柏木郁男。四七歳。職業、女子高生。
生まれ変わりたい、か?
そう思った事がない。と言えば、それは大ウソになる。
「生まれ変われたら?ソウだな〜。超カオ小さくてー。足とかメチャ細くてー、モデルとかみたいな?」
「って言うか、私、太った。超ショック〜」
満員電車が乾いた音を響かせグラリと車体を揺らした。
女子校生が柏木の足を重たそうなルーズソックスで押し潰し、ムワッと匂う香水と共にその全体重を押し付けてきた。顔を顰めたいのは柏木の方だったが、逆に女子校生に爬虫類を触りたくもないのに触った、みたいな顔をされてしまい、苦笑いを浮かべ俯いたのは柏木の方だった。
「キモー。オヤジに触っちゃったよ〜。今のオヤジの顔見た?超キモいんですけどぉ」
本人は声を落としたつもりでもこの至近距離ではイヤでも耳に入る。さっきのキンキン声よりもマシかな、そう思うことにして柏木は溜息を吐く。
柏木郁男。四七歳。某家電メーカー勤務。課長補佐。家族は妻と今年一七歳になる息子が一人。典型的なサラリーマン。
生まれ変われたら、か。
殺人的な満員電車から吐き出された柏木はホッと息を付いて家路を急ぐ。十歳年下の課長の口からは、柏木さんがいてくれるから私のような若輩者でも何とか課長としてやっていけるのですよ。と出るが、目では、いてもいなくても同じ、とりあえず足は引っ張るんじゃない、と蔑んでいる。
「超カオ小さくてー。足とか超細くて…」
小声でさっきの女子校生の真似をしていると周りのOLが冷たい視線をぶつけてきた。
何もかもやり直したい。
今日で何度目の溜息だろう。とにかく早く家に帰ろう。柏木は小さく微笑んだ。何もかもが失敗で、失敗と言うより面白みのない人生で唯一の成功と言えば、妻である。妻の静子は超カオ小さくてー、足細くてー、美人なのである。自分の人生の収支を、妻で補っているようなモノだ。
一人でニヤつく柏木に、高校生やサラリーマン、買い物帰りのおばさんまでもがチラリと投げた白い視線を、一気に奪うモノが現れた。
「ウソッ。ヤダ。アレ!」
女子校生の声。
「マジかよ」
若いサラリーマンの声。
「飛び降り自殺よ!」
年輩女性の劈くような悲鳴に柏木はようやくざわめく人々の視線を追った。駅前の5階建てビルの屋上に人影が見えた。日はたっぷり暮れているため顔はよく見えないが、フェンスを乗り越え、今にも飛び降りそうな小さな影が見える。長い髪が風に揺れている。細い足が短いスカートからスラリと伸びていた。グラリと陰が傾く。
「キャー」
人混みから女の悲鳴が聞こえる。
柏木は走っていた。
間に合うかどうかは別として、この場合、妥当なのは、屋上に上がり助けるか。警察を呼ぶか。その内どれかなのだが、柏木は、何も考えずに走っていた。
その真下に。
『おい。救急車だ。早く救急車だ!』
どこか遠いところで人が喚いている。
自分は死ぬのだろうか。人生やり直したいなんて言ったから罰が当たったのだろうか?当たったのは女子校生だったけど。
柏木の脳裏に妻が浮かぶ。
あんなに良い嫁さんを貰っておいて生まれ変わりたいなどと思ったのが、間違いだったのだろうか?しかし、保険をかけておいて良かった。いつも煩い保険屋のおばさんに断り切れずに入った保険がこんな所で役に立つとは思わなかった。しかし、こんなケースの場合でも保険はチャンと払われるのだろうか?こんな事ならきちんと約款ぐらい読んでおくのだった。私はいつもどこかで抜けているのだ。でも、今後の妻と息子が不自由しないくらいの保険金は入ってくるはずだ。しかし、来年は息子の誠一も受験だ。国立ならともかく私立を受験したいと言ったら大丈夫だろうか?ましてや一人暮らしをしたいなどと言いだしたら。いや、私は断じて許さんぞ。だが、一人暮らしというのも社会勉強だと思えば許すべきだろうか?そう言えば、誠一と話をしたのはいつだっただろうか?思い出せないほど話していない。同じ屋根の下で暮らしているというのに、挨拶もろくにしない誠一を怒鳴りつけても、…怒鳴りつけると言うほど強く言ったことはないが、帰ってくるのは生返事ばかりだ。目があっても、息子の視線は自然に自分の額へと移る。何も言わなくても、その時だけは息子の言いたいことが分かってしまう。ハゲは遺伝なんだよな。その目が言っている。息子の染めた髪や、ピアスなどを見ると情けなくなる。悪いというのではないが、折角、母さん似で作りは良いのだからそんなに飾り立てる必要ないじゃないかと言っているんだ。今度こそはきちんと話をしよう。
柏木は暫く自分の状況を忘れていた。
アレ?でも、私はもう、死ぬのか?
思い出してしまった。
白い光が遠くから落ちるように降り注いでくる。暖かな光だ。
私は天国に行けるのだろうか?こんな情けない私でも天国は迎えてくれるのだろうか?
光が優しく柏木を包み込む。最後に瞼に映るのは、妻の静子であって欲しい…。柏木は、年を重ねても変わらぬ妻の美しさを想像する。
しかし、光から現れたのは、
「か、課長!」
ゴン!
「痛っ」
慌てて上半身を起こした柏木は、思いっきり目の前にあった課長のドアップと正面衝突した。じんじんと響く額を押さえながら、この痛さにどうやら自分がまだ生きている事を悟った。
「ジュリア〜。良かった。無事で」
生きている実感を噛み締める間もなく、柏木は見知らぬおばさんに、キャバクラの源氏名みたいな名で呼ばれ、泣きながら抱きつかれた。見渡せばそこは病室だった。あの飛び降り自殺者の下敷きになって救急車で運び込まれたという所までは想像できた。しかし、見知らぬ日本人のおばさんにジュリアと叫ばれる覚えはない。しかも、信じられない事に、あの課長が自分の為に涙を浮かべている。
「脳波にも特に異常は見られませんから、すぐに退院もできますが、念のため明日もう一度、精密検査をされることを勧めます。何しろあの高さから落ちたのですから」
と、白衣を着た男、恐らく医者だろうが、難しげな顔で言った。課長はチラリと柏木を見て、医者に小声で訊ねた。
「それで、柏木さんの方は…」
「ここでは、何ですから」
気まずそうに医者は柏木を見る。
「課長?どうかしたんですか?」
恐る恐る柏木は訊ねる。訊ねた瞬間異変に気付いた。声が変だ。ヘリウムガスを飲んだような高い声が自分の声帯から漏れている。課長は難しい顔で医者に向き直る。
「脳波に異常は無かったんですよね」
医者はカルテを見直し、確かに、と頷く。
自分を島耕作と勘違いしている、と部下に評されている課長はツカツカと柏木に近付き、とんでもないことを言ってくれた。
「ジュリア。パパは決してジュリアの誕生日を忘れたわけじゃない。ただ、どうしても外せない会議があったんだ。何も、自殺…」
「パパ!ダメよ。ジュリアを刺激するようなこと言っちゃ」
慌てておばさんが課長の口を塞ぐ。
自殺?
パパ?
ジュリア!
柏木はその時思いだした。課長の娘の名前がジュリアだと言うことを。確か漢字で『樹里亜』と書くはずだ。課長は大まじめに海外でも通じる名を付けたと言っていた。そんな事で国際性が身に付くなら政治家はみんな名を変えていると、心の中で思ったが口には出さなかった。ただ、昔の喫茶店みたいな名ですねと言った。自分のセンスを信じている課長の不興を、十分買ってしまったのだが、柏木は気付かなかった。
「本当だ。自分は柏木郁男だ」
ソプラノの声が心療内科に響いた。
「恐らくお嬢さんは、自分のせいで柏木さんを重体に追いやったことを思い詰めているのだと思います」
「柏木さんはまだ…」
「意識不明です。彼の意識が戻れば樹里亜さんも少しは落ち着くと思いますが」
白いカーテンの向こうで沈黙が訪れた。
柏木は、あれから何度も柏木郁男しか知らないような事実を述べた上で自分が柏木郁男だと言い張ったが、結局連れてこられたのは心療内科だった。
当たり前か…
柏木はデスクの上に置かれている手鏡を覗いた。見知らぬ女の子が溜息を吐いている。
考えられるのは、あの事故だ。ビルから飛び降りた課長の娘を自分の体で受け止めたショックで自分の意識が課長の娘に入り込んだ。普通だったら絶対に信じないよな。もし、自分が第三者なら信じないだろう。妻が好きなテレビドラマのようだ。
家族に会わして欲しいと何度も頼み込んだが、一切、取り合って貰えなかった。柏木は妻の静子の事が気がかりだった。静子はこの病院に意識不明の自分を看病しに来ている筈である。
しかし、樹里亜の母親が四六時中見張っているため、自分で捜す事もできない。自殺を図った娘を一人にしておけない気持ちも分かるが。それにしても、この樹里亜という娘は、父親に誕生日を忘れられたぐらいで自殺など計るだろうか?樹里亜の両親は完全にそう思い込んでいるようだが、今時の女子校生はもっとドライだと思うのは私だけであろうか。
薄い黄緑色のパジャマから酷く細い二本の腕が伸びている。息子しかいない柏木にとって女子校生は未知なる生き物だった。
まさか、本当に生まれ変わってしまうなんて。しかも、女子校生だ。自分はどこかでそんな願望が在ったのだろうか。
柏木は、もう1度手鏡を覗いた。可愛い女の子である。大きな茶色い瞳。クルクルと巻かれた細い薄茶の髪は地毛であろうか。柏木は無意識にパジャマの襟首を指で伸ばし、ジッとパジャマの中を覗こうとしている自分に気付いた。い、いかん。顔を真っ赤にした柏木は慌てて辺りを見渡した。
誰もいなかった。
柏木は、やはり意識不明の重体だという自分の体が気になった。
今しかないと思い、怪しまれないようにドアから出ると、ICUへと向かった。
清潔に保ってある病院内を、様々な患者と擦れ違いながら歩いて行くと、ICUの手前でポツンと座っている妻を見つけた。廊下に沿って並んでいる貧弱なソファーに半分だけお尻が乗っている。妻は虚ろな瞳でぼんやりと、不器用に松葉杖で歩く大男の姿を追っていたが、彼女の瞳には何も映っていなかった。
今すぐにでも、妻を抱きしめたかった。自分は大丈夫、生きている、と言いたかった。しかし、女子校生の柏木郁男が生きていて、どうするというのだろうか?妻に必要なのはあくまでも夫であり、父親であり、サラリーマンの柏木である。ここで妻に事情を説明すれば彼女は信じてくれるだろう。
しかし、それは柏木が意識不明の重体であるよりも彼女を苦しめる事になりはしないだろうか。それどころか、自分の今の姿は夫を意識不明の重体に追いやった樹里亜という娘なのだ。
柏木自身は、自ら彼女の下敷きになってしまった手前、怨みなど持ちようはないが、妻にとってはどうであろうか?
…恐らく妻も樹里亜を恨むなどあり得ないだろう。そう言う女だった。
結婚して下さい。そんな平凡なプロポーズの言葉に嬉しそうに頷いた妻の顔が思い浮かぶ。その後何度もしつこいぐらいに、私なんかで良いのですかと訊いた。静子はその度に答えた。貴方だからいいんです。そして、付け加えた。貴方じゃなきゃダメなんですと。
柏木はギュッと掌を握りしめ踵を返した。
廊下を曲がると松葉杖の大男が右足の巨大なギブスを引きずったまま無謀にも階段を上ろうとしていた。あまりの危なっかしさに柏木は手を差し伸べた。しかし、急に差し出された手に逆に男はビックリしバランスを失った。柏木は力一杯その巨漢を受け止めようとしたが、敢え無く共に床に転がった。
「す、すいません」
押し潰されたまま柏木は謝っていた。
「樹里亜!」
聞き慣れた声に腕を掴まれ引っ張り起こされた。課長でも樹里亜の母親でもない声。
しかし、柏木はこの声を良く知っていた。
「せ、誠一?どうして…」
柏木の一人息子の誠一だった。
まさか、この女子校生が自分の父親であると気付いたのであろうか。人気のない非常階段の踊り場に引っ張り込まれ、淡い期待を膨らませた。が、誠一はキョロキョロと辺りを確認してからフゥッと溜息を吐き、言った。
「参ったよなぁ。まさか、親父が助けた相手が樹里亜だったなんてさ〜。しかも、樹里亜の父親が親父の上司だって?マジで焦った」
焦ったのは柏木である。二人は知り合いだった?馴れ馴れしく肩に手を置いてくる誠一に、柏木は息子とのスキンシップなんて何年ぶりだろうと考えてしまった。
「違う!」
そんな事を考えている場合ではない。誠一は急に叫んだ樹里亜を驚いたように見下ろした。柏木はキッと息子を睨み付けた。
「そう怒るなよ。樹里亜。まさか俺が約束の時間に遅れたから自殺したって訳じゃないよな?アレは事故だったんだろう?俺だって携帯に何度も電話したんだよ。でも、おまえ、どっかに携帯忘れてったろ。全然繋がんなかった。あ、もしかして、ホテルに…」
ホテル?ホテル!ホテルだと〜
「樹里亜?」
カーと頭に血が上り、気が付くと息子を殴りつけていた。平手打ちなんかじゃない。思いっきり下からグーで。不意打ちを食らったからか、それとも元々弱いのか息子はよろけて床に尻餅を付いていた。
今時の高校生の現状は把握しているつもりだった。だが、どこかで自分の息子だけは違うような気がしていた。髪の色が抜けていようが耳に余計な穴が開いていようが。
左頬を押さえ呆然と樹里亜の姿の自分を見上げている誠一に柏木はどうしようもない程の吐き気を覚えた。初めて息子を殴った事への戸惑いもあり、柏木はそこから走り去った。口から言葉は出なかった。胃液だけが滴り落ちる。胃に何も入っていないのか?樹里亜という娘は何なんだ。何にも食べないからこんなに細いんだ。冷たい洋式の便座に頬をすり当て、柏木は混乱した頭を掻き上げた。
「樹里亜〜。階段から落ちた時、頭打ったんじゃない?」
柏木は紺のソックスを膝まで伸ばしながら、柏木にとっては意味不明な用語を発する女子校生達に混じっていた。
学校には数日間の欠席は自殺未遂ではなく、階段から落ちた事になっている。
あの後、精神科に連れて行かれ入院させられそうになり、ようやく柏木は自分を柏木郁男だと言い張る愚かしさを悟ることが出来た。
樹里亜という娘にこれ以上病歴を付けることは出来ない。樹里亜の将来を思うと、とりあえず自分が樹里亜になるしかないと思い始めた。今どこにいるか分からない樹里亜の意識は戻るのだろうか。
もしかして、樹里亜の魂はとっくに天国に行っているのではないだろうか?
「じょ、冗談じゃない」
柏木の悲鳴に隣の友人が顔を覗き込んで来た。放課後、樹里亜の友人達にイヤとは言えず、柏木は気が遠くなる程の長い時間をカラオケボックスで過ごしている。
「樹里亜、ホントに変だよ〜。もしかして、カレシに振られたとか?柏木誠一だっけ?」
ギクリとして振り返った。
「シャレだよ。シャレ。そんな恐い顔しないでよ〜。それよりどうする?ラルクのライブ」
「歩くノラ犬?」
「はぁ〜?ラルク、今週のライブ。チケット、ソールドアウトだって」
歩く根性のない、チベット僧、ドアップ?
何かの暗号だろうか…。
樹里亜はかなり有名なカトリック系お嬢様学校の一年生であった。あの課長はブランド志向の固まりだから、と同僚が言っていたのを何となく柏木は思い出していた。
「今日、樹里亜、一曲も歌ってないよ」
「…みちのく一人旅なら」
小さな声で十八番を言ってみる。
「え?ミッチーの独り言?なにそれ?王子の新曲?」
カラオケから解放され、外の夜気に柏木はホッと息を吐く。
しかし、自分達の制服に絡み付く酔っぱらいのいやらしい視線に気付き、わずかに不快になった。
「ウソ。アレ、八木じゃない?八木杏子」
友人達の指先には、同じ制服を着た女の子が中年男性と腕を組んで歩いている。
「八木がウリやってるって本当だったんだ」
ウリ?もちろん、瓜なんかじゃない。確か、売春…。そうだ、売春だ!
「ちょっと。樹里亜!どこ行くの?待って」
友人の一人がつかんだ腕を振りほどいていた。
「な、な、何をやってるんだ!」
そう言うと、柏木は自分と殆ど同い年の男を、両手で突き飛ばしていた。
隣で制服姿の八木杏子が呆気に取られている。
「あ、あ、あんたみたいな男がいるから世の中のオヤジは軽く見られるんだ!」
ざわめく周りの視線をきょろきょろと見回した中年男は慌てて人混みに消えていった。そして、怒りは、八木杏子に向けられた。
「親から貰った体を粗末にするんじゃない」
今まで他人に対して、怒鳴ったことなど、一度もない。常にそんな状況を作らないようにしてきたからだ。だが、我慢の限界だった。
しかし、呆気に取られるクラスメートを改めて見直し柏木はとんでも無いことをしたことに気付いた。今は人のお嬢さんの体なのだ。
しかし、八木杏子は柏木をじっと見つめて、肩を竦めて言った。
「相変わらずだね。そういうことは好きな人としかしちゃいけないんでしょう。もう、分かったよ。ホントに樹里亜は真面目なんだから」
決して不愉快そうではない八木杏子がそう言うと、周りの友人達も頷いた。
「やっぱり、樹里亜だ。変わってない。真面目っていうか。一途っていうか。思い詰めるとホントに何するか分かんないよね」
『樹里亜?俺だけど』
翌日、柏木は携帯から聞こえる息子誠一の声に足を止めた。柏木は樹里亜の姿では誠一とは二度と会わないと決めていた。だから、電話を切ろうと思ったが、もう少しだけ息子の声を聞きたい想いが柏木の指を鈍らせた。
『樹里亜。話がしたいんだ。家に来いよ。今、母さん、病院に行っていて誰もいないし。樹里亜、逢いたいんだ…』
親に向かって何を言っているんだ。このバカ息子は!あ〜恥ずかしい。が、足はしっかり柏木家に向かっている。息子の切なげな声に偽物の彼女だと思ってはいても願いを叶えてやりたいと思ったのかも知れない。いや、…家にただ帰りたいだけかも知れない。
「樹里亜!」
嬉しそうな誠一の笑顔に我が家に通されたた。柏木は複雑な想いと共に、息子にこんな素直な笑顔を作らせる樹里亜に軽い嫉妬を覚えた。案内されたのはここ何年も入っていない息子の部屋だった。
「まだ、怒ってるのか?あの日、約束を破ったこと…」
ペットボトルのオレンジジュースを差しだし、誠一はバツが悪そうに頭を掻いている。困ったことがあると頭を掻く癖は直っていないようだ。
「あの日さぁ、ナオキの奴、家出たんだ。アイツん家、親父がさ、スッゲー酒乱で、アイツしょっちゅう殴られててさ。あの日、とうとう家出たんだ。今は、俺の先輩の家に世話になってるけど、このままじゃどうしようもねぇしな。ホントに俺達って何もできないよな。ホントに情けねぇよ」
「誠一…」
情けない顔を見せる息子に柏木は言葉を詰まらせた。誠一はしばらく考え込むと、柏木に向き直って真剣な表情で聞いた。
「でさ、本当のところ、あの約束の日、何かあったのか?まさか、オレが約束破ったからって、自殺なんかしないだろう?」
誠一はフッと息を吐き、今度は表情を緩め優しく言った。
「親父の事なら気にするなよ。大丈夫。死なないよ。…もし、死んだとしても俺も、お袋も、樹里亜を恨んだりなんかしないから…、俺の親父ってさ。樹里亜の親父と違って本当にしょぼくれた親父って感じなんだけど、人を恨むような奴じゃない。何て言って説明したら、理解して貰えるか分かんねぇーけど」
誠一は指で髪を掻き上げると、スッと目を細め独り言のようにボソボソと話し始めた。
「昔、…俺が小2ぐらいの頃かな。親父とバスに乗ってたんだ。俺達は座ってて、ちょっと年取ったおばさんが乗ってきた。親父が慌てて立つんだ。案の定、親父はおばさんに席譲ろうとしたよ。どうなったと思う?」
おばさんに、私はそんな年じゃありませんって怒鳴られた。柏木はあの時の圧化粧のおばさんを思いだし苦笑いを噛み殺した。
「親父の奴、自分が悪い事したように、すいませんって何度も頭下げてた」
それから、迷子になっている女の子を交番に連れていこうとして逆に、警察を呼ばれた話など、ありとあらゆる父親のバカ話をした。彼女を安心させる為というより、ただ想い出に浸っているようだ。懐かしそうに優しく笑う誠一に、柏木は見とれてしまった。
そして、誠一は隅にあった段ボール箱を探り出した。取りだしたのは、キャッチャーミットだった。柏木は次に息子が話そうとしていることが分かり顔が熱くなった。昔、自分がグローブと間違えて買ってきたのだ。スポーツに縁のない柏木であったが、絵に描いたような理想があった。息子とのキャッチボールだ。
「俺は全然覚えてないけど、お袋がこれ見る度に俺に話すんだよ。運動音痴のお父さんがどうしてもキャッチボールしたかったんだって。何か親父らしすぎて可笑しくて。いつも一生懸命なんだけど、どっか抜けてて…。人助けて死んだって聞いてもお袋も俺も、悲しいけどさ。やっぱり、あぁ、親父らしいな。って思うよ。しかも、飛び降りてくる人間を受け止めようとするヤツなんか俺の親父ぐらいだよ」
グッとキャッチャーミットを握りしめた息子を、柏木は無意識に抱きしめていた。幼い頃は躊躇なく抱きしめていたその体を。
随分逞しくなったなぁ。
しみじみと感慨に耽る柏木の背に誠一の腕が回る。
あぁ、息子は母さんに似てなんて綺麗な顔をしているん、だ…!
「ま、待て。早まるな!私はお前の父…」
声にならなかった。あろう事か誠一の唇に塞がれてしまったのだ。力一杯両手で引き離そうとするがこの細い腕ではどうしようもなく、そのまま絨毯に組み伏せられてしまった。
その時、またもや吐き気が押し寄せてきた。
「…気持ち悪い」
その言葉に、いささか傷ついたような顔で誠一は動きを止めた。
気まずい沈黙から柏木を救ったのが、携帯電話のベルだった。柏木は誠一の腕から逃れるように携帯に出た。
『もしもし?樹里亜?アタシ。アタシ。あれから連絡ないから心配したんだよ』
あれから?もちろん、柏木には着信の名前にも、声も覚えはない。
高校の友人ではないようだ。
『調べた?シロ?クロ?ホントに思い詰めた顔してたからさー。自殺でもしたんじゃないっかってかなり焦ったよ。薬局にあったでしょ?妊娠検査薬─』
ニンシン?ニンシン!ニンシンだと〜
全身の血管がピクピクと痙攣を起こしたように引きつり冷たい汗が噴き出す。
「樹里亜?どうした…」
「妊娠だと?貴様というヤツは!もう、親でもなければ、子でもない!」
バキッ
誠一は、拳で頬を殴られ無惨に床に転がった。
課長は、まだ殴り足りないらしく転がった誠一に跨り胸ぐらを掴む。
あの後、誠一は柏木が放った意味不明な言葉は置いといて。妊娠したことは悟り、慌てて病院に柏木を連れてきたのだ。そして、間の悪いことに、柏木本体のお見舞いに来ていた課長夫婦と遭遇したのである。
バキッ バコッ バキッ
鈍い音が立て続けに響き、柏木は目を背けた。殴られても当然な事をしでかした息子であるが、さすがに見ていられなかった。誠一はここに来るまでの間、ずっと樹里亜の小さな手を握りしめ、何度も、ゴメンな。ゴメンな。と繰り返していた。誠一の掌は自分が握っている樹里亜の掌以上に汗をかいていて、震えていた。
母親譲りの綺麗なはずの顔が見事に腫れ上がっている。課長は、それでも拳を振り上げる。柏木は振り上げられた腕を無我夢中で掴んでいた。
「離せ。樹里亜。こんな男を庇うのか?自殺もそれが原因じゃないのか?」
課長に突き飛ばされ樹里亜は壁に背を強く打ちつけた。
「樹里亜!」
誠一の悲痛な声を聞きながら、柏木は情けなくなった。本来ならばここで誠一と土下座でもして謝るべきなのにそれすらもできない。柏木は瞼が熱くなった。
「…それとも、この自殺騒ぎもお前等が仕組んだのか?」
何言っているんだこの課長は!そんな理由で5階から飛び降りられるか!
「全く、道理で樹里亜が柏木の事を良く知っていると思ったよ!樹里亜、目を覚ますんだ。お前は自分の将来を台無しにする気か?お前は騙されているんだ。あの役立たずの柏木がこんな汚い手を使うとは!父親が父親なら息子も息子だ。社会のクズだ」
カーと頭に血が上った。自分のことは何を言われても仕方ないが、息子は違う。柏木はグッと拳を握りしめた。
「ふざけるな!」
誠一の声だった。
柏木は拳を握り締めたまま、唖然とした。
「俺は確かに社会のゴミかもしんねぇけど。親父は違う。一緒にするな。親父はそんなつもりで樹里亜を助けようとしたんじゃない」
熱い瞼がジンと痺れた。
「せいいち〜」
重たい瞼から熱い滴が落ちる頃には、しっかりと息子を抱きしめていた。
柏木は息子に言いたかった。息子は過大評価をしている。このバカ親父は息子が思う程イイ奴でもないし、息子がそんな風に自分を見ている事すら気付かない情けない親父だ。
「何やってるんですか!」
誠一の腫れ上がった顔にビックリした声で言ったのは、樹里亜の心療内科の担当医だった。この時間、外来は既に終了しており、この先生に妊娠の検査をして貰えるように頼み込んだのだ。
先生は溜息を吐いてから言った。
「樹里亜さんは妊娠などしていませんでしたよ。吐き気や生理不順があるようですが、ストレスからのモノと思われます」
「よかった〜」
と、心底ホッとした声で言ったのは誠一だった。課長は未だに呆然と立っていた。妊娠していなくても娘に手を出されていたことには変わりないわけである。
「俺さ、マジで結婚まで考えちゃったよ。でも、樹里亜の夢壊すコトしたくなかったし。樹里亜。お父さんにチャンと言えよ。本当はお嬢様学校なんか行きたくなかったって」
誠一は課長を真正面から見た。
「樹里亜の成績なら本当は1ランクも2ランクも上の学校行けたんですよね。高校を勝手に決めた上に、樹里亜が検察官になりたいって言ったら、女のくせにって鼻で笑い飛ばしたそうですね」
何も言えない課長に腫れ上がった顔でモノを言う誠一が何だか誇らしかった。
そして、誠一はゆっくりと柏木の肩を抱いた。
「樹里亜。どうして、前みたいに『誠ちゃん』って呼んでくれないんだ?誠一って呼ばれると、親父に呼ばれてるみたいで気色悪ィーよ」
「バーカ」
柏木はそう言って息子をギュッと抱きしめた。
その時、ガラリとドアが開いた。
「柏木君。お父さんの意識が戻りました」
ドアから慌てて入ってきたのは、看護婦だった。
柏木は誠一より早く走り出していた。
これで、戻れる!
最愛の妻と、息子の元に。そして、自分自身に。
もう、二度と人生をやり直したいなどと思わないだろう。
勢い良くドアを開くと、妻が一人、茫然としていた。
そして、ベッドに上半身を起こし、不安を顔中に張り付けている『柏木』がいた。
そして、『柏木』の顔が、樹里亜の姿をした柏木を見て驚き、そして、後から来た誠一を見つけ安堵したように呼んだ。
「…誠ちゃん」
、と。
柏木郁男。四七歳。未だ、女子校生。
《おわり》。