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短文倉庫  作者: なち
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飛んでいく


 乾いた銃声が、俺の耳を劈いた。



 フナムとエナム。

 かつて時の王が二人の息子に与えた街は、互いに領土を拡大し、時の王が没する頃には国と呼んでよい規模になっていた。

 隣り合ったそれが兄の名を取ってフナム、弟の名を取ってエナムとして独立してから百年。

 それはそのまま、互いの領土を奪い合う戦争の歴史となった。

 奪われては奪い返す、埒の無い歴史――と一言では語り切れない確執と事情がある、というような事は、二つの国に生きる民にとってはどうでも良い事だ。

 自然の恩恵により、食糧難、財政難に陥る事が無かったのは奇跡だったが、互いに疲弊しているのは明らかだった。領土は奪い返す事が出来ても、失った命は還らない。戦争に駆り出された多くの民が、その実りの無い戦の最中に命を落としていった。

 そうして最早何度目、と数えるのも馬鹿馬鹿しい衝突の折、この戦を最後にフナムとエナムの間に協定を結ぶ、という上層部の決定が下っ端達の間でも噂されるようになっていた頃。


 そこがまだ紛れもない戦場であったとしても、浮き足立つな、というのは無理な話である。


 侵略された国境の街、サラヤの奪回に三ヶ月、そこから半年――つまり八ヶ月もの間、俺は故郷を離れていた事になる。

 見上げる空の青さはどこも変わりが無いというのに、少し視線を下げるだけで記憶と欠片も一致しない風景。

 長閑さの無い殺伐とした空気、血生臭い風、右を向いても左を向いても心安らかになれる要素なんて無いのだ。朝目覚める度に硬い寝袋の感触にうんざりする。軋んだ身体を解しながら、毎日故郷に思いを馳せた。

 ふかふかの、太陽の匂いのする布団。目覚めれば鼻を掠めるのは香ばしいパンの薫り。寝ぼけた顔を冷水で洗ってリビングへ入れば、駆け寄って来るのは歩く事を覚えたばかりの長男だ。よたつきながらもしっかりとした足取りで、俺の脚に激突して尻餅をつく。それから両手を広げて抱っこをせがむのだ。その息子を抱き上げた後、前からやってきた妻の額にキスを落とすと、間に挟まれた息子がくすぐったそうに笑みを漏らす。身重の妻の身体を気遣いながら、3人で朝食を取る穏やかな毎日――出兵の前の日常へは思い返す度すぐに飛んでいける。

 けれど八ヶ月の間に妻は娘を出産し、息子は言葉を喋るようになったという。

 先日届いた手紙と同封されていた写真には、妻に抱かれる娘のあどけない寝顔と、その娘に頬を摺り寄せる記憶より成長した息子の姿が写っていた。


 郷愁にかられるな、というのは無理な話で。

 その上終戦間近等という話を聞いてしまえば、仕方が無いだろう。


 戦の最中、意識を疎かにした自分は、確かに愚かだった。

 それでも。

 ――衝撃に傾いだ体を大地に突いた長銃で何とか支えたものの、視界はゆらゆらと安定しなかった。

 ごぽり、と奇妙な音が頭の中に響いて、薄く開いた唇を何かが伝っていったのが分かった。息苦しさに空気を吸い込もうとして、何故か中の物が飛び出る。思わず右手でそれを受け止めれば、掌が真っ赤に染まっていた。

 膝が笑い、とても立っていられる状態になかった。

 横倒れた視界に、同じように斃れていく仲間の姿が映る。

 すぐ近くで行われた銃撃を、何処か遠い事のように見ていた。

 背後に背負った崖の上からの急襲は予想外の事で、自軍がうろたえているのだという事は何となく分かった。

 そこを駆け下りてくる馬軍に戦場はすぐに土煙に覆われた。所々に鮮血が舞う。

 けたたましい筈の銃撃音は、既に俺の耳には届かなかった。

 撃たれた腹は炎の塊を飲み込んだかのように熱かったのに、手足から急速に温もりが奪われていくように感じた。


 ふいに、朧な視界に見慣れた姿が映った。


 はいはいをした息子が、どたどたと床を鳴らして近付いてくる。涎に塗れた顔に笑みを浮かべて、言葉にならない声を上げている。

 恐らく寝転がっていたのだろう俺の視界は、下から上を見上げるようなアングルで、慣れた部屋の天井を見ていた。その上から妻の顔が覗き、妻が抱えた息子が腹の上に圧し掛かってきた。汚れた掌を容赦なく俺の顔に叩きつけて来る。「痛い」と抗議すれば「こんな所で寝ているアナタが悪いのよ」と、妻が意地悪く言うのだ。

 娘を身ごもった時、息子と娘用に子供部屋を新調して。壁の色をクリーム色に塗り替えたのは、戦に出る数日前の事。結局半分しか作業が進まず、帰ったら必ずするからと約束した。

 生まれ育った街を発つ時、長男はまだ何も分かっていないだろうに、がむしゃらに泣いていた。後ろ髪を引かれる思いで、耳を塞いで列車に乗り込んだ。

 遠くなる妻と息子の寂しそうな泣き顔、緑に消えていく懐かしい故郷。

 「すぐに帰るから」そう約束して八ヶ月。


 俺の消えいく意識が、八ヶ月前、戦場に至るまでの道程を逆走していく。

 煙を吐き出す列車が山間を抜け、懐かしい故郷へ還っていく。


 そうだ。

 帰ると約束したのだ。

 まだ、娘をこの腕に抱いていない。息子にパパと呼んでもらう野望は果たしていない。妻の柔らかい身体を抱きしめて、長い夜を眠る。

 まだ。

 身体を離れた意識だけが、故郷へと。


 飛んでいく。


 飛んでいく。






 ――今、帰るから――





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