愛する人
1
相変わらずの雨が降っている。梅雨って嫌だなあ。気分まで滅入ってしまう。除湿機なんて贅沢なものが存在しない、窓を閉め切った教室では、白く蛍光灯が光り、湿気が満ち溢れた室内をぼんやりと照らす。その中で、若さ漲る女子高生たちは、活気付いた様子で口々に言葉を交わす。
「伸介は巨チンだったよ」
その言葉に、一瞬集団は戸惑いを覚えたが、やはり女子高生は若い。女が口にするとは到底思えない言葉をさらりと吐き出した真子を賞賛するかのように、皆が堰を切ったようにげらげらと大声で笑い始めた。梅雨の陰鬱な空気には似合わないほど、生気でいっぱいの声。
「何それー」
「真子ちん、それ言っちゃ駄目だってえ」
「伸介君、こんな所でサイズ暴露されて可哀想ー」
「でもでかいなんて羨ましいねえ。私の元彼なんて勃っても小指だっつの」
「えーまじで?」
「それは痛いなあ」
集団は口々にコメントを重ねて行き、口を噤んだままの私は居心地が悪くなって、今すぐこの蒸し暑い教室から飛び出したいという衝動に駆られた。
集団のメンバーは、真子、七恵、泉、啓子、そして私の五人だ。何時もは私と真子、泉と啓子、そして七恵は他のグループと仲が良いのだけれど、高校生ともなれば中学生の頃のように、派閥は派閥で独立したりはしない。時々こうやって交流を重ねていく事で、クラスで満遍なく友達が出来るというわけだ。私たちは今日のオーラルの時間、不運にも単語テストに不合格だったために、放課後再試を強いられていた。私と真子が教室でだらだらと帰る準備をしていた時、丁度単語のテストを終えた七恵と泉と啓子が教室に戻って来て、真子が七恵に、彼氏とどうよ、という単純な一言を振った所からこの雑談会は始まった。そこから話は拡張し、恋の話に花が咲いていた。今好きな男の子の事や、デートの事、彼氏とどこまで進んだかなど、特に親密なわけでもないこの五人でプライベートに突っ込んだ話をどんどん進めていった。今思えば、教室でだらだら残るのなんてやめて、さっさと帰ってしまえば良かったな、と密かに後悔している。私は恋の話が特に苦手な分野なのだ。好きな人なんて居ないし、今まで彼氏が出来た事も無い。だが、私の周りの四人は、七恵と泉が彼氏持ちで、そして泉と私を除く三人が、もう初体験を終えてしまっているのだ。そんなレヴェルの高い話に、私なんかがついていけるはずが無い。
「でも、やっぱり怖いじゃん……」
「大丈夫よ。男に任せてれば。大切にしてくれるって」
私がついていけない話にぼんやりとしていると、何時の間にか話題の矛先は泉へと向いていた。泉が今付き合っている彼氏に求められているらしいのだが、泉はそれを拒んでいるらしかった。それに対して、経験者である三人はまた口々にコメントをしていく。処女なんてあっても無駄でしょう、とか、早く捨てちゃった方が楽よ、とか、拒んでばっかりだと彼氏も不安にさせちゃうよ、とか。私は泉よりも経験の浅い女なので、そのコメントに加勢する事も出来ず、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出してテトリスをし始めた。そこで、
「ねえ、それよりも心配なのは留実よ。あんた、高校生なのに、全然そういうのに興味示さないじゃない」
と、急に真子が話題を私に振り始めたので驚いて携帯を閉じた。すぐに話を逸らそうと思って盛り上がりそうな話題を探したが見付からず、結局啓子が、えー留実ちゃん彼氏とか居ないの? だとか、恋愛事情教えてよー、とか言われて、私は完全に彼女たちの餌食になってしまった。
「好きな人くらい居るでしょう」と、七恵。
「居ないけど……」
「まじで!? 居ないの?」と、泉。
「折角共学に来たんだからさあ、恰好良い人とか探さなくちゃ」と、啓子。
その後は皆でわいわい、九組のあの子が恰好良いとか、二組のバスケ部の子はこの間彼女と別れてフリーだとか、また自分勝手な事ばかり話し始めた。失礼極まりない事ばかり言われたものの、話題の矛先から逃れられた事にほっと胸を撫で下ろし、また携帯電話でテトリスを開始した。ブロックを積み上げ、消し、という行為を繰返しているうちに、皆の甲高い笑い声は気にならなくなり、雨音と二人きりの世界に閉じこもる事に成功した。
恋をしなくなったのは、何時くらいからだろうか。そう思うと頭の中に甦るのは一番最近好きだった人の顔で、そこには中学一年生の頃の私が居る。同じクラスで野球部だった遠藤君。私は間違いなくあの時、彼に夢中だった。彼とは殆ど言葉を交わした事も無かったし、飛びぬけて男前なわけでもなかった。だけど、学年でも結構人気のある男の子だったのは、彼には人を惹き付ける能力があったからだと思う。たとえば授業中にする発言が一つ一つユーモアが溢れていて面白かったり、そんなふざけた彼でもひとたびグラウンドに立てば白球を必死で追いまわすスポーツマンになる。そのギャップが、色んな女の子を魅了していた。私も魅了されたうちの一人だった。その頃私は随分と盲目で、私が綺麗に髪を整え、お洒落に生きていれば遠藤君は振り向いてくれるとばかり思っていた。そしてある日、友達の協力を経て遠藤君を放課後教室に一人で残してもらい、私はいよいよ思いを伝えに戦場へと赴いた。その時、髪は綺麗なおだんごヘアーに結われていた。おだんごの根元には、赤いハートのビーズが散らばっていた。
好きです。付き合ってください。
その言葉には、自分の自信が漲っていた。どうしてその時、返って来る答えを一通りにしか想定していなかったのだろう。
ごめん。俺、他に好きな子居るから。
そう言った後、遠藤君は告白されるのなんて慣れていますといった様子で、さっさと教室を出て行った。私は暫く、状況を飲み込めなくて独りぼっちの教室で呆然と立ち尽くしていた。哀しいのか、悔しいのか、憎らしいのか、自分が今どんな感情でいっぱいなのかわからない。ただ、恐ろしいほど空虚な感情が心の中をいっぱいに満たして、涙も出なかった。実質の伴わない自尊心ががらがらと音を立てて崩れていった。窓から差し込む日差しが、教室内の埃をきらきらと輝かせていた。
それだけで事は終わらなかった。翌日、学校に行ってみると、私友達だけでなく、学年中の人が、私が遠藤君に告白をしてふられたという事実を知ってた。へえ、あの人が。あの程度で遠藤君を狙うなんて。廊下を通れば、皆に噂をされ、ちらちらと見られて、耐え難い羞恥心が私の上に圧し掛かった。遠藤君は人気があるために、髪の毛を茶色の染めた女の子の集団にも、文句をつけられた。「遠藤に手出してんじゃねーよ、ブス」。極めつけは、偶然耳にした、遠藤君とその友達の会話だった。
何だよ、あの女。自分に自信持ちすぎだよな。どれだけ可愛いと思ってるんだか。自信満々な顔して教室に来るの。見た瞬間吐き気がしたね。自分の愚かさに気付けって感じだよ。
自分というもののイメージは、理想の自分のイメージだったに過ぎなかったのだろう。私は遠藤君の言葉がやけにリアルで、そのリアルを余す所無く見つめた気がした。鏡に映った自分。真実の自分。客観視した自分。全ての自分が、理想の自分とは大きく異なって酷く劣っていた。私は目眩がした。今まで自分が自分に抱いていた自身は、所詮虚栄にしか過ぎなかった。理想の自分の影を掴む事が出来ず、それは靄となって姿を消した。私は今まで自分が自分に対して持っていた自信を全て失い、同時に多大な羞恥心に襲われた。今まで、私は何故堂々としていられたのだ? 何を可愛いと思っていたのだ? どうして全てが手に入ると思ったのだ? 自分の今までの振る舞いが全て恥ずかしい。私はそう思った瞬間、一つの決意をした。外見に伴う行動をしよう。地味に生きよう。そうすれば、誰にも虐げられなくて済む。そして、自分から人を好きになるのは止そう。自分を愛してくれる人なら、誰でも寛大に受け止めよう。そうすれば幸せになれる。もう恥ずかしい思いをしなくて済む……。
2
「合コンするけど、留実もどう?」
昨日の雑談会ですっかり意気投合したらしい真子と啓子が、態々自分の席で眠りこけている私を起こしてまでそう訊ねて来た。合コン……。その響きは私にはあまりにも重過ぎる。顔も見た事の無い男女が集まって、喋って、共通の話題を探り出して、盛り上がって、何とかお持ち帰り出来たらという男の期待に応えるか応えるまいか迷って……というあのややこしくて若々しくてそして面倒くさい合コンだろう? 私の最も苦手とするジャンルの行事だ。基本的人見知り人間が、その日初めてあった人と交友的に言葉を交わせるはずが無いだろう。私はぼやける目を擦ってから、パス、という意味を込めて首を横に振った。
「何でー。留実、合コンなんて最大のチャンスだよ! しかも相手の写メール送られてきたけど、皆恰好良いんだから」
そう言って、真子は自分の携帯を開き、ディスプレイを嫌がる私に無理矢理見せた。そこには三人の男子の顔写真があった。……確かに、全員恰好良い。明るそうだし、着ている服もお洒落だし、スポーツをやっているのか肌も浅黒く、程よく筋肉質な体をしている。髪も今風にきっちりと整えられているし。だけど、私は更に行く気を失った。そんな明るい男子たちを見ていると、遠藤君を思い出さざるを得ないからだ。
「やっぱりパス」
私はそう言って、また机に突っ伏して寝たふりをする。と、そんな傍らで、真子は携帯で誰かに電話を掛け始めた。
「あ、もしもしー、亮君? メンバー三人決まったから。うん、私と啓子とそれから留実って子。うん、後で写メ送るから」
私は寝たふりを中断し、体を起こして真子を睨みつけた。おいおい私がいつこの口で合コンに行きますなんて言った? 憎悪をこめた視線を真子に送ると、勝ち誇ったような笑みを返して来る。啓子は電話に声を拾われないようにか、声を押し殺して大爆笑している。
「私、行かないよ。何て言われようと、行かないから」
不機嫌を露にしながら電話を終えた真子を睨みつつそう言ったら、真子は笑いながら、まあいいじゃあないの、あんただって恋したいでしょう、と言われ、そこから何にも反論する余地を与えられないままどんどん話を続けられて、すっかり否定する機会を失った私は、何時の間にか合コンに行く事になってしまっていた。
恋がしたいなんて、何時言ったよ。私はあれ以来、恋なんてしないと誓っている。というよりも、恋に、そして男性に臆していると言った方が正しい。男子が怖いのだ。何時嘲笑われるかわからない。そして、男性に恋する事が怖いのだ。
部活仲間の智子や千里も、恋愛に燃えていた。純真にバレーボールを追い続けるのなんて私くらいだと自負した。好きな男の子の話で皆が盛り上がっている間、私は黙々と部室で着替え、帰りの支度をしていた時だった。鞄を開けてみると、明日までの課題とされている数学のワークが見当たらない。教室に忘れてきたようだ。私は智子と千里に、先に帰ってもらうように告げてから、バタバタと教室へと取りに戻った。放課後の校舎内は、人気がまるで無く、張り詰めたような静寂と、飲み込まれてしまうくらい果ての無い闇に埋め尽くされていた。階段に足を下ろせば、高い天井に足音が大げさに響いて、不気味さを強調させる。非常階段の緑色のランプを頼りに、私は四階にある自分の教室を目指した。ふと、廊下から自分の教室を窺ってみると、暗い廊下に、教室から白い光が零れている。テスト期間でもないので、教室に残って自習している人も居るまい。大方誰かが消灯し忘れたのだろう、と思いながら、さっさと不気味な校舎から立ち去りたいと思い、急いで教室の中に入ったら、教室の隅で、まるで自分の存在を消すかのように縮こまり、本を読んでいる女の子が目に飛び込んできたので私はあまりに驚いて呼吸を乱した。暫く息を止めた後、自分の心臓がばくんばくんと大きく鼓動を打っている事に気がつき、数回大きく深呼吸する。なんだ、小柳さんじゃないか。その女の子の身元が割れたところで、漸く私は落ち着きを取り戻し、自分の席からお目当てのものを取り出して、鞄の中に収めた。丁度その時に、チャイムが静かな教室に染み込むように鳴り響き、下校を促す生徒指導の先生の声が放送で流れた。私はふと、小柳さんに目をやった。小柳さんは普段から滅多に口を利かない子だった。大人しくて、何時も自分の席に座って本を読んで居る。さらさらの黒い髪と、白い肌と、そして茶色い縁の眼鏡が特徴である。彼女はとても地味で、見るからに男の子にも奥手そうだから、きっと私と同じ“処女仲間”であるだろう。そんな小柳さんは、放送が流れた所で特に動き出そうともせず、本を読み続けている。そういえば、私が教室に入ってきた時から、視線をちっとも動かしていないようだった。ただ、沈黙の中で、本の中にすっかりのめり込んでいるような……。もしかして、私の存在にも下校の放送にも、気がついていないのではないだろうか。私は人形のように動かない彼女を不気味に思い、そして心配した。
「小柳さん」
小柳さんとは話した事がないから、声を掛けるのに少し躊躇いがあったが、喉に引っかかるような小さな声で名前を呼んでみた。だが返事は返って来ない。
「小柳さんってば」
今度は明瞭とした大きな声で名前を呼んでみた。小柳さんはどこかの世界にトリップしていたのか、私の声によって一気に現実に引き戻されたようで、夢から覚めたような表情をして私の顔を見、そして窓の外を見てから更に驚いたような顔をした。
「もう下校の時間だよ。早く帰らないと、危ないって」
「ああ、うん。そうだよね」
小柳さんは上品な感じのつんと高い鼻の上に眼鏡を引っ掛けて頷いた。本を鞄の中に片した後、何も入っていないようなぺたんこの鞄を肩に提げて立ち上がった。彼女がいそいそと私の前を通り過ぎた時、あまりにも華奢な体つきを見て私はまた不安を覚えた。そういえば、朝方不審者が出たとか、出ないとか、担任がぼちぼち話していたような……。小柳さんは見るからに大人しそうだし、華奢だから、痴漢からすれば恰好の獲物である。そう思うと、やけに不安になって、このまま彼女を一人で帰してしまうのは、恐ろしいような気がした。
「小柳さん、この時間不審者も多いし、一緒の方向だと思うから、途中まで一緒に帰ろうよ」
そう言った後、話した事も無い大人しい女の子と、一緒に帰る時何を話せば良いのだろうか、と考えて少し後悔する。しかし、それも取り越し苦労だったようで、小柳さんはゆったりと笑い、
「大丈夫だよ。それに私、これから約束があるから」
とだけ言い、教室を後にした。私は小柳さんの背中を見送った後、しばしば呆然としていた。頭の置くがぼんやりと熱く、思考が巧く働かない。小柳さんという人間に対しての興味。私の中にはごく自然に、そんな感情が芽生えていた。
3
私はそれから、自分の中に芽生えた感情を消化するために、毎日部活が終われば小柳さんの所に向かった。小柳さんには、何時も誰かとの約束があるようで、それまでの数十分の短い間を、私は巧く使って小柳さんと一緒に居る時間を少しでも長くした。でも、感情は消化される事は無く、寧ろどんどんどんどん膨張していった。小柳さんに対する興味に、何時も心臓が早く動いた。智子や千里は、何時もクラブが終わるなり早々と部室を出て行ってしまう私を不思議な目で見つめながら、「恋でもしたんじゃない?」と、茶化した。そうか、恋か。私は記憶を手繰り寄せて、昔経験した人を愛するという感情を思い返してみる。心臓の鼓動。人に対する興味。熱意。そうだ、恋だ。私は確信し、そして更に小柳さんと一緒に居たいと思うようになった。私は久しぶりに恋をしたのだ。それはどんな形であれ、めでたい事に違いは無い。
小柳さんの読む本は、何時も難しい本が多かった。天体に関する本や、明治時代の文学書、歴史書、或いは医学書まで、どんなジャンルの書物にも全てに手を伸ばしているようで、それは本当に凄い事だと私は感動した。知識を下手に頭に詰め込むのではなく、彼女は知識を吸収している。そんなイメージがあった。
「小柳さん、今日は何を読んでいるの?」
「この前新人賞受賞した人の本」
「何て題?」
「俺と妹」
「あ、それ知ってる。いいよね」
「まだ序章だからよくわかんないけど、文体は好きだよ」
私たちは、他愛の無い会話を繰返した。私は無口な小柳さんがぽつぽつ零してくれる言葉を一つ一つ咀嚼するように、頭の中に滲ませていった。彼女の声は、ふとした拍子に吐き出されると、聞き逃してしまうほど透明だ。声が小さいのではなく、透明なのだ。別世界に存在しているような、何か隔たりを感じる、尊い声。小柳さんの眼鏡の向こうには、切れ長で二重瞼の透き通った瞳がある事を、私は知っている。
「小柳さん」
「ん?」
「今日も一緒に帰れないの?」
「うん、今日も約束があるから……」
「そっか、気を付けてね」
そして下校時間まで、他愛も無い会話を繰返した後、別々の道を各々歩いていくのだった。小柳さんは約束という抽象的な言葉を使うばかりで、その内容をちっとも教えようとしてくれない。だから私も敢えて訊かないのだけれども、こうも毎日約束があるとすれば、私も少し気になってしまう。そして、自分の知りえない小柳さんに、しばしば嫉妬してしまうのだ。
小柳さんの噂を聞いたのは、その翌々日だった。
「遂に卒業しましたあ!」
泉がそう言ったのが発端で、私達はまた放課後残って雑談会を開く事になる。
「うっそー! 泉、おめでとう!」
「よくやったじゃん」
皆それぞれ祝福の言葉を述べる。私には何がおめでたいのかよくわからなかったが、今日は部活動がオフのため、一緒に帰る約束をしていた真子がその話題に食いついているので、雑談会に参加せざるを得なくなった。
「えへへ、思ってたよりも怖くなかった」
泉は赤裸々に自身の初体験の内容を述べる。その話は、耳を塞ぎたくなるほどの話だった。梅雨が明け、いよいよ夏が到来した七月上旬の窓。以前雑談会を開いたときよりもすっきりとした天気の空は、快活な感じはするけれども、話の内容は相変わらず不純だ。
私はその話を傍聴しながらも、今日は小柳さんが教室に居ないなあと思いながら辺りを見回した。そりゃ、こんな卑猥な話を近くでされちゃ、本も落ち着いて読めないだろう。……そういえば、昨日小柳さんと話をした時、明日は図書室に本を返しに行くからそこで居るかもしれない、と言っていたっけ、と思い出して安心する。場所を奪われてしまったんじゃ、可哀想だし、私もこの雑談会の中に参加している事で、軽蔑されかねないし。
「これでこの中でも処女はあんただけになっちゃったよ、留実」
小柳さんの心配をしているうちに、また話題は私に切り替えられる。真子のアイラインまみれの眼光が私を捕らえて悪戯に笑った。続いて七恵や啓子や、今まで処女だった泉までも私を催促する。早く彼氏作りなさいよ! と囃し立てられては謙遜してを繰返しているうちに、
「そんなんじゃ、そのうちクラスで処女はあんたくらいになっちゃうよ」
と、真子が鋭い指摘を入れてきて、私は言葉に詰まった。すると啓子が、
「ないない。だってうちのクラスには小柳が居るもん」
と、小柳さんの名前を挙げて来たので、私は内臓を殴られたような苦しさを感じた。でも、自分でも小柳さんは少なくとも高校生の間はずっと処女だろうと思う。あれだけ誰とも話さないのだから、やはり周りの皆にもそう思われているのだ。しかし、
「え、小柳さんきっと処女じゃないよ」
と、泉が言った。その言葉に、皆が目を剥いた。口を半開きにさせて、泉の方を見つめている。私だって例外なく驚いて、きっと皆と同じような顔をしていた。
「何それ!? 誰情報?!」
それには皆がハイエナのような勢いで食らいついた。今まで冷静に話を傍聴していた私も、小柳さんの事となれば本能的に目の色を変えて訊き漁ってしまう。興味というより、がけっぷちに立たされたような絶望、そして背筋を冷水が伝い落ちるような寒気を感じた。
「いや、私の情報なんだけど。この間の夜ね、街をぶらぶらしてたら、ホテル街に男の人と入っていく小柳さんを見たの。多分あれは、小柳さんだったと思うんだけど……眼鏡取ってたし、後姿で判断したから未確定だけどね」
泉が誤魔化すように言った。だけど、皆その情報から様々な妄想を膨らませた。男とホテル街とか間違いなく彼氏じゃん! てことはもう処女じゃないだろうね。えーあんな地味な子が意外と……。私は絶望のあまり唇を震わせて、頭が真っ白になっていた。穢れを知らないような彼女の目は偽りで、本当は世間を知っている思春期の少女なんだろうか。
窓の外の雲一つ無い空。私のもやもやも、こんな風にすっきり晴らしてくれたらいいのに。
4
私は翌日、初めて部活を休んだ。学校が終わったのが四時二十分で、それから約三十分間、一人で食堂でホットコーヒーを飲んで心を落ち着かせていた。温かいものは、何故だか体の根元から、安心させてくれるような気がする。私は深呼吸を二回した後、四階までの階段を、一段一段噛み締めるように上った。教室の電気は点いている。私は覚悟を決めた。ドアに手を掛ける。ふうと深く息を吐き出した後、目を大きく開いて目の前に立ちふさがるドアを一気に開けた。教室の隅にはやはり小柳さんが居て、開け放たれた窓から、夏場の夕方の爽やかな空気がどっと流れ込んで、カーテンを揺らしていた。たゆたうカーテンにも、登場した私にも気に留める事無く、小柳さんは本を読んでいた。人間進化論と題された本は、評論じみていてやはり難しそうだった。私は怖気付いた感情を押し殺しながら、ずんずんと小柳さんの前まで歩いていった。
「小柳さん」
私は大声で名前を呼ぶ。小柳さんは特に驚いた様子も無く視線を持ち上げ、口元だけ緩ませる。
「今日は凄く早いのね」
落ち着いた様子で本を閉じた小柳さん。私と話をしている時も、本を開きっぱなしだった小柳さんにしては珍しい行動だ。逆に私の方が驚いてしまう。
「うん、ちょっと訊きたい事があったの……」
私は言葉を濁らせる。小柳さんの透き通った瞳が私を捕らえて離さない。その瞳には、すっかり射竦められてしまうけれども、私は早まる心臓の鼓動を抑えながら、言葉を発した。
「小柳さん、私の事、好き?」
その言葉は、蝉の声がぼんやりと響く静かな放課後の教室にゆっくりと溶けていった。小柳さんは、やっぱり驚いた様子を見せない。私は今、凄く顔が熱いし、足が震えている。小柳さんの答えを聞くのが怖い。蝉の声。それだけが取り残された教室に耐えかねた私は、小柳さんの返事も聞かずに、また声を発する。
「私は、小柳さんの事、凄く好き」
体中に熱が回り、羞恥心が故に目頭が熱くなってきた。小柳さんは、きっちりと結んだ唇をまた緩ませてくれた。そして、切れ長の綺麗な瞳を少し細めた。
「私も、秋元さんの事、凄く好きだよ」
透明な声。透き通った瞳。全てが私の欲望を擽った。感情が暴走する。抑制出来ない。自分を必死に抑えようと力を込めているうちに、小柳さんの顔が凄く近くなる。私の唇に、すごく柔らかい何かが触れて、そしてすぐに離れた。
「素敵」
小柳さんは立ち上がって、私の顎の輪郭を撫でて、またキスを繰返した。眼鏡が邪魔なのか、凄く色っぽい仕草で眼鏡を外し、透明な瞳や小高い鼻が遮るもの無くこの目に飛び込んできた。彼女の瞳を私が知っているなんてどうして思ったのか。彼女は私の知っている彼女より、遥かに美しい顔をしていた。窓から飛び込む風が、小柳さんの黒く艶やかな髪を揺らした。
「愛しているよ」
翻弄されている。溶けるように甘い。私が今まで歩んできた恋愛史を覆す、美しい恋だ。
しかしどんなに両思いになれども、帰宅を共にする事だけは許可が下りなかった。私は、約束があるの、という彼女の言葉に、黒い影を見た。影の正体を暴いてやりたい。見た事の無い小柳さんを見てやりたい。尾行しようか……。それは凄く悪質な事なのかもしれない。人のプライベートに無断で入り込んでいくのだから。だけど、やはり不安は拭いきれなかったのだ。毎日行われる約束が一体どんなものなのか、私には皆目見当がつかないのだ。
夕陽がビルの隙間に落ちかけている。それでも都会は落ち着く気配など一向に見せず、相変わらず人が多い。その人の多さに感謝したのは、今日が初めてだった。この人ごみに紛れていれば、小柳さんも尾行に気がつかないだろう。
小柳さんは十分前に駅の公衆トイレに入ったきりまだ出てこない。私は今すぐトイレに乗り込んで、小柳さんが何をしているのか確認しに行きたかったが、それでは尾行がばれてしまい、彼女に軽蔑される恐れがあるので止めた。はやる気持ちを抑えながら漸くトイレから出てきた小柳さんを見た時、私は言葉を失った。脳みそが揺さぶられるような衝撃を感じた。
小柳さんは学校の制服を着ていたが、その服装は、スカートを下着がギリギリ見えないくらいまで短くし、ブラウスのボタンを二つも開けてキャミソールを覗かせ、学校指定外の赤いネクタイを首から緩く結んで、そしてあの端正な顔立ちに更にきつめの化粧をしている、というものだった。髪型は相変わらずだけれども、これじゃ正面から見たら誰なのかさっぱりわからない。私は驚き、そして恐怖した。いつもあれだけ大人しい彼女が、ここまで変貌してしまう理由は何なのだろうか。すると小柳さんはぼちぼちと歩き始めて、駅前のベンチに腰を下ろした。様々な人が彼女の前を行き交うだけで、彼女と待ち合わせていると思われる人は一向に現れない。小柳さんは少し足を開いて、太腿を強調していた。ブラウスのボタンも、気がつけば三つ目まで開いていた。
するとそれから二十分が経過しただろうか。三十代半ばくらいのスーツ姿の男性が、徐に小柳さんに話しかけた。小柳さんは二言三言、男と言葉を交わした後、ベンチから立ち上がって、男に寄り添いながらどこかに歩いていった。全身から血の気が引いていくのを感じた。小柳さんと一緒に居る時とは違う、焦燥感に似た心臓の鼓動。私の予感は的中した。彼女たちが向かった先――ラブホテル。私の体は、絶望の中に奥深く沈みこんだ。だけど、沈み込んでいるだけでは改善できない目前の状況に、再び絶望から立ち上がった、本能的に。そして体は自動に動く。自分の動きを、傍観しているような気分だった。
「止めなよ、ハンザイだよ」
ハンザイという言葉は、その行為には凄く不適切な気がした。もしかしたらこのスーツの男が本当の恋人かもしれない。可能性を全く配慮しなかった行動に、私はちっとも焦る事は無かった。私の言葉に振り返った小柳さんは、やっぱり顔色一つ変えず、私の顔を見つめた。
「秋元さん……」
「ごめんね。尾行なんてしたくなかったけれど……」
私が小柳さんに駆け寄ると、男はあわてた様子でそそくさとホテル街を立ち去った。私は小柳さんの華奢な体を折ってしまうほど、強く強く抱きしめた。
「私、小柳さんが大切なの」
「うん」
「私、小柳さんが一番好きなの」
「うん」
「私、小柳さんが誰の手にも渡って欲しくないの」
「うん」
「愛しているよ」
「私も」
そう言うと、涙が止まらなくなった。一番大切な人は、今までこうして傷ついてきたのだろうか。何度も繰り返し繰り返し、傷ついていたのだろうか。私は小柳さんの傷だらけの体を、治癒してやるかのように、優しく撫でながら抱きしめた。小柳さんの顔は見えないけれども、私の首元に埋めている彼女の顔は妙に熱を帯びていたし、彼女の背中は小刻みに震えていた。もう夕陽は何処にも無い。月だけがぼんやりと、騒がしい都会の町の上に顔を出している。そんな事に何時もは注意を寄せていないけれども、その朧月は、妙にセンチメンタルを加速させる効果があるという事を、今日少しだけ知った。私の泣き声は、そんな夜に溶け込んで行く。
強制的に連れて行かれた合コンは全く楽しくなかった。小柳さんに合コンの事を話しても、彼女はたいした興味も示さずに、いってらっしゃい、とだけ言った。予定を作ってくれれば、何とか逃げる口実になったのになあ、私はそう思いながら、食べたくも無いフライドポテトを食べ、聴きたくも無い歌を聴かされ、言いたくも無い下ネタも言わされた。確かに集まった男は全員格好よかったが、私は遠藤君に似たその男たちをどう対処すればいいのかに戸惑っていた。啓子と真子は、もうお目当ての男の子にめぼしをつけたようで、執拗にアタックを仕掛けている。私は不運にも余り物を選ばざるを得なくなった男の子に同情しながら、そして距離を置いてみたりする。
「留実は今まで彼氏とどこまで進んだの?」
とか、野暮な質問をしてくる男に、私は苦笑いを重ねる事しか出来ない。カラオケも興が冷めて、そろそろ皆店を出て別行動をしようとか話し合っている。別行動だけは勘弁してくれよ、と私は内心悲惨なまでに叫んでいた。こんな奴と二人っきりで、街をうろうろするなんて息が詰まって死んでしまう。
カラオケボックスを出た後、啓子と真子は私に、「頑張れよ」と、にやにやと笑いながら一言耳元で囁いて、それぞれがそれぞれのお目当ての男の子とぴったりくっついて何処かへ歩いていってしまった。私は横に居る野暮ったい男の存在に溜息を吐き、どうやってこの状態を回避しようかひたすら悩んだ。男は執拗に話しかけてくるが、私は苦笑いを繰返す事しか出来ない。何時、昔みたいに虐げられてしまうのかが恐ろしく、ろくに会話もままならない。
「ねえ、あっちとか行かない?」
男は散々街をつれまわした挙句、何だか人通りの少ない所へ行こうと引っ張ってくるので、私はいい加減恐怖を覚えた。何なんだこいつは。何がしたいっていうんだ。そう思い、逃げ出そうと足を速めた瞬間、手首をしっかりと掴まれた。スポーツをやっているらしい男の力で掴まれた手首は、ロープか何かで締め付けられているくらいに痛い。私はキッと男を睨みつけたが、男は勝ち誇ったように笑うばかりだった。
「ちょっと、私の留実に手を出さないでくれる」
ふと振り返ってみれば、そこには小柳さんが居た。男は少し驚いた様子だったが、小柳さんが女だとわかった瞬間、再び強気な態度を見せてきた。しかし、小柳さんも一歩も引かなかった。近距離まで近寄り、男をぎっと睨みつけた。小柳さんの異常なまでの強気な態度に、男は一瞬怯んだようで、その瞬間、小柳さんに手首をつかまれて走って逃げ出した。風を切るように、人ごみを掻き分けて走り回った。部活で鍛えた脚力が、今ここで漸く本領発揮しているような、快活さが体の中に漲っていた。