お嬢様の庶民生活体験
「ねえ、なんなのここ。食料庫?」
真っ昼間のスーパーマーケット。に、不釣り合いなひらひらのワンピースを着た女の子。不満そうな顔で、何やらキラキラした飾りのついた小さなポーチを握りしめ、もう片方の手でくるくると巻かれた茶色の髪をひっきりなしに触っていた。
今、俺の隣には、一般市民の買い物の場にはとても似つかわしくない『お嬢様』がいらっしゃる。
『お嬢様』が食料庫と呼んだこの店は、安さが売りのローカルスーパーだ。チラシを見た奥様方や、近所の住民達がマイバッグ片手に今夜の献立の材料や、明日の食事の材料を買い求めにやってくる。
「俺達『庶民』はここで毎日買い物するんだよ」
「この店を丸ごと買い取るの?」
頭が痛くなるような発言についこめかみを押さえたくなる。Tシャツ、パーカー、ジーンズにスニーカー。俺の頭から爪先まで身に付けているもの全ての合計金額よりも高いのであろうピンクの石の付いたイヤリングを揺らしながら、『お嬢様』はやや不安そうにきょろきょろと周りを見回している。
それと同じ位、俺達にも視線はぶつけられていた。どうして俺の隣にこんな庶民とは縁の無さそうな『お嬢様』がいらっしゃるのかと言えば、三日前に話は遡る。
アルバイト募集中。そんなどこにでもある張り紙を見つけたのは、近所でも有名な豪邸の前を通りかかった時のことだった。
大学に通いながら続けていたアルバイトの勤務先が潰れてしまい、新たなバイト先を探していた俺は、いつもその類の張り紙を見つければそうするように、勤務条件を何となく流し読みした。
買い物、料理など――なるほど、家政婦か何かのバイトらしい。しかしこんな金持ちの家なら、こんなところで求人を出さなくてもよさそうなものなのに。まあ何にせよ、学生が勉強の傍らやるようなアルバイトではないなと俺はその張り紙を視界から外そうとした。したのだが。
時給、三万円。赤の文字で書かれたその数字に、俺の視線は止まってしまった。なんだこの数字は、日給の間違いじゃないのか。日給でも普通の仕事じゃこんなに貰えないぞ。ちなみに俺は、家事なら出来る。一人暮らし三年目だから。もしかしたら、いや万が一にも採用されたら、これはかなり美味しいアルバイトなんじゃないか。俺は見た目だけは真面目そうだと褒められるんだ。ゆとりある生活なんてほど遠い生活を送っている俺は、ついその非日常な金額に釣られ、インターホンを押してしまった――
「必要なものだけを、必要な時に買いに来るんだよ」
半分に切られたキャベツを四角い買い物かごに放り込みながら、俺は思わず吐いてしまいそうになった溜め息を飲み込んだ。
「このお店のもの全部買い取っちゃえばいいのに、いちいち買いに来るなんて非効率的ね」
さっきから『お嬢様』は俺の隣にぴったりと張り付き、俺が立ち止まれば一緒に止まり、俺が手に取るものを物珍しそうに眺めては、俺の持つかごが重さを増して行くのを気にも留めずにただ並んで歩いている。
てっきり家政婦か何かの求人だと思って応募したアルバイトの内容は、『お嬢様の庶民体験』というこれまた頭がくらくらするようなものだった。金持ちの考えることは庶民には全く理解できない。とりあえず面接と言うことで豪邸に通された俺を舐めるように観察した男は、蝶よ花よと温室で育てた娘に広い世界を知って欲しいと、庶民の暮らしぶりを体験させてやってほしいのだと話した。
もちろん、どこの馬の骨とも知れない男にその大事な娘をただ任せるわけでは勿論無かった。今も俺の数メートル後ろには漫画から飛び出して来たボディーガード宜しく黒いスーツにサングラスの男どもが、俺が『お嬢様』に不埒な真似をしないかを見張っている。
ボディーガードが張り付いている生活のどこが『庶民生活体験』なのかはわからない、いやわかりたくもないが、とりあえず俺は今日この『お嬢様』とこのスーパーで買い物をして、料理を作り、それを一緒に食べれば十数万円の報酬が手に入るのだ。
目の前には俺の身長程の高さまで積まれた卵がある。先程この『お嬢様』はこれを全部買い取ってしまえばと言ったが、こんなにたくさんの卵を買ってしまってどうするつもりなんだ。あの豪邸に一体何人が暮らしているのかは知ったことではないが、どうせ腐らせて捨てるだけだろう。俺に言わせてみれば、その方がよっぽど非効率的で、もったいない。
「ねえ、これでいくらくらい? 五万円あれば足りる?」
一応、お会計は『お嬢様』がもってくれるらしい。レジ待ちの列に並んでいると、きらびやかなポーチからこれまた高そうな財布を取り出して、不安そうにそう言った。
「五万円どころか、五千円でも充分お釣りが来るよ」
「そんなに安くてこのお店大丈夫なの?」
ああ、きっと『お嬢様』は薄利多売なんて言葉は知らないのだろう。思った通り、二千円程で済んだお会計を終えて、当然マイバッグなんて庶民の持ち物を『お嬢様』が持っているはずもなく半透明のレジ袋に食品を詰めて行く。
「重たそうね」
俺の両手にぶら下げられたそれを見つめるのはいいが、当然自分も持つなんて言葉は出てこない。もちろん期待もしていなかったし、生活の場が違うとは言え女の子なのだから持たせるつもりもなかったが。
徒歩十分程のアパートに到着すると、俺は鍵を取り出すために両手の袋を一旦地面に置こうとした。しかし袋は地面に着く前に別の力によって持ち上げられてしまう。
「すごく重たいわね、これ」
箸より重いものは持たないとでも言いそうな『お嬢様』が、その細い腕で丸々としたレジ袋を持っている。意外なその行動に俺は少々驚きつつも、そのまま持たせていると黒いスーツの男どもがすっ飛んで来るような気がして慌てて鍵を取り出した。
流石に部屋の中まで監視はついては来なかったが、きっとドアの向こうにはしっかりと待機しているのだろう。勿論部屋の中には監視カメラが設置されていて、死角がないようにモニタリングされている。らしい。
さて、ここからが一番の問題だ。『お嬢様』に包丁を持たせないといけない。どうせ自分で作ることなんてないんだろうし、料理の腕は期待していないが果たして刃物を扱えるのか。
心配は杞憂に終わった。意外にもお嬢様は器用だったのだ。俺の指示した通りに野菜の皮を剥き、等間隔に切り分けて行く。多少覚束ない手つきではあるが、センスは悪くないらしい。
冷蔵庫に食材を取りに行ったその僅かな間に、背後で『お嬢様』が何やら調味料の瓶を色々と手に取っているような気配を背中から感じていた。きっと調味料も全てが珍しく見えるに違いない。勝手に料理を進めているのかもしれないが、レシピは一応キッチンに貼り出してあるし料理の出来ないタイプではなさそうだからきっと大丈夫だろう。
見た目も良い、育ちも良い。性格は少々庶民とは隔たりがあるものの、料理も出来るのならきっといいお嫁さんになるだろう。もちろん、どこかの金持ちの男の、だ。
冷蔵庫から取り出した食材を手にコンロの方へ振り返ると、案の定いくつかの行程が『お嬢様』の手によって進められていた。
ちなみに今日の献立はシチューと、鮭のホイル焼きだ。市販のルウが『お嬢様』の口に合うかなど知ったことではない。一から十まで手間隙かけて一食分の食事を作る程、庶民は暇ではないのだ。いつもならシチューかホイル焼きどちらかしか食卓に並ばない所を二品も並べているのだから、それで妥協としてほしい。
固形のルウと牛乳で煮込まれた白いシチューからはいい匂いが漂って来た。もちろんこの匂いも市販のルウの香りなのだが、庶民にはこれが『家庭のシチューの匂い』なのだ。フライパンの蓋を開けてみると、二つ並んだアルミホイルの固まりからは湯気が上がっている。少し隙間を開けて様子を見てみれば、しっかり火も通って鮭の隣に並べられたきのこ達もしんなりとしている。
どこからどう見ても『美味しそう』だ。『お嬢様』は料理が出来ないというのは庶民のイメージによる思い込みだったらしい。俺は食器棚から白い皿を取り出して、熱々に熱せられたホイルを慎重に移す。隣では『お嬢様』がスープ皿にシチューを注いでいた。
シチューにはパンという家庭もあるのかもしれないが、俺の家では必ずどんなおかずだろうと白飯だった。だからここは『お嬢様』にも従ってもらおう。このアルバイトに採用された時に渡された、長々と注意事項が羅列された紙にもシチューには必ずパンを出さなければならないなんて書いていなかったはずだ。
「床に座って食べるの?」
背の低いテーブルに料理を並べていると、エプロンを外した『お嬢様』はその様子をとても珍しい物を見る目で眺めていた。
「立って食べたいならどうぞ」
ワンルームの狭いこの部屋に、ダイニングテーブルなどと言うものを置くスペースなどありはしない。当然この部屋自体、物置だの何だの言われる覚悟もしていたが、流石にその部屋で毎日暮らす主を目の前にそんな失礼なことを口にしないだけの分別はあったらしい。『お嬢様』は黙って部屋に上がって来た。
箸とスプーンだけは一応気を使って新品を用意して、俺はぺたりとマットの上に座り込んだ『お嬢様』の向かいに座った。
「いただきます」
どちらからともなくそう呟いて、俺はホイル焼きの鮭に箸をつけた。いい焼き具合。一口分にほぐして口に運べば、鮭の上に塗った醤油マヨがちょうどよい味わいを――
「だ、大丈夫?」
醸し出すはずだった。急に咳き込んだ俺に、『お嬢様』はおろおろと手を彷徨わせてから俺のコップを手に取ると差し出す。俺はそれを一息に飲み干すと、まだ口の中に残る不快感に二口目に進む勇気を根こそぎ奪われてしまった。
何だろう。どうして醤油とマヨネーズを塗っただけの生鮭が、こんなに辛いのだろう。俺は頭をよぎる嫌な予感と戦いながら、恐る恐るシチュー……だと思うもの、にスプーンを突っ込み口に運んだ。
「何故だ、なぜシチューが甘いんだ……」
シチューの匂いのする白い何か、は咀嚼するとなぜかざりざりと砂でも入っているような不快な感触がする。そもそも咀嚼する元気を失うほどに、甘い。
一体何を入れたのか問いただそうと顔を上げれば、不思議なことに気が付いた。『お嬢様』は、普通に食事をしている。
皿の中身は半分程に減っている。こんなものを食べさせたと知れたら俺は黒スーツの男どもに殺される。
「む、無理して食べなくていいよ……」
「え? どうして?」
また一口、シチューを口に運ぶ。『お嬢様』の表情は至って普通だ。まずいものを無理して食べているようには見えない。
もしかして、金持ちの家と一般家庭では味覚も違うのだろうか。俺の頭が混乱し始めたのを他所に、『お嬢様』は手の止まった俺を不思議そうに見て言う。
「料理、食べないの?」
「え、いや――」
俺の感覚が世間一般とずれていないのならば、これは『料理』とは呼べない。『残念な何か』だ。栄養は取れるかもしれないが、食事は苦しみながら摂るものではない。見た目は美味しそうなことが、妙に腹立たしい。
結局、俺が食べたのは白飯と、かろうじて鮭の下に隠れ激辛のソースを浴びずに生き延びたしめじだけだった。ほとんど手をつけていないと言っても過言ではない俺をずっと不思議そうに見つめながら『お嬢様』は食事を終え、皿を片付けると案の定ドアの前で待機していた黒いスーツの男どもと一緒に、俺とは違う世界に帰って行った。
非常に気疲れをした一日を終え、俺は冷蔵庫の前に佇んでいた。
あんな食事では食べた内に入らない。腹は全く満たされていないし、何故か『お嬢様』は平気で平らげていたが、味覚音痴というやつなのだろうか。ともかく、夕飯のやり直しをすべく俺は冷蔵庫の中を物色し始めた。
「……あれ?」
冷蔵庫の扉のポケットの部分には、調味料を入れるスペースがある。いつもはそこに入っているはずのチューブ状の調味料が、何故か冷蔵庫の真ん中に鎮座している。手に取って見れば、パッケージには『からし』と書いてあった。しかし俺の記憶が正しければ、このからしは昨日開封したばかりで中身はほとんど減っていなかったはずだ。
しかしどうだろう。このからし。ぎゅっと握って絞り出されたかのように、中身がほとんど無くなっている。まさかと思いコンロの隣に置いてある調味料をチェックすると、砂糖の入っていた瓶が空になっていた。
ようやく合点が言った俺は、いったい何を考えて『お嬢様』は鮭のホイル焼きに親の敵のようにからしを塗り込み、シチューに砂糖を大量に投入したのだろうかと考えを廻らせてみた。
俺への嫌がらせ? その割には、楽しそうに料理をしていたように見える。何より、それでは自分も同じものを食べるのだから自分も被害を被る。
金持ちの家では、鮭は辛くてシチューは甘いのかもしれない。そんなわけはないのだろうとはわかっているが、まあ、考えるだけ無駄なのだろう。解り合えない存在なのだ。俺と彼女は。
将来彼女と結婚する男に多大なる同情を寄せて、俺は水を張ったやかんを火にかけ、カップラーメンの蓋を捲った。