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白辰神社は祖父母の家と、あいざわ診療所とのちょうど中間ほどの場所にある。急いで走れば5分程で到着するのでワリと近所だといえる場所だ。
「ハァ……ハァ……」
降り落ちる雪が、肌に触れただけで蒸発するかと思うほどに、私は全力疾走によって全身を紅潮させていた。汗がおでこから伝う、生温かい感触を味わいながら。
所々色がはげ落ちてしまった鳥居をくぐり、境内へと足を踏み入れる。例年なら昇雪現象を一目見ようと多くのギャラリーで満ちあふれているところだけど、今夜は今のところ私一人がポツンと玉砂利の道を歩いているだけだった。
「皆帰っちゃったのかな……」
祭り会場を一人で歩くような寂しさを感じたけど、この特別な現象を独り占め出来るんだ! という嬉しさも当然あった。
わずかな蛍光灯の光だけでボンヤリと照らされている白辰神社の賽銭箱に、とりあえずの入場料という形で5円玉を投じ、ここに祀られている神様に手を合わせて「おじゃまします」と挨拶を済ませた。
この神社はもともと、入水した雪女の悲しみを鎮める為に作られた、小さなお社だった。
だけど、雪女の魂はその後、白い竜となって神様になったという伝承特有の超展開的発想によって[白辰神社]という名前の立派な神社が建てられたらしい。
白竜の神様、お願いします。今夜は雪を昇る現象を一目でも見せていただけますか? 5円しか払ってないけど……
私は神社の裏手に回り、朱色の木柵に丸く囲まれた[昇雪池]と対峙した。
空から舞い落ちる雪片が、吸い込まれるように池に落ちては溶け、幻想的な雰囲気を作り出してはいる。しかし、残念ながら……
……駄目かぁ……
昇雪現象は確認出来なかった。まぁ、見物客が誰もいないというコトからある程度は予感していたけど、いざ現実として見せつけられると、少しだけ気分がへこんでしまう。
「くっそぉ……雪女はケチだな」と罰当たりな独り言を漏らしつつ、私は木柵に足を掛けて身を乗り出し、池の水面を観察した。この池は水深が意外と深く、場所によっては2mほどの深さがあるらしい。夜空の下で、雪を飲み込み続ける昇雪池を見つめていると、吸い込まれてしまうような錯覚を覚える程に、水面は漆黒を作り出している。
この時私は、数年前に幸村先生から聞かされた話を思い出した。
昇雪池には[池の中にもう一つの池]がある。
どういうことかというと、昇雪池には特殊な成分を取り込んだ水が沸き出ていて、その成分を含んだ水は比重の差で底に沈み、さらには少し群青色を帯びるようになるので、まるでドレッシングの瓶に、酢と油の二階層が出来たかのような状態になる。するとあたかも、水中に池が出来たように見えるわけだ。
この現象は[雪姫の涙]と呼ばれている。
そして理由は解明されていないけど、雪姫の涙がハッキリと見える時には、昇雪現象が発生しやすいという統計もあるらしい。
何から何まで不思議なことだらけの昇雪池。
そのせいか時を経る内に、何かありがたい御利益があるのでは? と噂が一人歩きし、『雪姫の涙を飲むと病気が治ったり不思議な力を得る』だとか『昇雪現象を見ると幸福になれる』だとか、極めつけには『昇雪現象中の池に飛び込むと、生き別れた想い人と再会できる 』というおとぎ話じみたものまであるらしい。
幸村先生からそんな話を聞かされた時は、まさかそんなコトはないでしょ……とその噂の数々を鼻で笑ってやり過ごしてはいたけど、いざこうやって雪が降り注ぎ、静かな夜に一人きりという神秘的に演出された状況に立たされると、それも少しだけ信じてしまうような説得力が、この池からは感じられた。
しかし、こうやって5分ほど池をのぞき込んでいる内に、凍てつく空気によって体が冷え切り、そろそろこの状況に[飽き]が生じてきた。
……もういいや、そろそろ帰ろう。
どうやら私は自分の名前とは裏腹に、雪姫伝説とはほとほと相性が悪いらしい。今夜はもう諦めて家に戻って、暖かい布団の中に潜り込もう。そう思って朱色の柵から離れようとしたその時だった。
「嘘っ! 」
まさに[突然]だった。首に掛けていたカメラのストラップが、そうめんのように「プツッ! 」と切れて大事なお父さんの形見が池の中へと吸い込まれそうになる。
ヤバイッ! と咄嗟に手を伸ばし、カメラをキャッチするも、柵から身を乗りだし過ぎてしまい、私は体制を戻せずにそのまま池の中へと飛び込みそうになってしまう。
やめてぇぇ! こんな冗談じゃない寒さの中、池に飛び込んでズブ濡れになんて嫌だよぉぉ!
と心の中で叫ぶも、上半身は徐々に水面へと引っ張られ、望まない寒中水泳への秒読みが始まった。
雪姫様、さっきは文句言ってごめんなさい! あとで100円放るから助けて!
私は苦し紛れに祀られた神へ謝罪した。そしてその願いが通じたのか、私の体は空に引っ張られるように持ち上がり、宙に浮いて無事に柵の向こう側へと避難することが出来た。
一体何が起きてどう助かったのか? スグには分からなかったけど、私の首筋に当たるチクチクとした感触が、その正体に大体の見当が付いた。
「雪姫! 大丈夫か? 」
私を窮地から助けてくれた人物、それはこの白日町から去ってしまったかと思っていた[父親]……
「征仁さん……!? 」
征仁さんは猫を抱えるかのようにして私の両脇に腕を通して持ち上げていた。
「危なかったな……」
そしてゆっくりと私を着地させ、コートに付いた雪片をはたき落としてくれた。
「ありがとう……」
「うん……」
そっけないやり取りを交わし終えると、どことなく気まずい空気が漂った。
別れ際が別れ際なだけに、どうやって会話を切り出せばいいのか分からなかった。それは私だけじゃなく、征仁さんも同じなのだと思った。
このままでは埒が開かないので「あの……」と、とにかく私から話を切り出す。
「どうしてここに? 」
とりあえずは当たり障りのない質問から攻めることにした。
「それは……何というか、実はこの神社の駐車場に車を止めててね……さっきまでずっと車内で寝てたんだ」
「こんなに寒いのに……」
寒いだけじゃない、こんな雪の降る日に車の中に篭もることの危険性を全く考えていない。征仁さんは元々東北出身で、その辺りのことは熟知していると思っていたのだけど……
「ヒーターは付けてたから大丈夫だよ。でも眠れなくてね……何となく神社をうろついてみようかと思ったら、君の姿を見かけてね」
「そうだったんだ……」
「雪姫こそなんでこんな時間に……? 」
「……知ってるでしょ? 昇雪現象……それを見に来たの……」
「あぁ……」と征仁さんは一言漏らし、さっき私が落ち掛けた池に近づいて水面をのぞき込んだ。
「駄目みたいだね」
「うん……」
私も再度柵に手を掛けて、雪女が身を溶かした伝説と向き合った。雪が昇る気配は全くない。
ほんのちょっぴりのコトだけど、征仁さんと私が共に昇雪池をのぞき込んだことで、共通の意識が芽生えたような気がした。私は「今言うしかない」と腹をくくって口を開いた。
「ごめんね……さっきはおばあちゃんが……」
「いや、いいんだ。僕が悪いんだから」
あごヒゲを撫でながら征仁さんは言った。気持ちが落ち着いていない時によくやる彼の癖だ。
「でも……」
「僕こそ君を置いて途中で帰っちゃったりして悪かった」
「それはいいの……気にしてない……いや、本当に気にしてないってワケじゃなくて……」
「雪姫、どうした? 」
心配そうに私の顔をのぞき込む征仁さん。彼の目の端が細かく充血しているのが分かり、胸が締め付けられてしまった。
ちがう……ちがうの……本当は……何やってんだろ……おばあちゃんのせいにして……本当に悪いのは……
「ごめんなさいっ! 」
私は体の中の空気を全て吐き出すかのようにして、征仁さんに謝罪の言葉を投げかけた。雪の日特有の反響しない脆く柔らかい大声で……。
「雪姫……君が謝ることなんてないよ」
「違うよ! 私……征仁さんにヒドいコト言ったじゃん! 」
恥ずかしい気持ちと悲しい気持ち、そして自分自身と、お人好しすぎる征仁さんへの怒りの感情が一緒になり、ついに私は感情を爆発して涙を止められなくなってしまった。
3日前……2月3日は私の誕生日だった。
征仁さんはここ最近仕事が忙しくて、なかなかスケジュールを空けるコトが出来なかったけど、ちょっと無理して時間を作ってくれた。
例年通り「Biancaneve」でお祝いしてくれるコトを約束してくれた。
そして誕生日当日。私は夕方に、一人で予約済みの店に入り、仕事終わりに直行して来る予定の、征仁さんを待ち詫びていた。
でも、1時間、2時間待っても来る気配は無く、私は黙々と自分の分の料理を口に運ぶ作業に没頭していた。
店員さんが私のテーブルを横切る際、何度も気の毒そうな表情を浮かべていたコトが忘れられない。
結局征仁さんが姿を現したのは閉店時間直前の夜10時半だった。
「すまん! 急患が入って……」と、ぼさぼさの髪に、曲がったネクタイ姿で来店した征仁さんの姿を見た時、私は怒りを抑えることが出来なかった。
多分、長い時間一人っきりで周囲の突き刺すような視線に晒されていたことと、彼があまりにもみっともない格好で店に入ってきたことへの恥ずかしさに、耐えきれなくなっていたんだろう。
「征仁さん……もういいよ」
息を切らしながら私の座ったテーブルに駆け寄った彼に……私は言ってしまった……
「無理しなくていいよ……どうせ征仁さんが愛していたのは母さんだけなんでしょ」
「……雪姫……何を言うんだ……そんな……」
「いいよ……母さんはもういないんだから……! 私とは血も繋がってないんだから! もうほっといてよ! 」
私は走って店を飛び出して、そのまま家で不貞寝。翌朝一番の電車に飛び込み、白日町にある祖父母の家へと逃げ込んだ。
レストランで「私とは血も繋がってないんだから!」と叫んだ時、私は征仁さんとは目を背けていたので、その時彼が、どんな顔をして私の言葉を聞いていたのかは分からなかった……でも、今日……祖母が私と全く同じ言葉を発した直後の征仁さんの顔を見て、初めて私はとんでもないコトを言ってしまったんだな……と、犯した過ちに気が付いた。
征仁さんは……喜怒哀楽、どれにも当てはまらない「無」の表情で、ただただ涙を浮かべていた……それだけだった……
悲しむことも怒ることも出来ない……悔しさだけの涙が、私の脳裏にべったりと張り付いて離れない……
「だから……征仁さん……もう謝らないでよ……悪いのは全部私なんだから……」
「……雪姫……違う! 僕がいけないんだ」
「だから! 」
なんでここまで強情なの! どうしてこんなにも謝っている私の気持ちを受け入れてくれないの!
私達はどうやっても、真の意味で気持ちを伝え合わせるコトが出来ないのかもしれない……
『雪姫と征仁さんは離れた方が二人の為にもなる』と言った祖母の言葉が頭の中でリフレーンしてしまった……こんなんじゃ駄目だ!
とにかく今、私は征仁さんと何でもいいから気持ちをぶつけ合いたかった。
罵り合いの口喧嘩になってもいい。とにかく征仁さんの「心」を私は知りたかった。
「征仁さんのバカ! お人好し! だから仕事でもいいように言われてるんでしょ! 少しでもいいからもっと私を怒ってよ! 何か言い返してよ! 」
「……雪姫…………」
征仁さんはそう言ったきり黙ってしまった……
私は不完全燃焼な気持ちのやり場を、どうにかしようと、何となく池の方へと視線を向ける。もう……本当に駄目なのかな……と全てに諦め掛けていたその時、「あ……」と思わず声が漏れた。
そうか……征仁さんの言葉がとぎれてしまった理由が今分かった。
「すごい……」
昇雪現象が……今、目の前で発生したのだ。
それは、ただひたすらに不思議で神秘的な光景だった。
たんぽぽの綿毛が風に吹かれて舞うように、白く光を反射させる雪の粒が、水面より湧き出て天空へと昇っている。
私も征仁さんも、自身が今まで培った常識を、全て否定する自然現象に呆然と見入ってしまい、ほんの少し前まで、二人で緊迫したやり取りをしていたコトを忘れてしまっていた。
「私、初めて見た……本当に雪が昇ってる……」
「……実は、僕もなんだ……すごいな……」
雪は一体どこまで昇っていくのだろう? 暴走した自分の力を抑える為に入水した雪女の魂は、無事に愛した男の元へと辿りついているのだろうか?
それとも毎回途中で力尽きて、地面に落っこちてしまっているのだろうか? 昇雪現象にはそんな妄想をかき立てさせるほどの美しさがあった。
「綺麗……」
私はさきほど落下しかけて危険な目にあったことなんて気に掛けずに、もっと近くで見ようと池に再び近寄った。柵にもたれて水面をのぞき込めば、[雪姫の涙]が見られると思ったからだ。
「危ないぞ」
征仁さんが注意するのも耳に貸さず、この現象を間近で見たコトを記録する為に両手でカメラを構える。
「雪姫、離れるんだ」
こうして父親の忠告を無視し続けたことに、バチが当たったのだろうか……
「えっ!? 」
今度は私の体重を支えていた池の柵が突如「ベキン」と断末魔を上げながら崩壊、そして今度こそ私は冷たい池の中へ身を落としてしまった。
「雪姫ーーーーッ! 」
あまりの水の冷たさに悲鳴すら上げることが出来なかった。もがけばもがくほど厚いコートが水を吸い込み、体がどんどん重くなっていく。
ヤバイよ! 足が地面に付かない!
私は池の一番深い場所に飛び込んでしまったようだった。引っ張られるようにどんどん水底に吸い込まれていく感覚に生まれて初めて「死」という言葉を本気で意識した。
私……ヤバイ……死ぬかも……
真っ暗な水中で視界はほぼ0、まさに深淵。
水面からわずかに差し込む光が無数の気泡に反射して銀河を思わせ、まるで自分は宇宙空間に放り出されたのかと錯覚した。
意識が徐々に薄れていく……皮膚に当たる凍てつく冷水がもはや冷たく感じられず、チクチクと刺すような痛みに変わって全身が締め付けられる錯覚を覚えた。
でもちょっと待って……確かな感触がある。体を包みこむ微かに暖かい心地…………これは錯覚じゃない…………まさか……もしかして……?
おでこに伝わるくすぐったい感触で確信した。これは征仁さんの……あごひげ?
征仁さんが私を助ける為に、池に飛びこんでくれたんだ……私を抱き抱えてこの水中から引っ張り出そうとしているんだ……
……でも感覚で分かる。征仁さんは私を助けるどころか自分もろとも池の底へと吸い込まれているというコトに。私達は見えない無数の手に引っ張りこまれているように、どんどんどんどん闇の中へと引きずり込まれている。
やめて……征仁さん! もう私を置いて逃げて! このままじゃ、二人とも死んじゃうよ!
私の心の叫びも空しく、征仁さんは諦めない。そのまま二人でもがきながら悲劇の雪女と同じようになってしまうのか……?
やがて肌にじんわりと暖かな感触が伝わってきた……死を直前にして感覚がおかしくなったのかな? でも……なんだか違う……もがいて口の中に入り込む水の味が変わった気がする……ほのかに塩辛い……これはもしかして……
涙?
まさか、私達は入り込んでしまったのかもしれない……昇雪池水底の二つ目の池[雪姫の涙]に……
温もりと共に……意識が遠くなる……。
…………母さん…………