秒九七!」
ゴールを駆け抜けると同時に映実の声が響いた。貴橋は「いよっし!」とガッツポーズをする。
砂まみれのグラウンドで素人のアナログ計測、誤差があるとしても貴橋は早い。地区大会は向かうところ敵なしだろう。男に挑みたい気持ちもわかる。
けれど次は絶対に勝ってやる。
「貴橋さーん!」「怜子さまぁがんばってー!」とグラウンドに響く熱狂的な歓声には応えず、足下を見ながら何かつぶやいている。三本とも勝ちにくるつもりだな。
貴橋の背に陽光のようなものが揺らめいている。迫りくる勝負に背筋が震えるなんていつぶりだろう、と考えながらスタートラインに立った。
その後、二本とも俺が勝った。もう一本とつかまれた時に予鈴が鳴り、胸をなで下ろした。正直もう一本走って勝てる自信はなかった。
学校からの帰り道、貴橋は悔しさに悶えながら地団駄を踏んでいた。
「次は勝つ……絶対負けない……」
呪いのように唱えながら俺と向井についてくる。
「高見、ほんまに試合出るんか」
「まあ、約束だし」
「おおっ、それは気合い入るなー」
ギプスをした腕を振り上げて「イテッ」と声を出した。
定期考査が終わるまでスクールの体操場を使わせてほしい、と父さんに頼むと「ジュニアに出るなら考えてやってもいい」と交換条件を突きつけられた。出ないなら大人しく試験勉強をしていろということだ。
『全日本ジュニア体操競技選手権大会』は毎年八月の中頃に開催され、入賞者から国際大会の代表選手も選ばれる。
俺が頼んだ時、すでに書類は用意されていた。嬉しいやら腹が立つやらで「よろしくお願いします」と頭を下げるしかなかった。
試合勘を取り戻したい、体操に集中したいと思っているのになんで貴橋までついてくるんだ。
「オマエの本領、とことん見させてもらうからな」
「私も高見くんの体操楽しみー!」
「こら、遠足行くんとちゃうで!」
映実まで連れて行ったら和真さんに怒られるんじゃないかと思ったが、にこっと笑ったので「帰れ」とは言えなかった。
ストレッチと後方回転などの軽いメニューをすませた頃、和真さんがやってきた。夏は試合のハイシーズンということもあり、和真さんも『全日本学生体操競技選手権大会』通称インカレへの出場が決まっている。
ジュニアはお盆の前後、インカレはその一週間後だ。昨年は怪我に泣かされた和真さんもこのところ好調で新しい技に挑戦している。
「よろしくお願いします」
おつかれ、と俺を見ずにストレッチを始めた。こんな時は無理に話しかけない方がいい。俺は鉄棒に向かったのに「お疲れ様っす!」と向井が声を張り上げた。開脚してゆかに胸をつけていた和真さんが顔を上げる。
あのバカめちゃくちゃ怒ってるぞ、と鉄棒にぶら下がりながら肝を冷やすと、和真さんが体を起こした。
「きみ、なんでいるの」
冷淡な声色に向井と貴橋、映実まで反応して「えっ……えっと」とうろたえた。和真さんは足を閉じて深いため息を吐く。
「怪我をしてるきみだよ、ここにいたって意味がないでしょ?」
向井は自分を指差した。映実が「そんな言い方しなくてもいいのに!」と反抗したが「映実と怜子ちゃんも家で勉強しなさい」と一蹴されてしまった。
「補助を見させていただく予定やったんですが」
「そんな腕じゃ論外だ、早く治してきなよ」
「……スンマセン」
向井は帰り支度を始めた。貴橋がさりげなく手伝うと、ふくれっ面をした映実と目が合った。全くもうと言いたげな顔をする。
いつもは温厚な和真さんも時折きつい言い方をすることがある。つり輪の補助を見せてくれると言っていたのに、どうしたのだろう。
「お邪魔しました」
戸口で頭を下げた向井を見ようともしなかった。貴橋は気まずそうに少し頭を下げ、映実は「イーッだ!」と分かりやすく歯を見せている。
三人を見送って戻ると和真さんはストレッチを続けていた。補助がないと鉄棒の手放し技はできない。新しい技を試してみたかったが今日はあきらめるか。
今度の大会では六種目の実施が求められる。目下の課題は『あん馬』の演技を最後まで通すことだ。
あん馬にはポメルと呼ばれる二つの持ち手があり、ポメルかあん馬の背に手をついて常に足を回転させなければならない。
制止すると減点、つま先が伸びていないと減点。落下せずに演技を通すのがとにかく難しい。
あん馬に手を乗せた。倒立から体を下ろし、開脚旋回を始める。
足を振り上げながら手で移動したがつま先がポメルにひっかかり、あん馬を跨いだ状態で止まってしまった。再開したが今度はポメルをつかみ損ねて落下した。
マットに落ちたまま天井を見上げる。あん馬を安定して通すには今以上の筋力がいる。けれど練習をするほど体が重くなり、跳馬や鉄棒での回転速度が落ちる。
楽に通す方法はある。手の中にある赤い「何か」を使えば簡単に――
「こういう時は基礎からしっかり、だよ」
心を見透かすように和真さんは言った。
「基礎が上手く行かないときは……」
「ひたすら基礎練習だね」
事も無げに言って俺の腕を引いた。
「俊は小柄なことを有利に感じているようだけど、体操の場合は一長一短だ」
そう言ってあん馬のポメルを握った。基本中の基本、振動技の正交差を始める。
和真さんのセアは安定していて美しい。手のひらで体重を支え、振り子時計のように脚を揺らしながらあん馬に前後させる。身長一七八㎝体重六十三㎏と日本人選手としては大柄な方だが体の軸は全くぶれない。
続いて逆交差、後方に向かって脚を振り上げる。伸びたつま先に見惚れてしまう。
休まず横向き旋回を始めた。交互にポメルを握って下半身を滑り込ませる。続けて「横向き開脚旋回」、トーマス。頭より高い位置で開脚旋回をする。
ポメルからあん馬の右端に下りてロシアン転回、体を水平に保ちながら旋回を続ける。回転数で難度が上がるこの技もそつなくこなし、開脚旋回から倒立をして着地した。思わず拍手をする。
「これが基礎練習。セア、バックセア、横向き旋回、トーマスを十回ずつ。慣れたらロシアン十回を増やしてもう一周だ」
「一周、五十回……の倍」
気の遠くなる回数に目眩を感じた。あの赤い「何か」を使わなければ今の俺には到底できやしない。
和真さんは急に俺の手のひらを上に向けた。
「この力は使っちゃいけないよ」
思わず息を飲む。豆だらけの手を見ながら和真さんは続けた。
「俊が時々おかしな力を使ってることは知ってる。首から落ちそうな時、靱帯損傷につながりそうな時、その力は働いてる。技ができないからって力に頼ることはないけど普通なら有り得ないことだ」
瞳の奥から凄みを感じてひるんだ。和真さんは口元に笑みを浮かべて手を重ねる。
「じつは僕も持ってる」
「……え?」
「試合中だったけれど使わなければおそらく死んでた」
体操場を見渡すとひとつずつ器具を指さした。
「体操は常に命の危険を伴う競技だ。怪我をしないこと、それが亮先生の信条。でもどんなに気をつけていても事故は起こる」
脳裏に幼い頃の記憶が駆けめぐった。小学校に入ったばかりの頃、鉄棒から落下したあの時の衝撃がまざまざと――和真さんは俺の肩を持った。
「例えおかしな力でも使わずに死ぬのが正しいとは思わない。ただそれに頼ってしまうと本来の自分を見失う。俊はその境目にいる。奢らず怠らず、自分の力を見極めないといけない。わかるかな?」
俺の両手を握ったのはいつもの優しい和真さんだった。こくりとうなずいて縮みそうになった心を立て直す。
「結局、基礎練習なんだけどね」
苦笑いをする和真さんに「はい」と笑い返した。手の中の赤い「何か」が消えていることを確認してタンマをつけた。
まずはセアとバックセアだ、と気合いを入れて交差を始めた。和真さんは腰の高さや脚の伸びを細かくチェックしながら「いい魂の色だね」とつぶやいた。
何のことだろう、と思ったけれど落ちないようにするだけで精一杯だった。