優しい火
1
「いつかさ、世界から人間が滅びるらしいぜ」
ノストラダムスの大予言以来のばかばかしい発言だ。私は眉を顰め、ばっかじゃねーの、と亮を卑下するような顔で彼を見つめた。ほんとだっつーの、といきり立って私に抗議する亮の姿は、まるで高校生なんかに見えない。
教室は殺伐としている。誰もいない教室に、私と亮が二人だけ、提出物を忘れてしまったがための罰として、居残りで問題を解かされている。数学だ。数学の教師はこのクラスの担任で、中年太りと冴えないハゲ頭が特徴の、短気で生徒からはずいぶんと不評な先生だ。私は絶対値の方程式で手を止めて、考え込む。数学は中学生のときからの苦手分野で、更にレベルアップした高校の内容なんか私にとってはちんぷんかんぷんなのだ。赤く沈んだ夕焼けの光がどっと教室に流れ込んで眩しい。開放された窓からは、夕方のくすみのない清清しい空気が入ってくる。亮の顔は夕陽のせいで少し赤らんでいる。
「昨日見たテレビで言ってたもんね。しばらくの後、人類が滅びるってさ」
一度席に座った後、落ち着いた様子で亮は言った。シャープペンシルを指でくるくると滑らかに回しながら、プリントとにらめっこをしている。亮は基本的に頭が悪い――と、本人が言っていたのでそのまま引用してみた――。だから偏差値六十五のこの高校に入学できたのは奇跡だ、とちっとも誇らしくないのに、彼は胸を張っていっていた。
私はプリントの端に数直線を書いた。方程式を解いた後に出てきた答えの共通部分を明確にするのだ。数直線を書かなければ、数学が苦手の私には理解しがたい内容なのだ。
「で、人類が滅びた後はどうなるの?」
“−3<x<2”とプリントに記入した後、一息吐いてそう言った。子供みたいな亮が、頬を膨らませているのをシカトするのも気が引ける。亮はシャープペンシルを回すのを止めて、目を輝かせてこっちを振り返った。自分の発言に私が返答をしてくれたことが嬉しいらしい。本当に単純な人だな、と改めて思う。そんな純粋な性格でいられるからこそ、亮はクラスでの人気者の地位を確立しているのだろう、と。
「聞いて聞いて。でさ、人類が滅びた後は、イカが進化して陸に上がってくるんだって。そんで、その後イカが知識とか文明とか引き起こして、きっとイカ社会が確立するんだってさ。すっげーだろ」
イカ社会、という言葉に目をきらめかせて言う亮を、いまいち理解できないでいた。だいたい、イカに地球を占領されることを妄想して、それほどまで目を輝かせるなんて、利己的な人間に生まれた身、そうそうできるものではない。私はイカ社会を一人で連想してみた。透き通るように白く、つややかな肢体を用いて陸上に這い上がり、ぐにゃぐにゃの体を引き摺るようにして陸上で生活し、果物や野菜を育ててそれを餌にする。やがて陸上に適応しだした体は歩くのも軽快になり、言葉が発達し相手とのコミュニケーションを円滑に行い始める。そして文明が発達し、字が生まれ、生活様式が生まれ、文化がうまれ、知識が生まれ、道具が生まれ……人間と同じ経路を辿って生きていくイカの姿を考えると、違和感と憤りが体の奥底に宿った。今は寿司屋さんで皿にちょこんと乗って現れ、人間に食べられる身なのに、いつしかこの地球を威風堂々と歩くのだ。そんなこと、考えられたものではない。
「ちっとも凄くないわよ。イカに地球を占領されるなんて、ばかばかしいにもほどがあるわ」
私は瞬時に反論した。そーかなー、と能天気な声で言う亮を見ていると、彼はイカに地球を侵略される惨めさなんてどうでもいいらしく、イカが社会進出をすることに興味を抱いているようだった。本当にガキだ。私はそう思いながら、早々と帰りの支度をした。もう帰っちゃうの? と、亮が不満そうに言ったけれど、亮のプリントは未だに半分も埋まっていない。勿論、と厭味ったらしく笑って答えた後、亮だけをオレンジ色の教室に取り残してさっさと退却した。冷たいなあ、と亮は細々と呟いていたけれど、私は特に気にしない。
イカ社会、ねえ。誰もいない帰り道で私は一人そう思い、鼻であしらった。イカなんかに地球を侵略されてたまるか! コンクリートの塀と電柱が立ち並ぶ、発達した社会の知恵を眺めながら、私はそう思った。
2
帰宅すると、リビングで千夏さんは、またしても不可思議なことをしている。
「お帰り、芳子」
「何それ」
リビングにある大きめのダイニングテーブルの上には、縦長に切られた鮮やかな色の色紙がたくさんと、赤いスティックのり、はさみ、そして折り紙の端くれであろうこまかな紙のゴミが、足もとにたくさんちりばめられていた。百円均一の袋であろうそれの中には、十本入りのカラフルなろうそくの入った箱が十箱、そしてケーキホールやらカラースプレーやら、実に様々なものがたくさん詰め込まれていた。千夏さんは縦長の色紙を円形に丸めてのりで貼り付け、それを何度も繰返してカラフルな鎖状のものを作成している。ほっそりしていて綺麗な指先は、すっかりのりで汚れてしまっている。紙でできた、長々とした鎖を見ると、小学校のときのお楽しみ会なんかを思い出す。懐かしい感じがした。ただ、それは教室にあるからこそ親しみ深いものであって、実際家にあるとなると、どうも違和感が生まれて仕方が無かった。場違い、というべきなのだろうか。
千夏さんはよく、わけのわからないことをするから、私は余計におそろしかった。今日のこの紙でできた鎖が、何を暗示しているのかさっぱりわからないし。以前は突然パンを焼きだしたかと思うと、キムチパン、というキムチを混ぜた斬新な料理にチャレンジするし、新しいファッションを編み出したの、と言えば、スカートの前丈と後ろ丈が違うという斬新な衣類を持ち出すし。そしてそのたびに私は実験台にされて、わけのわからないパンを食べさせられたり、今までにない衣類を着せられて街を歩かされたりした。千夏さんはおそろしく手先が器用で、そしてオリジナルが大好きだ。私は、マイペースでアイデンティティをしっかりと確立した千夏さんに、憧れてを抱いてはいるものの、その反面よく困らせられる。千夏さんは私の言葉を無視してせっせせっせと鎖をどんどん長くしていく。私は繰返して千夏さんに訊ねた。
「何それ? 何か行事ごとあったっけ」
そう言うと千夏さんの手先はピタリと止まった。
「何を言うの。明日は小町おばあちゃんの誕生日でしょ」
千夏さんはむっとした様子で言った。千夏さんは行事ごとなんかを大切にする主義だ。みんなの誕生日をきちんと覚えているし、初めての恋人と付き合い始めた日、母が家を出て行った日、おじさんの命日、そして私と千夏さんが一緒に暮らし始めた日まで、全てを覚えている。
私は、そうだったっけ、と思いつつも、そっか、とあたかも今思い出したかのように呟いた。千夏さんは少し満足したように笑った。
小町おばあちゃんは私の祖母で、そして千夏さんの母である。今年で九十一歳になる小町おばあちゃんは、この家の和室で暮らしている。八十五歳を過ぎた辺りから、認知症が酷くなり、最近では孫の私のことも娘の千夏さんや、母のことも忘れて、昔自分が経験したことばかりを、延々と果てしなく話す。まるで自分が、今その状況に置かれているように、だ。認知症になる前の小町おばあちゃんはよく、戦争のときに離れ離れになった恋人の話をしてくれた。
――とにかくお互い愛していたんだ。
おばあちゃんは、遠くを見つめるように、悲しむでも憤慨するでもなく、ただただ懐かしそうにそのことを、ゆっくりと述べてくれた。
――でも彼は男だったから、やがて戦場へかりだされることになった。
その世界は非情だった。誰もがばらばらになり、どんな願いも成就しなかった。少なくとも私にはそう見えた。でもおばあちゃんは、その時代をちっとも恨んでもいなさそうだった。過去がなければ芳子に会えなかった、とかつておばあちゃんは言っていた。
――私は引き止めるわけでもなかった。それが運命だったんだ。最初から決まっていた運命だ。彼とは一緒になれなかったのだ。
――悲しくは無いの?
――もう過去なのよ。それからおじいさんと結婚して……
千夏が生まれて、佳代が生まれて、そして芳子が生まれたのよ。おばあちゃんの話はいつもそこで終わってしまう。というのも、それから今に繋がっているのだから、話す必要が無いだけなのだけれども。時代とは循環なのだ。おばあちゃんと、千夏さんと、母と、そして私の名前が循環しているように。時代はどこかに託される。永遠の輪がそこにある。
近頃のおばあちゃんは、その話すらしなくなってしまった。私たちのことを、すっかり忘れてしまったからだ。おばあちゃんはよく、空襲を思い出しては、熱い熱い、とわめき始める。水をちょうだい、と泣きそうな声で言うのだった。おばあちゃんの記憶から私たちが消えてしまったとき、千夏さんは、今までに見たことが無いほど悲しそうな顔をした。だけど、それが自然状態なんだと、千夏さんはゆっくりと話した。
「じゃあいいかしら? 芳子もおばあちゃんを盛大にお祝いしてあげるために、私のお手伝いをしなさい」
のりで汚れた人差し指を立てて、千夏さんは提案する。はいはい、と私が適当に聞き流すと、お母さんに悪い子だって言うよ、と脅すのだった。大人はみんな自分勝手だ(前々からわかってたことなんだけれども。母も、千夏さんもみんなそうだから)。
「何をすればいいの?」
「そうね、とりあえず洗濯物を取り入れてきてちょうだい。あと、洗い物と……」
千夏さんは面倒な家事ばかりを私に押し付けた後、よろしくね、と愛想よく笑って、鎖作りに没頭するのだった。私は溜息を漏らした後、しぶしぶとベランダに向かう。私は千夏さんには逆らえない。居候させてもらっている以上、私は千夏さんに従うばかりなのだ(嫌なわけではないけれども)。
母は私を残して、どこかで仕事をしている。顔は殆ど覚えていない。何せ、もうかれこれ十年ほど会っていないのだ。もう私の母親は、千夏さんという方が相応しい。父が死んでから、家計を支えようと必死に働いた母の仕事先は、どうやら水商売らしかった。毎日家に知らない男の人を連れ込んでいた様子を、幼い頃の淡い記憶の中にくっきりと浮かばせることができる。母は大いに私を愛してくれていた。だからこそ、知らない男と連れ添っているところを見せたくなかったのか、私を自分の姉――私の伯母――にあたる千夏さんに預けてどこかに消えていった。連絡先は、千夏さんしか知らないし、あえて私も訊かない。訊いてはならないような気がするし、第一私は今の生活に十分満足している。自分勝手で不思議な人だけれども、明るくてはっきりした性格の千夏さんと、認知症のおばあちゃん。不思議な家庭関係ながらも、私にとっては素晴らしい家族なのである。
空はすっきりと晴れて暖かい。白いタオルにしみこんだ太陽のにおいと、繊維の柔らかさを皮膚に感じながら、私はどんどん洗濯物を取り込んでいった。
明日はおばあちゃんの誕生日、か。洗濯物を手にしながら、ふと亮が言っていたイカ社会説を思い出した。おばあちゃんが死ぬまでに、イカ社会は確立されるのだろうか。そう考えると、心の底に深い闇が生まれて、不安になる。イカに占領された醜い世界を、私は見ないで死んでしまいたい。
3
テストは、惨敗。
昨日の五月晴れが嘘のように、今日はバケツをひっくり返したような、地面をばしばしと叩きつける乱暴な雨が降った。窓の外を眺めながら、私は悲惨なテスト結果を目前に悲嘆する。うううーと唸っていると、亮がケラケラと笑った。
「お前、テストの結果やばいみたいだな」
余裕綽々と言う亮に少しむっとして、机に伏せていた目をぎっと上に向ける。亮は相変わらず温和なガキだった。
「そういうアンタはどうなわけ?」
「俺は相変わらず。英語とオーラル欠点だった」
「は? それってそんな余裕でいいわけ?」
「いいんだよ。欠点で何で焦るんだよ」
焦燥感をちっとも感じていない亮を、私はひたすらに不思議に思った。私は欠点こそは無かったものの、担当教師にこのままでは志望校は確実に無理だと言われた。志望校、と言っても、私はまだ高校一年生だから、既知の大学名を言っただけだ。だからその学校の賢さはいまいちわからないし、本当に行きたいかも定かではない。ただ、全面的に否定されてしまったのが悔しいだけだ。欠点ギリギリの数学の結果は本当に悲惨。
「あー、アンタもイカ社会とか考えてる暇あるんだったら勉強しなさいよ」
そう言うと、亮はまたガキっぽくむきになって、
「だーかーら、イカ社会は本当の話なんだって!」
と、素早く私に反論するのだった。あー、わかったわかった、と言いながら耳を塞ぐと、無音になった世界に孤独感を感じた。雨は相変わらず遠慮なく降り注ぎ、湿気に溢れた暗い空気が、更に私のテンションを下げていった。おばあちゃんの誕生日が、こんな日になるなんて嫌だなと思ったりもしたけれども、実質心から祝ったりする気は無いので天候なんてどうでもよかったのかもしれない。
私たちがなんだかんだ揉めているうちに、七恵ちゃんが現れた。七恵ちゃんは自分のことを可愛いと思っている(と思う)。いつも可愛らしい髪飾りで暗めのブラウンに染めた髪を柔らかに結っている。七恵ちゃんはにこりと笑って、私の肩に触れた。
「よっしーは何点だった?」
頭の悪い人はみんなそうだ。自分より点数の悪い人を探して優越感を求める。
「四百とちょっと」
私がそう言うと、一気に七恵ちゃんの表情は明るくなった。難しかったよね、とか、ほんと有り得ない、とか、意味のわからない言葉を残して去っていった。自分の定位置に。七恵ちゃんの定位置は三人グループだけど、他の二人が美人だから妙に彼女が劣って見える。勿論本人は気づいていないし、誰も忠告してあげない。
「俺まじ、行く大学ねえな」
陽気に走り去っていく七恵ちゃんを見送った後、さっきの暢気さはどこえやら、と深く沈んだ表情の亮がいた。そういえば亮は七恵ちゃんのことが嫌いだと言っていた。香水のにおいも、化粧も顔もファッションも、全てナンセンスなんだそうだ。
「私も担任に志望大無理って言われたから、さ」
膨れた幼児のように見えて、とっさに励ましてみるが、未だに亮の表情は暗いままだ。
「お前の志望大って要は名前の通った偉い大学だろ。俺は違うの。それなのにそこも無理だってさ」
担任はデリカシーを微塵も持ってないので、言いたいことをズバズバと、そして無意識に人を傷つけるような言い方で言ってくる。だからこそ単純な亮に響いたのだ。亮は悪いことがあると、過去にあった悪いことまで思い出して落ち込んでしまう、悪い癖がある。
「まあ、結局行ったって……」
そこで、言葉を濁した。――行ったて、どうせ人類は消えるんだよ、日本語は自然と絡まっていた。消えると、歴史の継承はすっかり無くなってしまう。私たちがここで、どのような文化と知識を編み出しながら生きたのか。それが消えてしまうのだ。勿論私という存在も。すっきりと消えてしまうのだ。こんなに無意味なことがあっていいものか。
4
赤いスイートピーの鼻歌は、少し千夏さんとの年代の差を感じさせた。甘いバニラエッセンスのにおいが部屋いっぱいに漂っている。さすが小町おばあちゃんの誕生日だけある。しかし私は千夏さんの上機嫌に作業を続ける指先を見て愕然とした。
「何、それ」
テーブルの上には、円形の何かがある。そしてその上にびっしりと、ショッキングピンクや、空色などの、鮮やかな色のボーダー柄のろうそくが敷き詰められていた。そのうち円形の物の表面には飾りきれなくなって、側面にもろうそくを突き刺している。
「見ればわかるでしょ。バースデーケーキよ」
「もうケーキの原型ないじゃん。もう少し、ろうそく減らそう」
私のその言葉に、千夏さんは眉を顰めた。
「芳子、誕生日はね、自分の歴史を一つ一つ丁寧に歩み戻って、きっちりと思い返す日なの。ろうそくはその歴史を数える上で重要なのよ。それなのに、もし十本しか立てなかったら、おばあちゃんは十歳の記憶までしかたどれないのよ。記憶は永遠に事実として残るけど、人間は忘れてしまうから、一年に一度は過去を振り返らないと駄目なの。わかった?」
長々と千夏さんの自己理論を聞かされた後、私は特にその内容を理解するでもなくうなずいた。わかればよろしい、と千夏さんはからかうようにして言った後、作業を続行させた。柔らかそうなスポンジケーキは、ズブズブとろうそくを飲み込んでいく。穴だらけのそれは、もはや食べ物では無い。ろうそくがメインになっている。
「私も何か手伝うけど」
そう言うと千夏さんは目をキラリと光らせた。
「じゃあ、これをあっちの壁に取り付けてちょうだい。あと、食器を並べて」
はーい、と素っ気ない返事をした後、昨日千夏さんが一生懸命作っていた紙の鎖を手にとって、千夏さんが指を指す方の壁に、それを押しピンでくっつけた。緩やかな弧を描いては元の高さに戻る、穏やかな波のような形に固定する。その後、食器だのをテーブルに並べているうちに、千夏さんのうまい話術に乗せられて、テーブルクロスをかけたり、グラスを磨いたり、皿にフライドチキンとサラダを盛り付けたり、いろいろした。結局は千夏さんよりも多く働いていることに後々気がつき、さっと千夏さんの方を見ると、相変わらず彼女はろうそくがびっしりと刺さったそれを見て、満足なのかうっとりとしていた。
おばあちゃんは和室で眠っている。認知症になる前よりも、遙かに睡眠時間が延びている気がするのは、気のせいでは無いらしい。私は和室の襖をそっと開けた。背後では嬉しそうに赤ワインを抱いている千夏さんがいる。おばあちゃんは布団の中で死んだように眠っていた。口元に耳を寄せると、わずかな寝息が、ふわりと聞こえた。私はおばあちゃんの肩を揺らす。以前よりも痩せたのか、それはずいぶん骨っぽかった。悲しいほど。
「起きて、おばあちゃん」
除湿機がうーうーと唸っている。この部屋には除湿機も加湿器も両方ある。夏は湿度を嫌い、冬は湿度を欲する。人間はみんな自分勝手なものばかり開発する。けれども、除湿機のおかげで、窓の外の豪雨をちっとも感じさせないほど、この部屋の空気はすっきりとしている。おばあちゃんは揺さぶられるままに体を動かし、そしてゆっくりと目を開ける。深い皺の刻まれた、くっきり二重の目は、いかにも重たげで、現実味が無かった。おばあちゃんの虚ろな眼は、私をしっかりと捕らえたけれども、まるで他人を見るような、軽蔑の視線であることがわかり、私はとても孤独だと思った。頭皮が見えるほど薄くなった、白髪だらけの細い髪を乱して、おばあちゃんは幽霊のように、ふわりと体を起こした。私は立ち上がることを手伝おうと、おばあちゃんの手を引いた。おばあちゃんは途轍もなく軽くて、持ち上げられそうなくらいだった。骨っぽい手首には、くっきりと青い血管が浮かんでいる。皮膚の質は、ざらざらしていてまとまりが無かった。
「あら、お母さんおはよう」
千夏さんはテーブルの中心にろうそくだらけのケーキを置き、そして周りにフライドチキンや、おばあちゃんの大好物のかぼちゃの煮つけ、きんぴらごぼうやポテトサラダ、煮豆や煮魚などが並んでいた。料理の量も膨大だが、それ以上に和洋折衷というか、統一感のないそれらの料理に驚いた。千夏さんは嬉しそうに笑って、座って座って、とおばあちゃんを急かす。おばあちゃんは、まるで他人の家にでもいるかのように、ゆっくりと床を歩いて、静かに椅子に腰を下ろした。煮物の温かなにおいがふんわりと漂う。私はおばあちゃんの向かいに、千夏さんはおばあちゃんの横に腰を下ろした。おばあちゃんが落ち着いたのを窺うと、千夏さんはにっこりと笑った。
「お母さん、九十一歳、お誕生日おめでとう」
たった二人で、盛大な拍手を演出する。千夏さんは、ケーキの表面に刺さったろうそくに、ライターからどんどん火を灯してゆき、私は電気をぱっと消した。大まかに火が灯ったころ、千夏さんはライターを手放して歌を歌った。私も千夏さんの後を追うようにして歌を歌う。ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデートゥーユー、ハッピバースデーディア、小町おばあちゃん、ハッピバースデーテゥーユー。まばらな拍手が起こり、暖かい光がやや揺れる。闇を吸い込むような、和やかなオレンジ色の光は、途轍もなく優しい。おばあちゃんは歌が終わってもろうそくの火を消さなかった。そういう習慣が無いのかもしれない。ただ、呆然と揺れる火を見つめていた。おばあちゃんの皺皺の顔が、影を濃くして闇にぼんやりと浮かんでいる。その目には、たしかに涙があった。認知症になってから、昔のことしか考えなくなってしまったおばあちゃんの虚ろな目に、久しぶりの感情が映った。おばあちゃんは、やがて皺皺の口をカクカクと、不器用に動かせながら言った。
「世界が、消える、火?」
おばあちゃんは、ろうそくの優しい光に惑っているらしい。おばあちゃんの知る火は、どれも世界を飲み込んでいくばかりの、残忍な火なのだ。
「違うよ」
私はすぐに否定した。
「世界は消えない」
なぜか、しっかりとした自信が、その言葉には宿っていた。おばあちゃんは天井を仰ぐように顔をそらせた。
「ああ、ああ、なんて優しいのかしら」
おばあちゃんはゆっくりと目を閉じた。そしてそのまま眠りに付いた。私たちはおばあちゃんが寝てしまった様子を窺い、ろうそくの火も消さずに、軽く縮こまってしまったおばあちゃんの体を、そっと和室へと運んだ。おばあちゃんはもう、それから二度と目を覚ますことは無かった。
葬儀の日は、運良くすっきりと晴れた。空は地球を汚した人間が嫌いなのだ。だから誰が死のうと、悲しんではくれない。
千夏さんはおばあちゃんが死んだ後、葬儀の準備などに追われてバタバタと忙しそうだった。だから私も一緒にバタバタしてあげた。そしたら千夏さんは、お互い大変ねえ、とのんびりと言った。けれど、結局私の母は姿を現さなかった。とりあえず、おばあちゃんの死は報告しておいたと、千夏さんは言っているけれども、私にとってはどうでもいいことだ。母の生き方に、私はどうのこうの干渉できる立場にはいない。
おばあちゃんは老衰だった。この世で一番幸せな死に方だと言われている。だから、おばあちゃんも幸せなのだろう。たとえ愛する人と一緒になれなかったとしても、おじいちゃんと結婚して、千夏さんを生んで、母を生んで、そして私が生まれた事実があれば幸せなのだろう。
「おーっす、久しぶり」
葬式のどたばたが終わった後、私はいつものように学校へ向かう。幸か不幸か、誰がいなくなろうと日常は必ずそこにある。亮はいつものように無邪気だし、でもそれなりに私に対しての配慮があった(不必要なのに)。
「休んだ分のノート見せて」
「あー、いいけど、俺ところどころ寝てたから書いてないところある」
「は? そんなんだから成績伸びないんでしょ」
「うっさい。俺はこれでいいんだよ。やりたいことばっかりして生きていくんだから」
けらけらと亮は笑っている。私の周りには、マイペースな人間が多い。私はとりあえず、ノートを七恵ちゃんに借りた。七恵ちゃんのノートは、カラフルな色使いでまとめられているんだけれども、今時の女の子の字の典型で、とても読みにくくて苦労した。七恵ちゃんは、透き通った水色や、白や、小さな花形のビーズなどが付いた、爽やかなヘアゴムで、暗めのブラウンの髪を一つにまとめていた。私がヘアゴムを指差して、
「それ可愛いね」
と、言うと、七恵ちゃんは嬉しそうに笑った。
「彼氏からのプレゼントなの」
七恵ちゃんは端的にそう述べた後、私が借りていたノートを持って、定位置に戻っていった。彼女が少し、劣って見えるいつものグループの中に。