参 紫檀の瞳は私を映すか?
廻間先輩のご邸宅は地方では有名な薬屋だ。先祖代々、長男が店を継ぎ、その店を守ってきたとか。これが俗に言う老舗、というものなのだろうか。
「こんな汚いところでごめんね。さ、入って、栞桜ちゃん。」
店に入ると、薬草の香りや、アルコール臭、様々な匂いが鼻腔に広がった。
あのひとの香りだ。青々とした若葉の香り。夏の、桜木の下の匂い。
…その香りは、不思議と、今まで一心に想い続けたあのひとは一体私に何を与えてくれたのだろうか、私はあのひとをどう思っていたのだろうかという考えを思考回路へ、心へ、運んできた。深く考えるまでもない。それは、差し伸べられた手の優しさ、あたたかさ。それから、恋慕であろう。
「…きっと、愛していたのですよ。」
独り呟いたその声は、決してあのひとに届くことはなかった。
生まれてから誰とも話すことなく、一人夜風に吹かれていた私を連れ出してくれたあのひと。
寮を抜け、草を掻き分け、ようやく抜け出た広い世界に、長い年月をかけて根付いた大きな桜の木を指差して、無邪気にあのひとは言った。
「月夜見さん、見てください、夜桜です。」
はじめて風景に色を感じた。
桃色の花弁は濡れ羽色の天に舞い、紅檜皮の枝はぬるい風に揺さぶられ、その間からは淡い半月が覗いていた。
「嗚呼、綺麗だ。」
紫檀の瞳は、桜だけをうつしていた。
「…しおん……ちゃ……栞桜ちゃん、栞桜ちゃん…!」
「…あなた、は。」
誰かに抱きとめられている、力強い、男の人の手だ、きっとあのひとだ。
あのひとに、ずっとお会いしたかった、謝りたかった、お礼がしたかった。もう二度と会うことはないだろうと、後悔していた。…それが今叶うなんて。
あなたと出会った春が過ぎ、桜は散って、青々と茂る葉桜の下にもうあなたが来ることはなかった。
「…徒桜の…嗚呼、会いたかった、あの時私を連れ出してくれてありがとう。夜桜を見せてくれてありがとう。今まで見た中で一番、あの日の月が綺麗で、あの日から空は濁った泥水のような色をしていて、月なんて沼底に沈んで見えなくて、淋しくて、辛くて、愛おしくて、ねぇ、もう…遠くへ行かないで。」
口から言葉が溢れ出る。今まで言えなかった言葉が、全部。
何故、泣いてしまうのだろうか。
「…栞桜ちゃん。」
あのひとが、口を開く。
「落ち着いて聞いてほしい、僕は廻間だ、廻間研椰。君の言うあのひとの、代わりにはなれない。」
あのひとが、微笑みかける。
「だけどね、栞桜ちゃんさえ良ければ、僕を家族だと、兄だと思ってくれても構わない……ずっと独りで淋しかったんだよね。」
あのひとの面影は開いたドアから吹く夕暮れの澄んだ夏風にふわりと消えた。
「廻間、先輩…申し訳ありません…」
「…いや、それは気にしなくて良いんだけどさ。僕も独りで淋しかったから、その、ね、兄さんって、呼んでほしいな。」
「研椰にぃ…」
涙声のまま、ぼそりと私が呟いたのを、先輩はしっかりと聞き取って、周囲に花が咲くような満面の笑みを見せた。
「これからよろしくね、僕の可愛い妹の、栞桜ちゃん。」
涙を拭い、私を優しく抱きとめた手は優しかった。
次の瞬間、ゴトン、と何かが落ちる音がして、私は慌てて研椰にぃを振りほどき、音のした方向へと目を向けた。