結束の方法
私は実際に音楽をやっていないので、多分現実とは異なると思われます。
そこらへんは寛大に受け取ってくだされ。頼
1
あ、音がズレた。
キーボードを弾いて、わざわざベース音を作ってやっているのに。喜代の音痴さには絶句してしまう。それなのに、バンドメンバー全員が、必ず一曲はボーカルを受け持たなければならないという、奇妙なしきたりのせいで、私の溜息は止まらない。 喜代は満足そうな表情で全て歌い終えた。おまえのその耳はどうなっているわけ? と、突っ込みさえ入れたくなる。傷みまくったパサパサの金髪を弄りながら、どうだった? と訊いてくる彼女に対して、私は苦笑いを浮かべる他に何もできなかった。
「喜代、お前まじ有り得ない」
私がはっきりしないのを見かねた兵頭は、口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せて寄与を見つめた。喜代は人の表情を読めないらしく、嬉しそうに兵頭に近付く(そういう天然なところが、私が私の意見をはっきりと彼女に言えない理由)。
喜代が兵頭から注意を受けている間に、私はギターのチューニングをした。先ほど喜代にこれを貸していたため、多少音がずれている。微妙な音のずれを聞き取って、私は正しい音を掴み取った。だてに長年音楽をやっていない。
するとその様子を見ていた真田が近寄ってきた。手には小さめの赤いギターがあった。
「ごめん、圭。俺のも頼む」
全く、と思いながらも無言で受け取り、狂った音を確かなものにする。
ここにいる奴らはろくに自分の楽器も扱えない。扱えるのは私と兵頭くらいなものだ。大抵の奴らは音楽をしたくて入部したのではなく、バンド組んでいると恰好いいから、とか、憧れのアーティストの影響、とかくだらない理由ばかりだ。だから初心者で溢れているし、音痴も多いし、初めて来たときは呆れて物も言えなかった。そんな中から兵頭以外の、音楽的才能のある奴を選抜するのは難しく、後の二人は人柄で選んだ。天然で人を疑うことを知らない素直な性格の喜代と、ムードメーカーでどこか気の抜けた真田。そして才能は確かで、グループのリーダー的存在の兵頭。それから私。この四人で下手くそながらバンドをやっている。作詞作曲もするけれども、内二人は初心者の冴えないバンドだ。だけど私は意外にこのバンドを気に入っていたりする。
チューニングが終わったギターを真田に渡すと、彼は本当に嬉しそうに笑ったので、つられてこっちまで嬉しくなった。真田はギターを抱えて、不器用にピックを動かして、不安定な音を奏でた。……全く、見ていられない。私は頭を抱えてそう思い、真田のギターをひったくって、ギターのいろはを教えにかかった。その辺はこの前聞いたよ、という真田の意見はまるで無視だ。聞いてもこれじゃあ聞いていないのと変わらない。
一方兵頭は、喜代の暢気っぷりに相当参ってしまったらしく、もうお前はそれでいいよ、と喜代を説教するのを諦めてしまった。喜代は相変わらずにこにこと穏やかに笑っている。
「やばいな、これじゃあ演奏会に間に合わない」
兵頭は頭をボリボリと掻きながら、溜息混じりに言った。同感、という返事の代わりに苦笑いをした。
演奏会、というのは春と秋に一度ずつ開催される、各学校の軽音部が集まる小さな会合である。各学校の軽音部は、一年に二度のこの会に向けて練習していたりする。
「確かに、無理そうだね。喜代の歌はともかく、ギターがまともじゃないからさ」
ドラムは兵頭が担当している。ベースが喜代で、ギターが真田。私は全部できるけれど、主にキーボードを弾いたりする。あと、ボーカル兼ギターもしばしば。
「じゃあもう夜遅いし、最後に一回合わそうか」
「わーい」
みんなとても下手くそだけれども、音楽を合わせるのは好きだ。喜代は重そうなベースをよっこらしょと抱え込んで、よたよたとセンターに立つ。可愛さの反面、不安な感じもしたので、保護者のような気持ちで彼女の姿を見守った。真田がたどたどしく、最初の音符を指で追う。兵頭がタンタン、とスティックの甲高い音で最初のリズムを刻み、それに合わせて私たちは楽器を演奏し始める。
兵頭のドラムは完璧だ。どんなに早いビートでもすぐ刻んでいける。それに合わせて私のキーボードは滑らかに滑り込むのだけれども、他が酷い。ベースはまるでベースになっていないし、ギターだってぐだぐだだ。ところどころ音は途切れるし、喜代の音痴さは相変わらず酷い。初っ端の音を外してしまったのでは、後の音が合うはずもなく、そのまま”乱れきったGO!GO!7188”が部屋いっぱいに響き渡る。全く、歌のいいところを一つも引き出せていない。
だけどみんなは楽しそうだった。
帰りがすっかり遅くなってしまい、住宅地は暗闇に包まれている。もうすぐで学校は考査期間に入るわけだけれど、知ったことではない。とりあえず、幼い頃アメリカに住んでいた、という既成事実のために、私は英語のテストを頑張らなくちゃならないんだけれど、その他の教科には、微塵の矜持も持ち合わせていないので、ちっとも興味がない。
駅が一緒なので、帰りは大抵兵頭と一緒に帰る。私はよく、幼い頃に聴いた洋楽を口ずさむ。その度、兵頭は、何の曲? とか、それいいよね、とか言ってくる。どちらにせよ、音楽の話題で盛り上がりながら帰る。だけど、今日は違った。どこか兵頭のテンションが低い。
「どうしたの」
私が顔を覗き込んでみると、兵頭の前髪に入った金色のメッシュ――半年前に別れた彼女に入れられたものらしい。今でも気に入っているそうだ――が揺れた。
「や、考査がやばいなあと思って」
兵頭は咄嗟に何かを隠すようにして言った。だけど、私には大体わかる。兵頭の家は医者なのだ。したがって兵頭はかなり頭がいいわけなんだけれども、本当はここよりももっと偏差値の高い高校に行くはずだったのだが受験に失敗したらしく、滑り止めに受けたここに行くことになったらしい。だから、考査では一位になる以外、親が許してくれないそうだ。
「ネガティブだな」
「あの親が家にいるのに、ポジティブに生きられるはずがないよ」
「そーゆーもの?」
「そーゆーもの」
そう言い残して、私たちは駅で別れた。
あの親、ねえ。私の家だって、十分親は面倒だ。父がIT関係の会社の社長をしているせいで、家はお金持ちだし、元々母の実家もお金持ちだったせいで、私は上品に生きることを強いられていた。幼少期にはアメリカで過ごし、バレエやヴァイオリンやピアノを習い、日本に帰ってきてもヴァイオリンとピアノは毎週レッスンがあった。元々才能があったのか、そっち方面での腕は非常に優れており、数々の人に賞賛され続けた。母譲りの容姿も、富も、才能も、栄誉も、全て満たされているのだけれども、本質的にはどこか空っぽなのだ。
2
入学して暫くすると、友達もできた。七恵と、朝美。いずれにせよ、席が近かったため話しかけられて、それから何となく一緒にいる。同じクラスに、知り合いの子が三人ともいないために、独りになることを回避するためにできた、緊急のグループだ。多分これから、交友関係はぐにゃぐにゃと歪み続けるのだろう。嫌われて疎外される者も出てくるはずだ。人間というものは醜い動物だから、みんな利己的。私もそうだ。
「軽音部、今度演奏会やでな?」
朝早く、朝美は私の席に近付いてそう訊ねた。朝美は可愛い。少し癖の入った柔らかい髪とか、白い肌の中で大きく浮かぶ瞳とか。あと、話したときに出る大阪弁のギャップも可愛らしい。朝美は中学までは大阪で暮らしていて、高校でこっちに来て、一人暮らししているらしい。私が生まれて初めて出会った大阪の人だ。だから私の大阪人のイメージは、“可愛らしい”として定着してしまっている。
「そうだけど、何?」
「いや、一回圭が歌ってるの聴いてみたいねん」
「カラオケ行ったときに聴いてるじゃない」
「せやけど、何か舞台で歌ってるんとはちゃうやんやっぱり」
朝美は屈託なく話す。そこに七恵が入り込んできた。ワックスを大胆につけた、空気間のある髪の毛を、サイドで一つにまとめている。アイラインで真っ黒になった細めの目に好奇心を浮かべていた。
「何何? 私も入れてよ」
七恵の行動は一つ一つ大胆だ。時々、引いてしまうときもあるけれども、そこが彼女の魅力だと思っている。
クッキーモンスターの小さなマスコットや、色鮮やかなコサージュなどが取り付けられた、派手な鞄を机の上に下ろして、一息吐き、七恵は自分の席に腰を下ろした。足を組んだときに、短いスカートが捲れて、白い太腿が露になった。
「圭のバンドの話」
「ああ、軽音部だったね」
「そうそう。で、バンドの大会が近いって言うから、見に行きたいなあって思ったねん」
「うわー、いいじゃん! 行こうよ、行こう」
正直なところ気分は乗らないでいる。確かに私は自分のバンドグループが好きだけれども、下手であるのは認めざるを得ない事実だ。――聴かれたくない。どこかでそう思っているけれども、七恵も朝美も執拗にせがんでくるので、仕方なく許可することにした。今日から本気で練習しなくちゃ、と心のどこかで思い直したところで、担任の先生が教室に入ってくる。
グループ全体、よりいっそう大会に向けての意欲が高まっていた。が、演奏の方は相変わらず下手級の下手で、どうも捗らないでいる。喜代は泣き叫ぶような甲高い声を発し、重たげなベースの弦を指で引掻いた。兵頭は真面目そのものの表情を浮かべているが、どこか余裕がなく、切羽詰ったリズムばかりを刻んでいる。私も私で、先ほどから二度ほど鍵盤を踏み誤った。
と、そんな無秩序な旋律の中に、際立っておかしな音が響いた。間延びした、情けない音だ。
いくらなんでもみんなその音に気が付いたらしく、その音が発生した方向を見つめた。真田のギターの弦が、真ん中ではっきりとちぎれてしまっている。緩んだ弦は、蛇の死体のように、地面に平行にぐったりとしていた。
音楽が止み、沈黙の中に真田の乾いた笑い声が滲んだ。その瞬間、ドラムの前にいた兵頭が、乱暴にスティックを投げ捨て、真田の元に無言で歩み寄った。顔を見なくても、怒っていることがわかる。沈黙の中に、一触即発の空気が流れた。兵頭に睨み付けられる真田は、一瞬硬直した後、いつものように温和な笑みを浮かべた。
「やっちゃった」
真田が暢気にそう言った瞬間、まがまがしいオーラがどっと流れ込んできた。兵頭が真田の胸倉を掴み、今までに見たことがないほどの形相を浮かべている。真田はいい加減事態の深刻さを悟ったのか、口を噤んで兵頭を睨み返している。
「弦が切れるなんて、お前の手入れ不足だろう」
真田は何も言わず、ぼんやりと空間を眺めていた。
「やる気がないなら辞めてしまえ。俺は少なくとも本気なんだ。足を引っ張るな」
「んだよ、お前こそ威張ってんじゃねえよ。プロじゃあるまいし。第一、俺と同い年だろ」
真田が耐えかねてそう反論した瞬間、兵頭の拳は、真田の右頬に命中し、その勢いに任せて彼は地面に倒れ込んだ。
緊迫感が一瞬にして解けて、喜代が急いで真田に駆け寄った。私はその光景に虚しさと絶望を感じ、ただただ呆然と立ちつくして眺めることしかできなかった。喜代は、大丈夫? と言いながら、真田の体を揺すっている。真田はゆっくりと上半身を起こして、殴られた頬を掌で覆いながら、きっと兵頭を睨み付けた。
「何すんだよ、てめえっ!」
普段の真田からは考えられないほど、憤りに満ち溢れた鋭い声を発し、兵頭に掴みかかろうとした。
「やめてよぉ!」
その間に喜代が咄嗟に飛び込んで、結果的に真田は喜代を突き飛ばすこととなった。そのとき、喜代の体は兵頭のドラムの方向に飛んでいった。ガン、とものすごい音が教室に響き、更なる絶望が視界を覆った。足の力が抜けて、地面にへたりこむ。喜代はドラムの金属部分に額を打ちつけ、地面に伏せたまま起き上がらない。時間が止まったようだ。頭が回らない。
雑然とした空気が漂う中、全ての景色がスローに見えた。泣きたいとは、今まさに私が感じている感情だ。
3
相変わらず東京は人が多い。それに春だというのに、ずいぶん暑い。移動手段である赤茶色の年季の入った自転車を道端に止めて、朝美が来るのを待った。空は私をあざ笑うかのように、すっきりと晴れている。私の横で七恵は、彼氏が欲しい、と先ほどからずっと唸っている。結構な声量でぼやいているためか、一度、二十代前半くらいの男性二人に声をかけられていたけれども、七恵はまるで二人の存在を消しているかのように、彼らを無視した。七恵は面食いだ。顔が好みでなければ男は誰も受け入れない。逆に言えば、好みなら誰でも受け入れるのだけれども。
幸いにも、喜代の怪我はたんこぶになっただけで、額に湿布を貼るだけで済んでいる。
しかし、怪我は軽傷でも、私たちのグループに生じた亀裂は大きく、あれ以来一度も練習をしていない。考査明けに、演奏会があるというのに、私たちの音楽は最悪、あるいはそれ以下のままだ。
やがて、黒いサロペットと、ボーダーのシャツを器用に着こなした朝美が現れた。
「朝美、おっそーい」
七恵が口を尖らせて言った。“彼氏欲しい”の復唱は、ひとまず止んだ。
「ごめんな、今日朝一で帰って来たばっかしやから」
朝美は少し息を切らせている。短めに切られた前髪が、汗で額に張り付いている。
「またお兄さんのところ?」
私が端的にそう言うと、朝美は少し嬉しそうな顔をして笑い、頷いた。
「ブラコンだねえ、朝美」
七恵が茶化すようにそう言った。朝美は苦笑いを浮かべている。
ブラコン、か。私には兄弟がいない。生粋の一人っ子だ。だから兄を思い遣る気持ちなんてさっぱりわからないけれども、朝美のはブラコンとはまた違う気がした。相思相愛で、お互い純粋に思い遣っているのだ。だから朝美は大阪にいる兄のところにわざわざ会いに行くのだし、兄は朝美を養っているのだろう。
カラオケボックスの中は、様々な音楽が入り混じり、複雑なメロディを奏でている。低音のドラムの音が際立って心臓を揺らし、どこぞのくだらないアイドルが、酷い歌声で歌を歌っている。顔は可愛いけれども、この音痴さは喜代級だ。私は少し笑いながらも、不安になった。人を笑っている場合じゃない。こっちももっと頑張らなくては。
部屋に案内される途中、悪趣味な金髪の若い男が、私たちに――というより、朝美に――言い寄って来た。朝美は少し体を強張らせていたので、私が強引に二人の間に入って、男を無視してさっさと歩く。全く、勤務中にナンパなんて世の中どうなっているのだ。眉を顰めていると、七恵はその男とメールアドレスを交換していた。
部屋の中は妙な熱気をもっていた。煙草のにおいと湿気のにおいが入り混じり、不快感が増す。そんな部屋でも気にせずに、七恵はにこにこ笑いながらソファに座り、本を開いた。じゃあ最初はこれを歌おうか、と言って七恵が入れたのは、某有名アニメのオープニングテーマだった。あはは、と三人で笑い合いながら、その曲をみんなで大合唱した。
その歌が終わった後は、七恵が早速自分の歌いたい曲を送信する。最近ラジオやテレビ番組でよく流れている、女性シンガーの曲の前奏が、部屋の隅に取り付けられたスピーカーから盛大な音量で演奏され始める。滑らかなギターと、テンポよいドラム。さすが、プロは違うな。その音楽に聴き入っていると、七恵の甲高い声が混じり、気分が萎えた。ああ、ここにも音痴がいる。そう思いながら、私は自分の歌いたい曲を探した。
「あー、もうちょっとで考査だあ」
昼の暑さが嘘のように、冷ややかな夜の空気を皮膚に感じながら、七恵はそう叫んで一人落ち込んだ。
考査か。そういえば、兵頭はどうなったのだろう。喜代が怪我をしてから、部活動は休止しているため、兵頭ともすっかり疎遠になっている。
「圭はもう勉強し始めてるん?」
朝美が髪を撫でながら言った。私は元々英語以外点数を採る気はないし、第一今は他のことが気がかりで、勉強する気にもなれない。
「してないよ。ていうか、する気ないし」
そう言うと、朝美が安心したように笑った。
私と七恵は駅からここまで自転車で来たけれども、朝美は徒歩で来たらしく、私たち三人は、自転車を押しながらたらたらと歩いて駅まで向かった。駅に着くまでの間に、二組の男子に声をかけられた。多分いずれも朝美狙いだろうけれども、やっぱりここでも七恵がしゃしゃり出てきた。朝美は声をかけられる度に、困ったように笑って後ずさりする。私はそんな朝美を守るべく、鋭い目つきで男を睨む。
かつて髪がここまで短くなかった頃は、よく街を歩いていると男性に声をかけられた。ただそれは、私にとっては鬱陶しい以外の何でもなかったし、時には強引に手首を掴んでくる奴までいたので、私は一番男性に声をかけられにくいであろう髪形に変形した。男並みに髪を短く切る。そうすれば、声をかけられることもうんと少なくなったし、生きていく上で便利だ。大体ナンパに頼った出会いなんてろくなものがない。私はかたくなにそう信じている。
「朝美も髪の毛切っちゃえば、言い寄られなくなるよ」
私は朝美にそう提案してみたけれども、結局彼女はへらへら笑うだけだった。多分、朝美は髪型を変えたりしない。今の自分が好きだから。
その後駅で朝美と別れた。会社帰りのサラリーマンで溢れかえった駅は暑苦しくて不快だ。二酸化炭素がむっと立ち込めて、人の汗や香水のにおいに揉みくちゃにされる。私は七恵と二人で会話をしながら、人波を避けて歩いた。会話といっても、殆ど七恵が一方的に自慢話をするばかりなんだけれども。さっきメアド交換した人からメール来たあ、とか。私の美的感覚では、その良さはいまいちわからない。
ホームに降りても、人がどっさりいることには変わりはなかった。いずれもみな、疲れきった顔をして去って行く。白い照明が、その表情をはっきりと照らした。十番線に電車が参ります――。駅内の放送は相変わらず。注意を促された後、向こう側のホームに、見慣れた顔を発見した。切れ長の目、綺麗な形の眉。高い鼻。そして前髪には金色のメッシュ。
「兵頭?」
その姿を見つけた瞬間、私はそれを追いかけた。
「ちょっと圭?」
「ごめん、先に帰っといて」
それだけ言い残すと、私は早々と階段を駆け上がり、十番線のホームに向かって全力疾走した。電車がホームの中に、スピードを徐々に緩めて入ってくる。人は絶え絶え流れ込んできて、金色のメッシュを見失いそうになる。やっとのことでホームに降り立つと同時に、電車のドアが開いた。私はメッシュを捕まえる。細い手首が、私の掌の中にしっかりと収まる。切れ長の目が、私を見つめた。
「……圭?」
「ああ、やっぱり兵頭だ」
私がそう言った後、人が密着し合って閉じ込められている直方体が入り口を閉じ、どこかへ走り去っていってしまった。箱に飲み込まれてしまった人々がいなくなった駅は閑散としていた。ホームレスのような風貌の草臥れた老人と、携帯電話で会話をする若い女性。それから私と兵頭。その他はみな、階段を上ってどこかに行ってしまった。
兵頭の表情は、酷く沈んでしまっている。頬にはにきびができているし、目の下には隈があった。
「ずいぶん衰弱したね」
「まあな。最近徹夜だから」
兵頭が少し悲しそうに言った。
「音楽はもうやらないの?」
「……そうなるのかな」
「何で」
「できねえだろ、あれじゃ」
兵頭は、喜代が怪我をしたのは自分のせいだと思っている。突き飛ばしたのは真田だけど、グループを乱したのは確かに兵頭だ。でも、あの時みんな、精神状態は切羽詰っていた。だから、元々グループ仲はこうなる運命だったのかもしれない。
「謝ったら、みんな許してくれるよ」
「……そんなに甘くないよ。真田はすごく怒っているし、落ち込んでいる」
兵頭は沈んだ声でそう言った。その後、静々とどこかへ向かって歩いていく。
「どこ行くの?」
「タクシーで帰る」
私は兵頭の背を追わなかった。追える雰囲気ではなかったのだ。音楽の意欲を失った兵頭の背中は、墓地を彷徨うミイラのようだった。静かなホームには、若い女が話す声しか聞こえない。――別れるって、何よ。もう一回考え直してよ。ねえ、ねえ、ねえってば、御願いだよ。ねえ。私、あなた無しじゃ生きていけないの。……涙が零れた。
4
外では雨が降っている。ああ、かったるい。
薄っぺらい紙ごときに一喜一憂できる人間はいたって幸せだ。私は蛍光のマーカーで下線を引かれた部分を見て溜息が止まらない。ううん、酷い。数学は欠点ギリギリだ。計算ミスが目立つ。英語はピリオド抜けで九十九、オーラルはスペルミス。見直しが基本的に嫌いなので、悔恨のミスばかりをしてしまう。ううん……情けない。
「圭、何点?」
七恵が不安げな表情を浮かべて近寄ってきた。おおかた、自分よりも低い点数の人間でも探しているのだろう。
「五百三十」
「何それ―ずるい!」
そう言ったかと思うと、七恵はすぐに方向を切り替えて芳子ちゃんの元に向かった。芳子ちゃんは勉強がからっきしできない。小テストでは、いつも下位をさまよっている。
雨音は更に加速して、窓の外いっぱいに水気を与えた。髪に付いていたワックスは溶けて、前髪がへにゃへにゃになっている。
「今日はテストの鬱憤を晴らすらしいで」
なかなかの好成績に満足げな朝美は言った。
「どこで?」
「マルキュー」
「こんな雨なのに?」
「昼には晴れるらしいで」
「ふうん」
ただ、今見る限りでは一向に止む兆しが窺えない。多分マルキューで、七恵は服でも買うのだろうけれど、雨の中の買い物は憂鬱だ。ああ、どうか止んでくれ。
心の底から願ったから、朝美の言ったとおり、朝の雨が嘘のように昼間の天気は安定していた。コンクリートに染み込んだ雨水が、雲の隙間から注ぐ日光に照らされて、どんどん乾いていった。蒸し暑さに眉を顰めたが、雨の中の買い物よりましだろう。
プリクラを撮った後、それをハサミで三人分に切り分けた。女子高生特有の、形の崩れた字で、カラフルに“仲良し”と書かれている。
その後はまさに七恵の独壇場だった。ビルの中の、名前の通ったブランドの店を、一つ一つ時間をかけて徘徊した。ブランドを買いたがる人間の意図は、私にはよくわからない。小さくロゴが入っているだけで、ただのシャツが数万円に変わるのだから。
私は七恵がぶらぶらしている間に、可愛いピアスを見つけたのでそれを買った。小さな球の中に、さらに小さな星のビーズが押し込められている。控えめなピアスは上品で可愛らしい、と私は思う。
一方で七恵はブランド物の高価なワンピースを買っていたけれども、七恵は私よりも頭一つ分背が低いので、それは似合わないと思った。だけど注意したりしない。本人が満足しているし、第一それに至る仲ではない。
ビルの外に出ると、夜はぐっと濃くなっていた。私たちは近くのファミリーレストランで簡単に食事を済ませた後、湿気で生暖かくなった夜の街をブラブラ歩いた。駅までの道にも、興味を引くお店はたくさんあって、その度に止まって店内を物色した。最後に、私は駅のすぐ近くの本屋に寄ってもらった。今日発売の音楽雑誌があるのだ。店内は傘を持った帰宅途中のサラリーマンでいっぱいだった。狭い店内で立ち読みをする迷惑なスーツ姿の人々の間を潜って、何とか音楽雑誌のコーナーにたどり着いた。最新雑誌はきちんと並べられていて、私は迷いなくそれを手に取った。
――そういえば、明後日に演奏会控えていたんだっけ。
血の気が引いていくのがわかった。額に汗が浮き始めた。今はまず演奏なんてしている状態ではないほど、バンドメンバーの仲は険悪だ。でも、このまま放って置くわけにはいかない。なんせその演奏会のために、今まで部活動に励んできたのだから。雑誌の会計を済ませた後、私はふらふらと外に出て、そして決意した。――明日は練習をする。そしてぐちゃぐちゃになったパズルのピースを、また一つ一つ穴に埋めていってやる。
三人に強引にメールを送りつけ、翌日の放課後は何とか四人全員が揃った。ただしみんなどこかぎこちない。普通に話をするのは喜代くらいなものだった。男二人は、目も合わせないし口も動かさない。俯いたままじっと突っ立っていた。
「とりあえず、明日の演奏会は出ようよ。そのためにみんな頑張ったんだからさ」
「そうだよね、圭の言う通りだよ。頑張ることに意義があるんだから」
そう言って、強引に演奏のセッティングをさせた。不安定な調子で曲がたらたらと始まる。いつもめちゃくちゃな旋律だが、今日はいつも以上だった。息が全く合っていない。そして演奏に覇気がない。何もかも放棄してしまったような、自暴自棄さがだらしない。キーボードを踏む指が、何度も何度も縺れて転んだ。私がしっかりしなくては、と喝を入れてみるけれども、ちっともうまくいかなかった。ふらふらと商店の定まらない演奏が終わった後、兵頭も真田も、さっさと片付け済ませて教室を出て行った。
「ちょっと、待ってよ二人とも」
喜代が思わず教室を飛び出して、真田の後を追いかけた。私も少し躊躇った後、兵頭の背中を追いかけた。夕陽が開放された窓から差し込んで、廊下をオレンジ色に染めている。二人の影が、長く濃くなっていた。
「兵頭、いい加減にしてよ」
私がそう言って彼の手を引っ張ると、彼は無抵抗で私の動かされるままになっていた。その無気力な兵頭を窺う限り、私が兵頭そのものを修復するのは可能なのだろうか、と自信さえ失われてしまった。ぼさぼさの髪の毛の中でくっきりと目立つ、金色のメッシュが夕陽に照らされて眩しい。
「演奏会、ずっと心待ちにしてたじゃん。いい加減に目を覚ましてよ」
「放っといてくれよ」
「何で……」
「成績不振。親に言われた。音楽辞めろって」
「……はあ?」
私は半ば怒りを含めてそう言うと、仕方ねえだろう、と強く言われて黙りこくった。
「だからもういいんだよ。明日は適当にやる」
「何が適当よ。あんた、まだ真田にも喜代にも謝ってないくせに。逃げるの?」
「逃げたくはないんだけど」
そこから兵頭は言葉を濁して、再び背を向けた。なんなのよ、最低。その背にかけてやるはずだった罵詈雑言が、私の体の中に溶け込んでいった。今、兵頭に言う言葉はそんな言葉ではない。世界は眩しかった。私の中に漂っている暗闇を、よりいっそう暗く誇張するくらいに眩しかった。
5
演奏会当日、何だかんだでみんな集まったものの、心はバラバラのままだった。喜代は頻繁に真田に話しかけ、励ましていた。真田は喜代には少し心を開き始めたようだが、兵頭との距離は一向に縮まる気配がなかった。
舞台裏では、様々な学校のバンドグループが、結束力を見せつけるようにして、円陣を組んだり、号令をかけあったりしていた。
いよいよ一組目の演奏が始まった。
一組当たりの持ち時間は五分で、大体十組ちょっとがこの演奏会に参加している。
私たちの出番は最後。
最後に回されるグループというのは、演奏の技術も、大抵盛り上げる能力もあるグループが抜擢されているのに、何故ここが選ばれたのかというと、兵頭のドラムの技術と、私の音楽の経歴が買われたからだ。個人個人で賞賛されたところでちっとも嬉しくないし、第一不安で仕方がない。技術面ではちっとも及んでいないのは確かだが、今は百パーセントの力すら出せない状態なのだ。そう考えるだけでも、薄地のキャミソールに汗が滲んだ。浮き上がったファンデーションを、あぶらとり紙で押さえつける。落ち着かない……。そう思っているのはみんな同じようで、首元にぐっしょりと汗をかいていた。
私たちの前のグループが、バラード調の落ち着いた演奏を終了させた。滑らかな拍手が会場に押し寄せてきた。生唾を飲み込んだ。私は次にこの拍手を受けなければならないのだ。大抵、最後のグループに対する拍手は、演奏の開始も終了も、他のグループよりもずいぶんと大きいから、私は余計に不安になった。
ワックスできっちり決めたヘアスタイルと、アイラインでくっきりと形どられた目、短いスカートから伸びる足を、舞台裏に設置された大きな鏡でチェックした後、私は舞台に立つ人間であることを頭に植え付けた。喜代もガチガチと震えながら、自分に気合いを入れている。真田はギターの音を再確認している。しかし兵頭は、顔色一つ変えずに、ただ無心に舞台へと向かった。私たちの学校名が呼ばれ、舞台袖から慎ましく四人が現れ、それぞれのポジションに着いた。会場一体から発せられる拍手の音に、私たちはずいぶん怖じ気付いた。真田はすっかり目を伏せてしまい、喜代の耳は真っ赤だ。私の足も小刻みに震えている。
そんな中で、淡々としたスティックの合図が聞こえ、私たちは演奏に取り掛かった。その瞬間、観客の顔色がみるみるうちに変わっていくのが手に取るようにわかった。
曖昧なドラムが不安定なリズムを刻み、たどたどしいベースの音と、まるで音の成り立たないギターがそこに割って入り、リズムを取り返そうとするキーボードの安定した音も、時に鍵盤を踏み誤ったり、更に加わるのが喜代の酷い歌だった。聴いていられない曲に、観客の苦い顔が会場いっぱいに充満していた。「何だこりゃ、今回はこんなにレヴェルの低い大会なの?」と、最前列の若い男が、隣の男にポロリと零すのを聞いた。私たちは更に居場所を失って、隅っこで縮こまるような、謙虚で最低な演奏をした。
疎らな拍手を背に、私たちはいそいそと舞台裏に戻った。しかしそこにも、他のバンドメンバーからの冷たい視線と溜息と陰口があった。
「お前らのせいで、俺らまで見くびられたじゃねえか」
ある男が私たちに近寄るなりそう怒鳴った。兵頭は顔色一つ変えず、その男を通り過ぎて着々と帰宅準備を済ませていった。真田は少し罰が悪そうに俯いた。喜代は悔しそうに口を歪めながら、瞳を潤ませていた。私は反論する言葉が見当たらなくて、ただただぼうっと突っ立っていた。
「本当、最低だよ。私たち……」
男が去った後、トイレの隣のベンチに腰を下ろして、喜代を慰めていたところ、そう零した。
「みんなの価値を一瞬にして下げちゃったんだ。ちゃんと練習もせずに、一人の力で売れちゃったから。だからみんな、納得いかないんだよ」
「そうだね」
喜代は涙でぐちゃぐちゃの顔にタオルを当てて、真赤な目を伏せながら悲しそうに呟いた。私はそんな喜代の華奢な背中を撫ぜながら、ほう、と溜息を吐いた。兵頭も真田も、もうそこにはいなかった。喜代の額には、小さな小さな傷跡があった。
「絆というものはー」
ふと、喜代は歌を歌い始める。涙を引き摺った、冴えない鼻声で。
「目にはー見えーなーいからー保存はーできーないしー」
「止めてよ」
その歌は、このバンドを結成してすぐ、私と兵頭で作曲をし、バンドグループ全員でそれに歌詞をつけた曲だ。初めての作曲活動といい、ダサい歌詞といい、拙いその作品は、私の羞恥心を必要以上に擽りあげた。
「止めないよ。今はまさに、絆とか結束力とか、そういうものが欠如しているんだもの」
そしてまた、歌い始める。「触れることーもできないけれーど」と。
「水を与えればー育ってゆーくからー」
私は羞恥心交じりに、ぽつぽつと過去の記憶を辿り返した。すると喜代は明るく笑った。そして声は更に大きくなる。控え室にいる全員が、怪訝な顔でこっちを見ているけれども、ちっとも気にならなかった。
「このー手はずっと離さないでーね!」
二人の声が、雑然としたその場所に、高らかに響き渡った。
純和風、木造平屋の大きな家が、威風堂々と私の前に立ちはだかった。インターホンを押すのに少し勇気が要った。恐る恐る、震える人差し指を伸ばす。ピンポーン、という小さく高い音がした。暫くの後、大きな門がゆっくりと開けられる。
「あ、ども」
「……圭?」
兵頭は緑色のTシャツとジーンズという、純和風の家とは正反対のラフな服装をしていた。案内されるままに門を潜ると、そこには綺麗に整備された庭園が広がっていた。細々と伸びる松の木や、丸みを帯びた白い石が一面に敷き詰められている。息を飲み込み、飛石をゆっくりと渡った。石は大きな門から、横開きの大きなドアまで続いていた。玄関先に入ると、慌しく女の人が出てきた。四十台前半の、日本的な落ち着いた雰囲気のある綺麗な女性だ。女は白い清潔そうなスリッパを私の前にきっちりと並べてくれて、私は思わず腰が低くなって会釈した。すると女は白い肌の上にくっきりとした笑顔を浮かべた。
「こんにちは。和久がいつもお世話になっております。私、和久の母でございます」
「あ、こちらこそ。私は和久君のお友達の桐嶋圭と申します」
丁寧な扱いを受けると、つられて丁寧になってしまう。今まで要ったこともないような畏まった言葉を聞いて、兵頭はやや笑った。私は差し出されたスリッパに足を通した。柔らかなタオル地が、私の肌を優しく包んだ。兵頭に案内されるままに、広い家の廊下を歩いて、とあるドアの前で足を止めた。そこに開かれたのは、純和風の外装とは打って変わって、八畳ばかりの広々とした洋室だった。きちんと整頓されていて、無駄なものは何一つもない部屋は、だだっ広く感じて、落ち着かなかった。太陽の光が、開放された窓からさんさんと降り注ぎ、部屋の中は十分温かかった。
「で、何?」
兵頭は少し苛ついた様子で床に座り込んだ。私も適当な場所に腰を下ろした。
「何って、本当に辞めちゃうの?」
「昨日も言っただろう」
「言ったけど、私だって昨日言ったとおり。まだ喜代にも、真田にも謝ってないんだよ」
「そうだけど」
「逃げちゃ駄目だよ、せめて謝ろう」
兵頭は俯いた。時間だけが静かに流れた。部屋の中が殺風景なので、沈黙が余計に静かに感じた。
「そう言ったって、俺、何したら許してもらえる? 大したことじゃないのに、真田にキレて殴って。喜代怪我させて。雰囲気乱して。今日の演奏会も最悪で。俺、合わす顔ないじゃん」
「……でも、みんな優しいんだよ。仲間じゃん」
「そうは言ったって、今日の件は皆怒ってるよ、多分」
「……怒ってないよ」
「嘘だ」
「本当」
暫く睨み合った。兵頭は心底自信のなさそうな表情を浮かべている。私はあくまでも強気で立ち向かった。また、絆を取り戻さなくてはならないのだ。――この手はずっと離さないでね。最初に、みんなそう歌ったではないか。今更そう思い出して強く思った。
「……そうだ! みんなに誠心誠意で謝ろう」
私は一ついい案を思いつき、突発的に言うと、兵頭は少し不安げに視線を持ち上げた。
「どうやって? 誠意なんてどうやったら伝わる?」
「大丈夫、これを使うの」
私は鞄の中から、ハサミと安全剃刀を取り出して、兵頭に見せた。新聞紙を床に敷いてもらい、その上に兵頭を強引に座らせた。
「何するつもり?」
二種類の刃物を掲げる私に向かって、不安げに兵頭は尋ねた。私は兵頭の緑色のTシャツを強引に脱がせた。
「何って、謝罪でしょ? これが一番手っ取り早くて、一番誠意が伝わる方法」
私はハサミを、兵頭の長く伸びた黒い髪に充てた。ジョキジョキ、という開放的な音と共に、黒い髪がはらはらと地面に散った。兵頭の顔色が、一瞬にして青くなる。
「まさか!」
「動かないで、頭切っちゃうよ」
そう言うと、兵頭は黙り込んでまた動かなくなった。一部短くなった後頭部の髪を支え、またハサミを充てる。ジョキ、ジョキ。形など考えずに、豪快に切り刻んでいく。金色のメッシュも、ハサミの間に飲み込まれて消えていった。地面に落ちた金髪が、窓から降り注ぐ太陽の光にきらきらと輝いている。私は黙々とハサミを走らせた。ある程度短くなったところで、疎らなそれらの毛を、全て安全剃刀で剃り落とした。今まで髪に守られてきた頭部の皮膚は真っ白で、とても短い毛がちくちくと生えて、灰色に見える。形のいい眉毛が、隠されるものなくキリリと姿を現した。手鏡を突きつけると、「なんじゃこりゃー」と、兵頭は頭を撫ぜながら絶叫した。私は今までにない兵頭のヘアスタイルに、傍らで腹を抱えていた。
「こんなんで許してくれるのかな?」
「大丈夫、絆は水をやれば育つんだから」
そう言うと、兵頭は眉を顰めた。
「何そのダサい言葉」
「脳みそ探り返したらわかるんじゃないの?」
少しだけ気分が晴れた気がした。私は家に帰って明日のことを考えた。兵頭を部活に連れて行ったら、きっと真田も喜代も笑うはずだ。
この間買ったままになっていた音楽雑誌を、寝る前にはたと開く。大好きなバンドの特集が載っていて、思わず目を奪われた。美人の女性ヴォーカルと、男性数人の高度なバンドだ。ヴォーカルはとても歌が巧くて、その中でも特に、私は彼女が歌う英語の歌詞の曲が大好きだった。あそこまで歌を滑らかに美しく表現できる人は、彼女しかいないと思った。
次のページに進んだときに、私は一点に目が釘付けになった。これだ、と私は心の中で大きく笑った。
6
次の日学校へ行くと、七恵と朝美の苦い笑みに迎え入れられた。私もその笑みには、苦笑いで対応した。少しだけ、三人の絆が強くなった気がした。謙遜しているけれども、その笑みに嘘偽りはなかった。下手なお世辞を言われるよりも、幾分か気分が軽かった。
部活へ行く際、私は兵頭に赤いキャップ帽を被せて、強引に手を引っ張って部室まで連れて行った。まだまだ兵頭は不安が多いらしく、少し躊躇いがちについて来た。ドアを開くと、そこには喜代が明るい笑顔と共に立っていた。
「二人のこと、待ってたんだよ。真田が、話があるって」
「真田が?」
すると真田は、兵頭のドラムの影からひょっこりと顔を覗かせた。その瞬間私たちは呆気にとられた。真田の頭の形がくっきりと目に映る。短すぎる髪は、まさに昨日の兵頭だ。
「えっと、雰囲気潰してごめんなさい。兵頭、怒鳴ったりしてごめん。あと、昨日の結果も、ごめん」
「さ、さ、真田……」
私が言葉に詰まっていると、おもむろに兵頭は帽子を脱ぎ捨てた。すると今度は、向こうの二人が口をあんぐりと開けて兵頭の頭をじっと見つめている。
「えっと、雰囲気潰してごめんなさい。真田、文句言って、それに殴ってごめん。喜代も怪我させて悪かった。あと、昨日の結果も、ごめん」
驚愕の後に訪れたのは、みんなのげらげらとした笑い声であった。やっぱり、いつものメンバーがここにいる。……それは少し違う。いつも以上のメンバーがここにいるのだ。結束力の高まった、私の大好きなメンバーが。
雰囲気が和やかになったところで、私が昨日読んだ雑誌の記事を見せると、メンバー全員が更に驚いた様子の表情を浮かべた。――バンドで全国デビューをしよう。という、私の大好きなバンドが所属する事務所のオーディションの記事だった。そこは非常にレヴェルが高い上、オーディションを受ける人数が毎回半端ではないらしい。そこに私たちみたいな下手くそなグループが立ち向かおうと言うのだから、それまた困った話だ。
「無理だろ、だって俺、まだチューニングもできねえんだぜ」
真田が苦笑いしながら言った。兵頭も大きく頷いている。
「……無理かな?」
そんな中、賛同してくれたのはやっぱり喜代だった。
「受けなかったら勝率は0パーセント。だけど、受けたら1パーセントでも勝機があるんだよ。勿体ないじゃん。1パーセントを見す見す見逃すの?」
そう言うと、兵頭と真田はお互いの顔を見つめ合った。私と喜代は満足げに歌を歌った。
オーディションの結果は言うまでもない。
相変わらずのベースとギターと歌唱力に、審査員の溜息で会場が満たされた。歌った曲は、拙い歌詞と曲でできた、本当の私たちのデビュー曲だ。
「酷い曲だ」
「酷い声だ」
「酷い演奏だ」
審査員の評価は最低中の最低で、結局曲を最後まで聴いてもらえなかったけれど、私たちはそれでも十分に楽しかった。精一杯演奏した。最低じゃなく、最高の演技だと自画自賛するほどだ。ただ、目の付けどころの違う審査員は、やっぱり兵頭の実力を見抜いて、兵頭だけをスカウトした。技術のある人間だけを抜粋して、新たなバンドを作るという企画もあるらしい。しかし、兵頭はきっぱりとこう言った。
「俺はこのメンバー以外、誰ともデビューする気はありません」
夕陽がビルの陰に沈み、東の空がもう深い夜に侵食されつつある。太陽と降板した月は徐々に位置を高くしながら、私たちを優しく見守った。東京の夜は暖かい。歩き行く人々が、私たちには目もくれず過ぎ去っていく。街のネオンにも負けない、力強い星の光が、ビルの隙間から堂々と輝いている。
「すっごい星ー」
喜代が感嘆した。みんな思わず足を止めて空を眺める。後ろの人に怪訝な顔をされようと、私たちは一向に気にしなかった。
「本当だ」
私がそう言うと、同じヘアスタイルの後頭部が、上下に揺れた。
「これからもこの四人でいっぱい歌を歌えますように」
喜代が空に向かって、大きな声で叫んだ。私たちはあはあはと笑った。
「喜代、願い事は流れ星に頼むんだよ」
「いいの、この星の方が、どの星にも負けない気がするから」
喜代が笑いながら言った。額にはもう、傷は見えない。