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 どれくらいの時間が経ったのか? ここに至るまでに何があったのか? 全く見当が付かない。

 私が昇雪池に転落して、次に目を覚ました時。視界に写った真っ先の光景は、板チョコの様な薄い茶色をした格子状のつなぎ目、木製の板張りだった。そして背中には柔らかな感触が感じられ……なんだか、他所の家に上がった時のような匂いもした。多分、今私は誰かの家のベッドで仰向けになって寝ているのだろう。

 体が粘土になってしまったかと思うほどに、気だるくなった上半身をゆっくり起こして、左右に視線を送った。

 背後には木製の板を繋ぎ合わせたような壁。右には白い布、左にも白い布。そして前方にも白い布……私の周囲は、U字型のレールから垂れ下がったカーテンにより覆われていた。

 ここ……まさか……。

 ある一つの心当たりを胸に、私はベッドから降りて世界を分断する布切れをかき分けた。

 視界に飛び込んできたのは木造建築の部屋。そして私が寝ていた物と同じ、U字カーテンを上部に備え付けたベッドが3つ置かれている。

 やっぱりここは病院だ……間違いなかった。

 自分以外誰もいない病室の床を裸足で踏みしめると「ギシリ」という危うげな音を発した。床も木造の板張りだ……なんだか妙にこの部屋は……ボロかった……。

 どこか得体の知れない場所に足を踏み入れたことに不安を覚えつつ、今になって自分が、緑色の病衣に身を包んでいることに気が付いた。

 そう言えば……自分の荷物、どこにあるんだろ? 白辰神社に向かう際に着ていたコートのポケットに、携帯電話を入れていたハズだ。

 とにかく私は携帯電話を手にして安心感を得ようと考えた。それさえあれば時間、伝達手段、各種情報を容易く得ることが出来るということは、間違いないのだから。それによる頼もしさは、少しでもこの状況を楽観出来るようにもなるだろう。これは情報化社会における近代人の性なのだ。

 前に幸村先生がこう言ってたっけな……「最近は携帯電話を持ってないと安心出来ない子が多いみたいだねぇ」って……まさにその通りですよ……私は……。

 私はとにかくこの病室を出て看護師の人を探すことにした。

 出入り口のドア(これまた木製でボロい)のノブを回して隣室へと足を踏み入れると、大きな曇りガラスの衝立が目に入ってきた。向こう側から誰かが話しをする声が聞こえ、そのシチュエーションからここは診察室なのだろうと判断した。

 誰かの診察中に失礼だとは思ったけど……多分それほどに私はこの状況に不安を抱いていたんだろう。その常識的な考えを巡らせるより先に、私はついつい衝立の向こう側をのぞき込んでしまう。

「はい、動かないでぇ……もうちょっと」

 私が空気を読まずに踏み入れてしまった世界は……ちょっとだけ刺激が強かったみたいだ……

「あと2針で終わるから……」

 そこには緊張感の無い声を掛けながら、頭に切り傷を付けた患者に、震える手で縫合治療を施している年老いた男性の後ろ姿があった。

 げっ……生々しい……

 病衣を着た丸刈り頭の患者は、丸形クッションのパイプ椅子に座っていて、その頭頂部には魚の口の様に、パックリ空けられた傷が付けれている。それを見下ろしながら、医者(と思われる老人)がチクチクと迷い無く針を通している光景は、目覚め一番に見る景色としては最悪だった。

「うわっ……」と、私は思わず声をこぼしてしまい、続けて「んんっ? 」と年老いた医師がこちらを振り向き、その真っ白な髭と、七三分けの髪をたっぷり蓄えた顔をこちらに向けた。

「おお、あんたさん。起きたんかいな」

 突然現れた私の姿に対して特に驚くこともなく、医者は皺だらけの顔をくしゃらせて笑みを浮かべた。その笑顔は柔らかで親しみの込められたモノではあったけど、同時に鷹のように鋭い目つきでもあり、少し圧倒されてしまった。

「はっ……はい……おかげさまで……」

 私が怖じ気付きながら返事をすると、その声に反応したのか、先ほどまで黙って頭を縫いつけられていた男が後頭部を向けたまま「……雪姫ユキ? 」と急に私の名前を呼んだ。

 見覚えの無い人間に突然名前を呼ばれたことで、私は狼狽えてしまった。しかし、その男はそんなことにもお構いなしに、立ち上がっては私の両肩に手を置いてその顔を近づけた。

「え? まさか……! 」

 その時初めて気が付いた。ぼさぼさに伸ばしっぱなしだった髪が綺麗に刈り揃えられていたものの、無精ひげと人の良さそうな目つきで、ようやく目の前の男が紛れもない「征仁さん」だったことに。

「良かった……無事だったんだな! 良かった! 本当に! 」

 泣いてしまうのかと思うほどに声を震わせて私の無事を喜んでくれた征仁さん。池に落っこちて危険をくぐり抜けた親子の感動の再会……と言いたかったところだけど、今私は正直それどころじゃなかった。なぜなら……

「せっ……征仁さん! 頭! 頭! 」

「頭? ああ、コレは池に飛び込んだ時に、底にあった岩にぶつかったみたいなんだ、無我夢中だったから」

「違う! 違うって! 」

「この髪型か? これは傷を縫合するのに邪魔だからって刈られたんだ。何も全部刈らなくも良かったのに……びっくりしたかい? 」

「びっくりしてるのはそれじゃないって! 血! 血! 血がいっぱい出てるよ! 」

 征仁さんは頭を縫いつけている途中にも関わらず急に動いてしまったので、その傷口が再び開いてしまったらしい。真っ赤なラズベリーソースのような血液が、次々と顔に滴っているのにも関わらず、歪むほどの笑顔を作る征仁さんには狂気じみたモノがあった。

「ああ? ホントだ、開いちゃったみたいだな……傷」

「バカタレェ! 動くんじゃないって言っただろ! 」

 血塗れの征仁さんは初老の医師によって改めて傷の縫合が施された。そして次にも患者が控えているということで、私はさっきまで寝ていた病室で征仁さんと一緒に待機するコトになった。


「征仁さん、ごめん……私がヘマしちゃったから……」

「いや、いいんだ。こうして僕も君も無事でいるんだから。どこか具合悪いところとかないかい? 」

 私と征仁さんはベッドの上に並んで腰掛けながら、お互いに視線を合わせずに会話をした。今のところ私達はこの距離感が一番話しやすいポジションなのかもしれない。

「ううん……それより……そんなことより聞きたい事があるの」

 征仁さんは続く言葉の内容を察したようで、その横顔から見える目つきがダーツで的を狙うような真剣なモノに変わっていた。

「ここがどこなのか? てことだね? 」

「うん……」

 私は初め、昇雪池に落っこちた私を、征仁さんがどうにかして助け上げてくれて、そのまま病院へと連れて行ってくれたのかと思っていた。でも話はそんなに簡単そうじゃないようだ。

「まず……僕は君を助ける為に池に飛び込んでね、上下左右も分からなくなってとにかくもがき泳いだんだ……それでようやく池から出ることが出来たと思ったんだけど……信じられないコトが起こってた」

 征仁さんはどういうワケかずっと手の甲をつねりながら喋っている。まるで漫画とかで見る、今いる現実が夢じゃないコトを確認するかのような仕草だった。

「僕が池から上がると、外が明るくなってたんだ。飛び込んだ時は真っ暗闇の夜だったのに……お日様が出ていたんだ」

「まさか……」

 私は幸村先生が言っていたコトを思い出していた。昇雪池の嘘くさい噂の一つを……

「雪姫、そのまさかかもしれないよ……さっき診察室でこんな物を見つけた」

 征仁さんは一枚の新聞紙を広げて見せてくれた。その一面には『北沢欣浩・銀メダル獲得! 』とスピードスケートの選手らしき写真と共にデカデカと見出しが載っている。

「……北沢欣浩? ……」

「サラエボオリンピックで銀メダルを獲った人だよ」

 そして征仁さんは新聞の発行日を記す箇所をゆっくり指差し、そこに印刷された事実を目の当たりにした私は、髪の毛が全部散ってしまうような衝撃で口を閉じることを忘れた。


「今、僕たちがいる世界は……1984年2月12日……つまり、30年も昔にタイムスリップしてしまったようだぞ」


 私は、昇雪池にまつわる数々の伝承を思い出していた。まさか私達は、雪女の力によって時を越えた世界へ来ちゃったということなのか? 

「そんな……きっと悪い冗談なんでしょ? コレ! 手の込んだドッキリかなんかでしょ! 信じられないよこんなの! 」

 私は征仁さんの時空転移説を真っ向から否定した。そうしなければ不安と恐怖で頭がおかしくなってしまいそうだったからだ。元の時代に戻れるの? もしかしてこの時代で生きて行かなきゃならないの? パソコンも携帯電話も普及していないこんな不便な時代をどうやって乗り切ればいいの? だとか様々な思いが駆けめぐり、そのあまりにも非現実的な予想を受け入れることなんて出来なかった。

「雪姫、それは僕も同じだ。僕だって信じたくはないよ……でも、どうしても受け入れなきゃならない事実があるんだ……」

 征仁さんはどこか嬉しいような悲しいような複雑な表情を作り、私の顔をじっと見つめ始めた。それは私自身の表情を見つめるというよりも、私の向こう側にある[何か]を見通しているような感じだった。

「何? なんなの! その事実って! 」

 何故だかその[事実]を喋ることをためらう征仁さんに、私は少し苛立ちを込めて怒鳴ってしまった。

「雪姫……無理かもしれないけど、驚かずに聞いてくれ……僕達をこの病院まで連れてってくれた人というのがね……」


 コツ! コツ! 


 ドアをノックする軽やかな音が征仁さんの言葉を遮った。

 何? せっかく大事な場面だったてのに! と、そのドアの向こう側にいるノックの主に対して、イラつきを抑えられなかった。

 でも、そのゆっくり開かれたドアの隙間から現れた、一人の女性の顔を見た瞬間、その憤りは水に溶けたトイレットペーパーのように、消えて無くなってしまったのだ。

「失礼しま~す……」

 嵐の日でもハッキリと聞き取れるように澄んで通る声と共に、雪のように真っ白な肌をしたセーラー服の女の子が私達の方へ歩み寄ってきた。

 一歩、また一歩と近づいてくる女の子は、年は私と同じくらいに見えたが、こうやって顔を合わせるのは初めてのコトではなかった。

 長くて真っ直ぐ伸びた黒髪と右の目尻の下に可愛らしく点在するホクロ、間違いなかった。確信を持った私は思わず体を震わせ、全身の水分が目頭に集まってきたかのような錯覚を覚えた。

 そんな……こんなコトって……

「え~と……二人とも大丈夫でしたか? 見つけた時は死んじゃってるかと思いましたけど、元気そうですね! 」

 その人は私達が無事だと分かると、まるで自分のことのように喜び、笑顔を作ってくれた。

 私が何度も何度も見て心が救われた笑顔が……今、目の前に……

「あ、申し遅れました。私『西条友江』って言います! どうぞよろしく! 」

 去年、その命を終わらせてしまった母さんが……今私の目の前にいる。

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