2 2年前‐距離感
あの朝から毎日、詩音は九条の個人練習を見に来ていた。だが、詩音はまだ接しにくさを感じていた。
「……矢取り、行って来て」
詩音は言われたまま、矢を取りに安土へ向かう。九条はこのところ不調が続き、焦りを覚えている様子だった。地区予選を目前に控え、ここではベスト8に残らなければ先には進めない。九条の不調というのは、他にとっては不調といえるようなものではないが、普段の彼からするとそうなってしまうのだろう。
「先輩、あの……」詩音は勇気を出して声をかけてみた。
「……なに」
「先輩なら、大丈夫ですよ」詩音は無責任なことを言ったかも、と内心思った。だが、それでも励ましになればと思って発せられた言葉だ。「だから、あまり追い込みすぎずに、気楽に弓、引いてみたらいいんじゃないですか?」
射場の壁にもたれかかったまま、九条は床を見つめていた。やはり詩音と目を合わせようとはしない。
「……自分が焦っちゃだめなことぐらい、俺が一番分かってんだよ」
静かに言った。詩音は九条を見つめたまま、彼の矢を握り締めた。なぜか詩音は、少しだけ彼に近づきたいと思った。足は無意識に靴を脱ぎ、射場の床に足を着く。そしてゆっくり、九条に近づいた。
九条は詩音が近づくのに気づき、ふと顔を上げた。その瞬間、二人の視線が交差した。
「この1ヶ月、ずっと朝練を頑張る先輩を見てきました。頑張りすぎると、ひとりで抱え込む姿も見ました。先輩がつらい表情をすると、私もどうしたらいいのかわかんなくて、つらいんです」
詩音は九条の前に座り、いままで思っていたことを初めて本人に打ち明けた。すると、返事は呆気なかった。
「俺が悩もうが、松本には関係ない。お前が悩んでつらい思いをする必要もない。これを解決できるのは、俺以外に誰もいないんだ」
「違うんです、私、そういうことが言いたいわけじゃないんです。先輩、左腕払って痛いですよね? その癖直さなきゃ、大会までにもっとひどくなっちゃうんじゃないですか……?」
「痛えよ。だからいま必死に直してる。でも直らねえんだよ。お前まだ入ったばかりで、弓のことは殆ど知らないと思うけど、一つ直すのに、何時間もかかることがあんだよ。分かったふりすんなよ。なにが分かるんだよ……」
あまりの語気の強さと感情に、詩音は圧倒された。たった一つ、左腕を弦で払うことが原因で、うまくいかない――そのためだけに、これほどまで自分を追い込んでいる九条に、また少し、見習うべき点を見出した。そして、彼女は逆の発想をして、稽古をつけてもらうことにした。
「ゴム弓の稽古か……。いいよ。俺も、少し考える時間作るいい機会になるだろうし。道具は? 胸当てとかは予備があの棚の中にあるけど、ゴム弓だったら俺の貸す」
詩音は、九条のゴム弓を首に掛けた。そして、まずは徒手練習を始めた。徒手練習とは、道具を持たずに動作を行う練習のことだ。まだ始めて1ヶ月だ。上手にできるわけでもない。だが彼女は、先輩たちからは一目置かれていると、顧問から聞いたことがあった。
「お前、上手いな」
背後から思わぬ言葉が聞こえてきた。自分では、上手いとは思っていなかったが、九条にほめられたことで、少し自身がついた。
「俺の射と、あまり変わらない」
ぽつりと九条の口からこぼれた言葉だった。そこで詩音は、去年から九条に憧れて、家で見よう見真似で練習していたことを明かした。
「実は私、去年先輩がインターハイで優勝したっていうニュースを見たときから、憧れていました。あんな選手になりたくて、去年の夏から先輩の動画探して、この徒手練習ばかりやってたんです」
打起しの仕方から、大三の開き方まで、ほぼ完璧にコピーされているそれを見た九条は、最もキロ数の軽い弓を張り、後輩にカケをはめさせた。一通りは教わっていたので、難なくできた。
「弓、引いてみろよ」
「えっ、私まだ弓は持ったことないです」
「いいから。俺が見てみたいだけだ。早く」
取掛けの仕方を教え、素引きをさせた。九条は腕を組んで、後輩の射を見つめた。それはまるで、自分の2年前を見ているような気分がした。
始めて1ヶ月とは思えない、美しい射に見入っていると、詩音は引分けまでしていた。しかし、それも綺麗だった。無駄な力は入っておらず、気持ちよさそうに引いている。そればかりではなく、ちゃんと会があることにさらに驚いた。
次の瞬間、一瞬右手が緩んだのが分かった。
「離すなっ」
寸でのところで離れを阻止した。そのまま離すと、弦が切れたり、怪我をすることがある。だから素引きで離れをするのはご法度だ。九条は安堵した。
「……最後までやってみろ」
体配を最後まできっちり行うと、詩音は振り返り、講評を求めた。
徒手では出来ていたことも、やはり弓を持つと少し劣る。それでも、やはり彼女の射は美しかった。
「俺の2年前とそっくりだ。1年のころは、俺もこんな感じだった。」
九条は自分の弓を持ち、突然素引きを始めた。「わかった」とつぶやくと、矢を一本持って、的前に入った。そして、離れにすべてを委ねる。カシャンと切れのある、いい弦音がした。その直後、的に矢が的中する音が響いた。
「よ……よしっ」
射場には的中の音の余韻と、詩音の声の余韻が残った。
「腕、大丈夫でしたか?」
「ああ、払わなかった。松本、ありがとな」
口元にかすかに微笑みを浮かべ、残りの矢を持って再び練習を始めた。
詩音はその微笑みを見ると、また少し、九条に近づけたような気がして嬉しかった。初めて見たその笑顔は、満足感に溢れていた気がした。