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「雪姫! 雪姫! 」

「ユキちゃん! 大丈夫? ユキちゃん! 」


 察するに私はお茶を飲んだその直後、意識を失って倒れていたらしい。目を開くと、おでこ同士がくっつくかと思うほどに接近した征仁さんの顔が出迎えてくれた。

「あ……私……」

「雪姫ィッ! 良かった! 目を覚ましてくれて! 」

 私が無事目覚めたと分かると、征仁さんはその圧迫で呼吸困難になるかと思うほどに強い力で抱きしめてきた。

「痛っ! 痛いって! 」

「大丈夫か? どこか具合は悪くないか? 」

 医者とは思えない征仁さんの対応。私が意識を失った時にそれほどまで取り乱していたのだろうか? 

「大丈夫だって! ちょっ! 髭、ヒゲが当たってるって! 」

 征仁さんのアゴ髭がおでこにすり付けられ、これ以上は皮膚が擦り剥けてしまうと思うくらいに痛かった。

「ごめん、ごめん」

「もう剃っちゃってよ、その髭」

「いや、でも本当に良かった……脳梗塞で倒れたのかと思ってびっくりしたよ」

「ユキちゃん……本当に大丈夫? 胸が苦しかったりしない? 」

 慌ててしまったことを誤魔化すような笑顔を作る征仁さんに、不安げな表情で私の顔をのぞき込む母さん。その顔を見て自分が助かった安心すると共に、30年前にタイムスリップしたことが夢でないことを再認識することになってしまい、この状況はより一層確かなモノとして受け取らざるを得なくなってしまった。

「……大丈夫、平気だよ。どこも痛くないし、苦しくもないから。何ともないよ」

 居間の畳の上で寝かされていた私は、立ち上がって元の掘り炬燵に戻ろうとした。

「ダメだよユキちゃん! ちゃんと休まないと! 」

 母さんが素早い動きで私の前に立ちはだかった。

「ええ? でも、平気だって……」

「平気だと思ってても、後から熱が出たりするんだから! 」

 そう言って突然向かい合ったと思ったら、私の前髪をそっとかき分けておでこ同士を密着させてきた。これは多分、私に熱がないか確認しようとしているのだろう。

「ちょっとあの……か……友江ちゃん!? 」

 母さんの温かい吐息が肌に当たる。時空のズレがあるとはいえ、これはただ単に母親が我が子を案じている行為というだけなのに、妙に緊張してしまった。動揺を悟られないようにと呼吸を我慢して、検温が終わるのをジっと待った。

 文字通り目の前にいる母さんは、高級な石鹸を思わせる匂いを漂わせて、「雪」の文字を持った私がみじめに思えるくらいに、新雪のような真っ白なきめ細かい肌をしていた。私が男だったら間違いなく恋に落ちていたと思う。

「ウーン、熱はないみたい」

 母さんは、額を離してクリスマスの置物のようにキラキラとした瞳を私に向けた。たった4~5秒程度の密着だったけど、その内容は濃縮されたガムシロップのように甘く充実したイメージを沸かせてくれた。

「でも油断は禁物だから、安静にしてた方がいいよ。隣の部屋に布団を用意するから、ちょっと待っててね」

「僕も手伝うよ」

「あの、ちょっと……」これ以上二人に心配しなくてもいいとのコトを伝えたかったけど、ここは言われた通りに休んでいようかなという気持ちも半分あった。原因は不明だけど、突然意識を失ったコトは確かだからだ。





 そしてあれよあれよと促され、数分後には客間の布団の中で横になっている私がいた。

「そういえば征仁さん、私ってどれくらい気を失ってたの? 」

「2分くらいかな……呼吸も脈もしっかりあったけど、まるでスイッチが切れてしまったみたいだったな……あんなのは初めてだ。雪姫、気を失う前に何かおかしなことはなかったかい? 頭が痛くなったとか、胸が苦しくなったとか? 」

 客間は私と征仁さんの二人っきり。母さんは別室に姿を消して、何かを探しているようだった。

「ううん、何も。ただ、お茶を飲んだ瞬間に、胃の中がグルグルと回るような、変な感じがした。そしたら急に目の前が暗くなって……」

「胃の中が……? 」

 私は自分の身に降りかかった災難については正直に答えたけど、その時に見た妙な夢については秘密にしておいた。自分自身が雪女になって自殺する夢なんて何か縁起が悪いし、これ以上征仁さんと母さんに心配をさせたくはなかったからだ。

「そういえば、君は池に落っこちた時に、水を沢山飲み込んでしまってたって、先生が言ってたっけな……何か関係があるのかも」

 医者である征仁さんが分からないのだから私がいくら考えても分からない問題なのだろう。30年の時を越えた世界にいる事実があるからして、私が気を失った原因には、何か超常的な要因があったのかもしれない。

「ユキちゃん、具合はどう? 」

 母さんが襖を開けて入ってきた。その手には一冊の分厚い本のような物が抱えられていた。

「おかげさまで」

「何かして欲しいコトがあったら遠慮なく言ってね」

 私はもう母さんの至れり尽くせりの心遣いに感動すら覚えている。多分征仁さんも同じだろう。信じられる? 母さんと私達、出会ってまだ3時間くらいしか経ってないんだよ? 

「征仁さん、ユキちゃんは私が見てますんで、その間に……どうですか? その……」

「その……? 」

 母さんは何かを握ってアゴを撫でるようなジェスチャーをした。ああ、つまりそういうことか。

「お髭、剃りませんか? 随分と伸ばしっぱなしみたいなんで」

「えぇっ、髭を? 」

 そう。伸びていてもキチンと切り揃えて手入れをしているのならまだ良いけど、征仁さんの髭はまるで無人島に漂流して何日も過ごしたかのような、不衛生で不潔な印象しか与えない。先ほど近所からのクレームがあったらしいし、尚更征仁さんはここで髭をそらざるを得ない。それにまたあのヤスリのようなアゴを突きつけられては私もたまったものじゃないので、母さんの意見には大賛成だった。

「いいじゃん、剃っちゃえば? 」

「父が使っている使い捨てのひげ剃りとクリームが、洗面所にあるんで使ってください」

「……ありがとう、それじゃちょっとだけ洗面所をお借りするよ」

 征仁さんは言われるがまま、客間から出て顔の掃除に取りかかった。そういえば、母さんがまだ生きていた頃もしょっちゅう同じコトを言われてたっけな。多忙とはいえ、どこかで時間を見つけて髭を剃るくらい出来るハズなのに。

 襖が閉じられ、部屋は私と母さんの二人きりになった。

「あの、友江ちゃん」

「なぁに? 」

「気になったんだけど、友江ちゃんが持ってるそのブ厚いのって……」

「あ、そうそう」

 母さんは小脇に抱えていた本のような物を開き、寝転んでいる私にも見やすいように、掲げてくれた。

 その開かれたページには沢山の写真が薄いフィルムに挟まれて保存されている。

「やっぱりそれ、アルバムだったんだ」

 私の時代では銀塩フィルムと呼ばれて、一部の愛好家だけが楽しんでいるアナログな写真の数々が目の前に広げられている。そこには若い頃の祖父母と母さんの家族写真、母さんが小学生の頃の卒業写真など、何となく心をつままれる作品が出迎えてくれていた。

「コレ見て、ユキちゃん」

 郷愁に浸っている私を余所に、母さんは一枚の写真を指さして私の視線を誘導した。

「うわぁ、綺麗……」

 それは昇雪現象の瞬間を捕らえた写真だった。この時は早朝の時間帯で発生していたらしく、朝日の神々しい光を反射させながら昇っていく雪は、現実のものとは思えないほどに美しくて幻想的だった。

「去年お父さんが撮ったの。これを写す為に何時間も粘ったんだって」

「すごい……」

 そういえば、大和お父さんと祖父は、カメラ好き同士で仲が良かった。ただし、祖父はデジタルカメラが主流になった頃からバッタリと写真を撮ることを辞めてしまったのだとか。元の時代に戻ったら、ちょっと銀塩フィルムについてちょっと聞いてみようかな……なんて思ったりもした。

「不思議だよね……なんで雪が昇るんだろう」

「友江ちゃんは、実物はまだ見たことないんだっけ? 」

「うん。短い時間でしか起きないから、たまたま見かけるってコトはほとんどないらしいの」

 地元の人間ですらなかなかお目にかかるコトが出来ない昇雪現象。それを見ることが出来た私と征仁さんは、相当な幸運だったんだろう。

 まぁ、今はそれよりももっと希少で信じ難い現象に巻き込まれているけど……。

「この時期になると、小学生の頃から何度も神社に行っては池を眺めてるんだけどなぁ……私、雪姫ゆきひめに嫌われてるのかもね」

「そ、そんなことないって」

 ちょっと強めの口調で否定した私に対し、母さんは若干ひきつった様な表情を浮かべていた。

「ユキちゃん……ごめんね、何か気に障ったかな? 」

「ち、違うの。こっちこそゴメン……別に怒ったワケじゃないんだ。ただ、ちょっとしたワケがあって」

「ワケ? 」

 なるべくこの時代で、自分に関する情報を口にしたくは無かったけど、目の前にいる若い母の姿にほだされたみたいだった。今、自分は全てを語りたくなっていた。

「私のユキって名前ね、雪の姫って書いてユキって読むの」

「それじゃ、伝承の雪女と同じなんだね」

「うん。だからさっき友江ちゃんが言った言葉が、まるで私に対して言われたみたいな気持ちになっちゃって……何か、嫌だったの。私が友江ちゃんのコトを嫌っているって思われているみたいで」

 ひょっとしたらこの言葉はとても幼稚で恥ずかしいモノとして、受け取られていたかもしれない。私からすれば娘から母への言葉だけど、向こうからすれば、同い年の女の子からの言葉だったのだから。

「あの……あんまり気にしないでね、別に深い意味はないから」

 母さんはニコリと笑った。

「雪に姫でユキかぁ……素敵な名前だね」

 母さんは私の言葉に対して特に反応は示さず、ただ私の名前を誉めてくれた。母はこうやって良い方向に話題を変えるのが得意だ。

「ありがとう……でもさ、ユキって名前なら単に『雪』の一文字でいいのにって思う。他にも『希望が有る』で『有希』ってのでも良かったのになぁ……」

「雪姫ちゃんは自分の名前、好きじゃないの? 」

「うん……あんまりね」

 私はこの際だから、名前を付けた張本人に本音を晒そうと思った。

「『姫』の文字がどうしても好きじゃない。だってそうでしょ? 男の名前に『殿』って付くようなもんだし、どうしても名前負けしちゃうよ」

「そう? 」

「そうだって! テストだとかなんかの時に、毎回自分で自分のコトを『姫』って書かなきゃならないんだよ。何かそのたびに自分がスゴく図々しいコトをしてるみたいで嫌なんだから」

 私は一片たりともふざけた素振りを見せず、真剣な口調で母さんに訴えた。過去に干渉して未来を変えることは絶対にやってはいけないものと注意していたけど、この時ばかりはコレで未来が変わって自分の名前が変わったらいいな。と、少し期待してしまった。

「……もしさ、友江ちゃんが将来結婚して……お母さんになったとしたらさ、自分の子供に『姫』だとか大げさな字を付けない方が……いいと思うよ。どうしても名前負けしちゃうよ」

 この発言には、我ながら性格が悪いと思った。若い頃の姿とはいえ、目の前には一年振りに会う母親がいるのだと言うのに、再会を喜ぶ言葉や感謝を伝えるワケでなく、自分に付けられた名前に対するクレームを付けているのだから。

 でも、この問題は私にとってそれだけ切実な問題だった。クラスで私のことを「ヒメ」と呼んでからかう人間がいなくなれば私の人生がちょっとはマシになるんじゃないか? そう思った。

「……そうかもしれないね。もしその時が来たら、気を付けるよ。でも……」

 母さんは何か恥ずかしいコトを誤魔化す時のような、申し訳ない笑顔を私に向けた。

「……自信ないな、私」

「自信ないって? 」

「うん。もし目の前に自分の子供がいたとしたら、どうしても大げさな名前を付けちゃうかも。自分にとって、かけがえのない存在だもん」

「かけがえのない……? 」

「うん。雪姫ちゃんのご両親も、きっとあなたが可愛くてしょうがなかったんだと思うな。『姫』の文字を入れなきゃいられないほど嬉しかったんじゃないかな? 」

 胸からじんわりと温かい空気がこみ上げて、それが顔に昇ってくる感覚があった。母さんの言葉は、半ば生理的に私の涙腺を刺激した。

「雪姫ちゃん? どうしたの」

「あれ、おかしいな……何だろ……なんか急に」

 自分の意思とは関係なく、拭っても拭っても瞳から溢れ出るモノが止まらなかった。

「変だよね……だって……」

 気が付いたら私は母さんに抱きついていた。私はようやく目の前にいる少女が、自分を産んでくれた人であり、自分の名前を付けてくれた人であり、自分を愛してくれた人だと認識した。

 今、私の目の前に、死んだはずの母親がいる。その事実が今になって大きく、重く心を締め付けた。

「雪姫ちゃん……どうしたの? 」

 私があなたの娘なのだと告白することが出来れば、どれだけ胸が楽だろう。でも、そんなことをしてしまえば、未来に変化が起こってしまうかもしれない。そもそも未来から自分の娘がやってきただなんて、そんな空想じみたことを信じてくれるハズもない。

 母がここにいる嬉しさ、母がもういない悲しさ。相反する感情がコーヒーに注いだミルクのように渦巻き、そのやり場の無い気持ちはただただ泣き散らして発散するしか方法が無かった。

「ごめんね、友江ちゃん……急に悲しくなっちゃって……」

 突然取り乱した私を、母さんはただ何も言わずに抱き返してくれた。

 そう。私が小さい頃、母さんはよくこうやって抱きしめてくれてたっけ……最近になってからはこうやって体を密着するコトなんてなかったから……とても懐かしく、暖かい気持ちが蘇ってきた。

 伝説の雪姫ゆきひめさん……改めて、今日こうして母さんと再会出来た奇跡を起こしてくれて、本当にありがとう……感謝してもしきれないほどに……ひたすら嬉しい……


「洗面所、貸してくれてありがとう」


 サッ! と開いた襖の音と共に、征仁さんが突然姿を現した。私は反射的に母さんから離れ、後ろを向いて泣きじゃくった顔を隠した。

「どうかしたのかい? 」

 悪気がないとはいえタイミングの悪すぎる彼の登場に、ほんの少しだけ苛立ちを感じてしまったけど、別に見られたらいけないコトをしていたワケでもないのに、咄嗟にそれを隠そうとした自分自身も悪かったのだ。

「な……何でもないよ……」

 この年で母さんに甘えている姿を見られるコトを恥ずかしがってしまったのは、その目撃者が「征仁さん」だったからなのか? もしもこの部屋に入ってきたのが「大和お父さん」だったとしたら……私はまた違った反応を示していたのだろうか? 

「わぁ~すっきりしましたね」

「うん、久々に自分のアゴを見たよ」

 そういえば征仁さんは、もじゃもじゃの髭を剃る為に退室していたんだっけ。背中越しに聞いた母さんの反応から察するに、かなり見違えた顔に変わったようだ。私は気を取り直して濡らした頬をぬぐい、久しぶりに髭の密林が消えた征仁さんの顔を拝見することにした。

 どれどれ……

「どうかな、雪姫……」

「えっと……」

「変かな? 」

「いや……そんなことないよ……似合ってる……似合ってるよ」

「そうか、それなら良かったよ」

「はは……」

 征仁さんの顔を見た瞬間、私は思わず声の出し方を一瞬だけ忘れてしまった。

 頭の怪我で髪をバッサリと丸刈りにし、髭をツルツルに剃り上げた征仁さんの顔に、どことなく既視感を覚えたからだ。

 どこかで見た誰かの顔に似ている……? でもそれが何なのか答えを出せず、アゴを撫でて照れ笑いする征仁さんをじっと横目で見守ることしかできなかった。

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