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 病院のサンダルのまま外に飛び出したので、全力で走ることが出来ないのが少しもどおしかった。だけど、今はそんなことも対して気にならない。

 私は昨日から今まで、これでもかと濃縮された不思議な体験に見舞われ、もうこれ以上大抵のことがあっても驚かない……そう思っていたんだけど……雪姫ゆきひめさんは、まだまだ私を飽きさせることはないらしい。

 竜脈を介して町中に広がった雪女の力がまだまだ地面から沸きだしているようで……今なお、道ばたに残った雪が少しずつ昇っていき、それらがまるで小さな妖精が踊っているかのように見え、夢の中を走っているような気持ちになった。

 昨日はただただ辛かった登り坂が、今では幻想的で踊りたくなるような心地に満ちている。

 一歩一歩踏みしめ、次第に見えてくる積み木で作られたかのような特徴的な屋根。

「ハァ……ハァ……」

 私にとって思い出深い特別な場所……[あいざわ公園]のベンチに……あの人はいた! ついに見つけた! 


「君が、この雪を昇らせたんだね……」


 真っ黒なコートに身を包み、背を丸めてベンチに腰掛けているその姿は弱々しく……今にでも倒れてしまいそうなほどに変わり果てていた。

「そうだよ……30年前と同じにね」

「どうやら……もう僕の正体はバレちゃってるみたいだね……」

「初めから隠す気なかったんじゃないの? 幸村先生……」

「はは……そうだったかもなぁ……」


「もう面倒だから、征仁さんって呼ぶね」

「……懐かしいな、その名前で呼ばれるのは」


 30年前の世界で、私を池に突き落とした征仁さんは、思った通り……そのまま過去に残って[幸村智和]として生き、今日まであいざわ診療所に勤めていたのだ。

 髪を切って髭を綺麗に剃り上げた征仁さんの顔に既視感を覚えたのは、その顔が私の時代の幸村先生にそっくりだったから。

 そして、征仁さんが別れ際に言った『ビタミンを取って、適度に運動。家族との会話を大事に』という言葉は、幸村先生の口癖だった。


「隣、いい? 」

「いいとも」


 私は少し湿って冷たいベンチに腰掛け、しばらくの間、征仁さんと隣り合って白日の町を見下ろし、雪が昇り町が煌めく光景を黙って見守った。

「まずさ……私から聞いていい? 」

 悠久に続くかと思うほどの沈黙を破ったのは私だ。征仁さんが「いいよ」と頷くのを見て、話を続けることにした。

「あの時、自分だけ30年前に残ろうとしたのはなんでなの? 」

 私がその質問を投げかけると、征仁さんはゆっくりとコートのポケットに手を突っ込み、一本のペンのような物を取り出して見せてくれた。

「それ、私が拾った万年筆? 」

「そう。君は過去の世界にこの万年筆を置き忘れてしまってたんだよ」

「しまった……後で返そうと思ってすっかり忘れてたよ……」

「でも、そのお陰で僕は確信したよ。友江さんがよくお世話になった、あいざわ診療所の幸村という男は……僕自身なんじゃないか? って」





 実はね、30年前に僕達がお世話になった武藤先生には、全てを話してあったんだ。

 僕達が30年後の未来からやってきたこと……雪姫が友江さんの娘であること。事故で夫を亡くしてしまうこと、心臓の病で若くして命を落とすこと……そして……僕と再婚することも……全部話したんだ。

 初めは先生も半信半疑だったけど、僕がこれから起こるであろう未来を次々と言い当てて行く内に、徐々に信じてくれるようになった。

 そして僕は、幸村智和として全く別の人間として生まれ変わり、心臓の病を抱える友江さんをいつでも助けられるように、この白日町で30年間暮らしてきたんだ。





「母さんには私のコトをなんて説明したの? 」

「ああ、雪姫はあの後海外に留学してしまってなかなか連絡が取れなくなってしまった……という風に言って、なんとなく誤魔化した」

「何だか不祥事を起こしたタレントの逃走みたいな言い訳……」

「はは……確かにそうだね……そして、僕はこの白日の土地が気に入って、医者として戻って来た……ってコトでね……あいざわ診療所で働かせてもらうコトにしたんだ」

「なるほどねぇ……」

 今では到底無茶なやり方で他人として生まれ変わったのだなぁ……と私は呆れつつ感心した。どれもこれも30年前だったから何とかなった言い訳だ。

「しかしな……雪姫」

 ちょっと浮ついた雰囲気になっていた空気を切り裂くように、征仁さんは真剣な口調で次の話を切り出した。

「僕は……どうしようも出来なかった……そのことが……ただただ辛かった」

「どうしようもって……ずっと母さんを助けてくれてたじゃない? 」

 征仁さんの体が震えている……単純に寒さからくるものなのかもしれないけど、それ以上に精神的に追い込まれてしまった時のやりきれない感情の爆発を思わせてしまう。

「違う……僕は、君の実の父……大和さんが事故で命を落とすことを知りながら……何もしなかった……それどころか、友江さんだって……救えたかもしれないのに、黙って見過ごしていた……」

 とうとう征仁さんは泣き出してしまった。大粒の涙が流れ落ち、雪の消えた石畳の地面に吸い込まれて行く。

「僕は……怖かったんだ……何か一つでも運命の歯車を狂わせてしまうことが……そうすることで……一番避けなければならない事態を巻き起こしてしまうことを……」

「一番避けなければならない……? 」

 征仁さんは突然、震える手で私の手を握りしめてきた。石のように冷たく、そして堅い手のひらだった。

「僕はね、君に会えなくなることが……一番怖かったんだ……」

「わ……私? 」

「そう……この公園で記念写真を撮ったことを覚えているかい? その時、まだぎこちなかった僕の手を、君が握りしめてくれたことがあっただろう? 」

「うん。覚えてるよ……」

「その時の君の優しさのお陰で、僕は初めて家族というものの素晴らしさを知ったんだ……」

「そんな……」

「僕は子供の頃から両親の愛情を受けずに育った。医者になったのだって、父親がそうだったからって理由なだけで……だから、友江さんと君に出会って……暖かい家族の愛情を知って、ようやく僕の人生がスタートしたんだ……だから……だから……」

「征仁さん!? 」

 征仁さんは突然大きくせき込み、ベンチから倒れ落ちそうになるも、私がどうにか支えて体勢を立て直した。でも、顔は青白くなり、目の輝きがどんどん失われていく様を見て、最悪の事態を確信してしまった。

「……いずれ……君は……僕を恨むかもしれない……僕のエゴで……多くの人間を不幸にしてしまった……父親らしいことも……してやれなかった……」

「もう喋らないで! 助けを呼んでくるから! 」

「僕には……わかってる……医者だから……もう長くは持たないってことが……」

「そんなの違うよ! 恨むもんか! 征仁さんは大事な私の……」

「……ゆ……き……」

「……父さん……だもん……」


「…………ありがとう…………」



 不器用で馬鹿真面目で、少し抜けてて、自分勝手で……でも、母さんとお父さんと同じくらいに私を愛してくれた父さんは。そのまま二度と喋らなくなってしまった……

 その魂は私が起こした昇雪現象と共に昇っていったのだろうか? 

 ただ確かなことは、複雑な運命の歯車が絡み合って、私がこの白日町の危機を救うことができたということ……

 そして、この公園から見下ろす白日町の景色は相変わらず美しく、綺麗であること……


 ただ……それだけ……

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