ふたりぼっち
そろそろ梅雨が明ける。梅雨が明ければ、夏が来る。そう思うと、うんざりした。夏は嫌いだ。年々暑くなっているような気がする。それに、肌が焼けてしまう。雅美さんは、女たるもの肌は白く美しく保たねば、と断言していた。それは私の格言でもある。私は雅美さんの、“女たるものシリーズ”を頭の中で編集し、そしてその言葉一つ一つを実行している。女たるもの、常に華奢であらねばならない、とか。女たるもの、甘いものなど口にしてはならない、とか。
テストの順位は学年二百五十人中ニ位だった。やっぱり勉強不足だと一位奪還は無理だな。がり勉野郎の兵頭に負けてしまう。僅差まで迫ったようだったけれども、結局逃げられてしまった。天才と秀才の位の違いを、そろそろ知らしめてやろうか、とかブラックな事を思ったりするけれども、それもそれで面倒くさい。私はとりあえず、二位の位置を保てていれば十分だ。特待生として選出されるのは、各学年から三人。要は考査で三位以内を取れば良いという事。難しいことではない。天才的な頭脳を持ってすれば勉強しなくても余裕で可能だ。
「桐原さんだ」
「今日も綺麗ね」
学校に行けば、私は皆に噂される。綺麗ね、とか、オーラが出ている、とか。わけのわからない事を羅列するばかりの連中には毎度毎度うんざりしている。そんな事を言っている暇があるならば、自己啓発に勤しんで少しでも天才に近づこうとすれば良いのに。だけど、それをせずに無駄に時間を浪費し続けている。愚かだ。私は決して連中とは交わらない。永遠の平行線なのだ。優等生と劣等性の、永遠に交わらない平行線。私は常に、誰よりも優越した傾きを維持し続けている。
学校に行くなり、担任に呼び止められた。誰も居ない場所に連れて行かれると、担任は成績の話に移った。この間の模試の結果が、かなり良かったらしい。私は模試の結果が記載された成績表を見せられて、驚きもせず、当たり前の結果に悦びも悲しみもする事は無かった。この調子だと東大だって可能だ、と誇らしげに言う担任に、私は、はあ、という曖昧な返事を返すばかりで、何一つ肯定せずに教室へと戻った。東大なんて、行く気にもならない。学校の名誉のために偉い大学に行くなんて馬鹿げている。私はこの学校に何一つ誇りを感じていない。だから態々、この学校のために業績を上げてやる必要性も無いのだ。私は高校を卒業した後、海外を好きなように歩き回るという計画を企てている。まずは雅美さんに会うためにスコットランドへと飛び発ち、そしてそこから彼女と二人で、気の向くままに国々を渡り歩くのだ。幸い英会話は、小学生の時に一年間カナダの知人の家にホームステイしていたため完璧だし、中学生の間に、ドイツ語やフランス語も齧っているので、向こうに行ってからそこまで苦労はしないで済むはずだ。
雅美さんは私が世界で一番敬愛している女性である。私の母の姉にあたる彼女は、母と似ているようで似つかない。美しい容姿、奇抜な発想力、自由奔放な生活……。全てが妹よりも優越していた。彼女がまだ日本で暮らしているころ、私はよく雅美さんの家に訪れたものだった。雅美さんは当時、埼玉の山奥に建った廃墟のような不気味な洋館で暮らしていた。私はそこまで電車とバスを乗り継いで、週一回のペースで通いつめていた。洋館は黴の臭いし、床は軋むし、蜘蛛の巣はあるし、ちっとも綺麗じゃなかった。だけど、その不気味な雰囲気が、雅美さんの美と、ミスマッチを超越してマッチしていたのだった。リヴィングと称された大広間で、私たちはよく話をした。フランス産のアンティークなソファに腰を下ろし、密接した木々を映し出す出窓を眺めながら、私たちは世界を批判していたのだった。この世界は没個性的。そして美しいものなんてどこにも見当たらない。劣等した人間ばかり……。そんな話を並べている間に、私は世界でまともに生きている人間は、私と雅美さんだけであるという事を知った。それ以外の人間なんて、皆ただ心臓だけを持った、付和雷同な人間ばっかりだ。
「学校を、辞めてしまってはいけないのかしら」
母は私と雅美さんが接する事を酷く嫌悪していた。私が雅美さんの元に通いつめる事を、酷く恐れていた。だから雅美さんの住む家の場所に鉄道が通るため、雅美さんがスコットランドに拠点を移すまで、母は私を隔離しようとしていた。埼玉に行っては駄目よ。それではあなたが駄目になってしまうわ……。雅美さんと同じ顔をした母がそう言うのは、凄く馬鹿らしく思えた。なんたって世界でまともな判断を下せるのは、私と雅美さんだけなのだから。だけど家庭での母の権力は絶対的だから、今もこうしてこそこそと自分の部屋で、雅美さんと連絡を取らねばならない。
「駄目なわけではないけれども、高校に通わないと知識が足りなくて困っちゃうわよ」
雅美さんは乾いた笑い声を洩らしながら言った。受話器の向こうで、犬の吠える声が聞こえた。そういえば、雅美さんは以前、スコットランドは素晴らしく美しい国よ、と言っていたのを思い出した。受話器の向こうで犬が鳴く世界は、雅美さんが賛嘆するほど、美しい世界なのだろうか。
「でももう苦しいわ。まともでない人間からの賞賛なんて、もう厭きてしまった」
「私だってそうだったわ。だから中退したんだけれども、それじゃ知らない事が多すぎた」
「どんな事?」
私は学校帰り、コンビニエンスストアで万引きしたコラーゲングミを口に放り込んだ。
「思いつかないけれども、何かがすっかり抜け落ちてしまった気がしたの」
雅美さんはううん、と唸った後、そう答えてまた薄く笑った。
電話を切った後は、コラーゲングミを無心に頬張った。これでは雅美さんの言う、華奢な女になれないなあ、と思うとベッドに寝転がって腹筋をしてカロリーを燃焼させた。コンビニのシールも、ビニル袋も、レシートも無い。この手さえあれば、お金なんて要らないと私は思う。何でも鞄の中に入れてしまえば、無駄なものを使わないで済む。万引きというものは、そんな合理的な方法である。そして、自己の解放感にも浸る事が出来る。一石二鳥とは、まさしくこの事であろう。私は暫く、万引きを止められないだろう。何か契機を迎えるまで。
最後のグミ一粒を口の中に放り込み、しっかりと咀嚼した。グレープフルーツ味のそれが、豊かな酸味を口の中に広げてから胃の中に落ちていく。肌を美しくしてくれるコラーゲンというエキスが、私の体内で融合する。なんとも美しい事だ。私はベッドに横になり、ゆっくりと目を閉じた。暗がりに満ちた視界に、ぼやぼやと美しい情景が浮かんでくる。青く澄み渡った空。白く伸びる雲。ヨーロピアンな外装の、上品な建物が両脇にずらりと並んでいる。真赤なバスが道路を通過する。笑いあう人々。黒いボディで、赤色に変わる信号。パン屋の匂い……。リアルに満ち溢れるスコットランドのイメージが私の中に蔓延した。その美しい景色の中でも際立って美しい人が、目の前で微笑んでいる。白いワンピースを風にはためかせて、黒い髪を揺らせてこっちを見て手を振っている。雅美さん。私が世界で一番愛している人。私は貴女に会うために、この世界に生まれてきたのかもしれない。雅美さんという人間は、別の生命の使命になるくらい、偉大な存在である。私は白いワンピースを着た雅美さんの元に駆け足で近寄り、挨拶代わりのキスを交わす。青い空が心地よい。通り過ぎる車がちっとも気にかからない。何て美しい国なのだろう……。
退学します、と担任に言うと、焦った様子で私の腕を引っ張った。が、私はもうこの学校に居る意味など皆無なのである。校長や理事長まで、私という天才を手放すのが惜しいらしく、必死で私をこの学校に留めようとあれこれ言葉を掛けてきたが、もう私の意志が変わることは無い。私は両親の同意も得ずに退学を決意し、口頭に出し、そして実行した。教科書などは教室に置いて帰り、学校側に処分を依頼した。ぺたんこの通学用の鞄をごみ箱に捨てて、数ヶ月という短い間通いつめた校舎にさよならする。突然の退学宣言に、生徒たちは皆酷く驚いていて、学年全体がざわついていた。学校を立ち去る途中、一人の男子生徒から告白を受けた。ずっと好きでした。その言葉に、私は好きじゃないわ、と返してすぐに立ち去った。
さあ、妨げるものは何も無い。空はすっきりと晴れていて、青みが酷く濃かった。ああ、梅雨が明け、夏が到来したのだ。私はそう確信し、肌が焼けてしまうのでは、と不安を覚えた。
今日、私はスコットランドに旅立ってやろうと思う、いや思っているのではなく、決意しているのだ。私は家に帰って、退学した事を母に知らせ、酷く驚かせる予定だ。そして荷物をまとめて、母の反対を押し切って空港へ向かい、雅美さんの元へと向かうのである。きっと彼女は驚くだろうが、すぐに笑って私を迎え入れてくれるだろう。
雅美さんの居る場所こそ、全てが輝いて見える美しい場所なのである。そこに居れば、きっと周りの物全てが輝いて見えるはずだ。そのためには、私も雅美さんと同じ道を歩まねばならない。高校を中退し、空っぽになったような気分を、体の底から味わわねばならない。
夏場の太陽が、酷く眩しい。よくよく耳を澄ましてみれば、閑静な住宅街で、蝉が五月蝿く泣き喚いているではないか。