A-1 とある日、とある彼にとってのRush
今日の執行内容は、給食に牛乳を注がれる。合唱コンの練習中、声を出してないことを俺だけ異常に責め立てられる。そんで出したら出したで声が汚いって罵られる。ラストは、路上に鞄の中身をぶちまけられてフィニッシュか。今日は比較的イージーモードだったな。
夕日が射し込み、世界を緋色に包みこむ頃、俺は鞄の中身を戻しながら今日のいじめの内容を確認していた。我ながら、麻痺しているなと感じつつも、実際のところ怒りや悲しみは起きなかった。
いじめは許されるものではないし、いたく人を傷つける。やられたら悲しいに決まっているし、辛いに決まっている。
だけど、いきすぎると何も感じなくなってしまう。詳しく調べたことがないのでわからないが、恐らく心が自己を防衛するための最終手段なのだろう。
苦痛を苦痛と感じなければ、それは苦痛ではなくなる。そんな当たり前でいて異常な論理が自分の中でまかり通っている。
「よし」
鞄の中身をしっかり戻して俺はあるところに向かう。
このまま帰っても、お母さんに虚偽報告が出来なくなってしまう。今日の虚偽報告の内容は「友達の圭介君たちと鬼ごっこをして夕方まで遊んだ」にしよう。
一定期間を持って虚偽報告をしなければ、母は俺のことを心底心配してしまうだろう。俺がいじめられることには全然構わないのだが、母親が悲しむのにはいささか抵抗があった。
鬼ごっこというのはあまりにも小学生チックすぎるかなとも考えた。だが一度、野球部の連中が部活帰りに、公園で鬼ごっこしているのを見たこともあるし、まあ何とかなるだろう。
やたらと長い坂を登ったところに、いま向かっている目的地はある。それにしても疲れる! 息が切れる!
やっとの思いで坂を登り切り、門をくぐると、お目当ての景色が目の前に広がる。
「……今日もいいコンディションだ」
県が管理するこの自然公園の芝生の上で寝っ転がることは、俺にとって最高の至福だった。
何よりここは少し歩かなければ来れないため、俺の中学の連中にはほぼ会うこともない。至福を感じる理由の中には、そういったものも含まれていた。
「さて……」
いつものお気に入りの場所に寝転がり、ライトノベルを鞄から取り出した。
「……お前のせいで散々いじめられたな」
周りに誰もいないと独り言も進む。ライトノベルに話しかけるとか、俺もそろそろいじめ相談センターに駆け込んだ方がいいのだろうか。
……しかし実際のところ、俺はこいつのせいでいじめられたのだ。こいつは全然悪くないのに。
いまの中学校では入学当時、派閥争いが起きていた。
様々な小学校のリーダーとその取り巻きが、互いの領域を侵害しあい、また奪い合った。まあ、要はトップに立つのは誰だという争いが起きていた。
問題はその後だ。学校では、頂点に立った者たちの価値観が基準となる。
俺のところでは、スポーツが出来る奴は上。顔がかっこいい奴が上。体がデカい奴が上。おもしろい奴が上などの基準がまかり通った。
そしてそんな基準の下、「オタク」という性質は限りなく下であった。
だけど、俺は甘ちゃんで、愚かな幻想を夢見てて、あろうことか、俺は皆が俺のオタクという性質を許容してくれると思っていた。
「水谷慶悟です。最近はー……深夜アニメの『木漏れ日のマカ』とかが好きです!」
中学一年の頃、オタク文化にのめりこみ、中学二年の初めにそう自己紹介した。
純粋に趣味の合う人間がほしかった。ただ、それだけの理由だった。
「ええ、なにあれ」、「オタクって奴じゃない? テレビで最近よくやってる」、「ああ~アキバ系ってやつ?」
クスクスクス。ざわざわとした教室内に、確かな笑い声が交じる。
その言葉を発した瞬間、クラス内のすべての人間にチェックをつけられたのだと、いまならわかる。
周りを見渡し見えたのは、こそこそと話し出す者、笑みを浮かべるもの、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべるもの。無表情なもの。反応は様々だったが、すべてが好意的なものだとはとても思えなかった。
そしてその日を境に、
「オタク君。萌え~って言ってみてよ」
初めて喋る人間から、様々な要求をされるようになった。
……恐らく、俺は「格下」の烙印を押されたのだろう。
……それはどういう原理だ? どういう理屈だ? なぜ俺は格下なんだろう? なんでオタクだと人として価値が下がってしまう? 好きとか嫌いに格差ってあるのか?
何で俺とお前らは、対等じゃない。
疑問や不満が限界値に達したとき、俺は抵抗の意を唱えた。
「……言わねえよバカ」
言われたそいつは、近くにいた彼らは、みな一様に目を見開いて驚いた表情をしていた。
彼等にとって、それは戦争の申し出だったのであろう。
俺のやめてくれという必死の抵抗は、皮肉にも戦意を示す結果となった。格下の人間に宣戦布告され、それを制圧できなかったら? 領土を侵され、拡大されたら? そのとき、自分の地位が危ぶまれる。俺みたいにみじめな思いをすることになる。
連中は俺を徹底的に攻撃した。自己の領土を守るために。
俺はただ、自己の領域を守りたかっただけなのに。
「……嫌なこと思い出しちまったな」
不覚にも出てきてしまった涙を拭い、しおりを挟んでいたページを開く。こういう辛いときにも助けてくれたのはいつもこいつらだった。
時に自分のみじめな境遇など吹き飛ばして、自分という存在から離れて俺をヒーローにしてくれたり、時に自分と似た境遇になって寄り添って、俺を励ましてくれたり、俺を様々な手段で救ってくれた親友だ。
だから、お前は本当に良い奴で、みんなにバカにされるような存在じゃ、絶対にないはずなんだ。
――あなたの居場所はここにあるから。
何気なく開いたページ。ヒロインが主人公に向けた、そんなセリフが目に入ってくる。
「……ははっ、ありがとう」
この場に人がいたら、心底気持ち悪がられていただろう。俺は何だか、本当に作品に励まされているようで、思わずお礼を言ってしまった。自分が欲しい言葉というのは自然と目に入ってくるものなのだろうか。不思議なものだ。
そのあとは涙目で、でも笑いながら、そして噛みしめるように、俺はライトノベルを堪能した。