繋がり
1
鶴ヶ丘を過ぎて、ゆっくりと電車は進んでいく。各駅停車はやはり快速よりも混雑していなくて、人が溢れ返っていた天王寺が嘘のようだった。長居に到着したのは、それから数分後。雨はすっかり上がってしまっていて、薄い灰色の空の下に、濡れたアスファルトの深い藍色がよく生えていた。湿気をたっぷりと含んだ空気が、通り過ぎていく電車によって起こった風に乗って、駅の中に流れ込んでくる。長居の駅は最近綺麗に工事したばかりで、まだあらゆるところが清潔で、鮮やかだ。そんな駅を出て徒歩三分。外装はすっかりくたびれてしまったマンションが姿を現す。五階建てで、茶色い塗装が目印。部屋数は極めて少ない。優希はここの三階に住んでいる。すっかり慣れてしまった階段を駆け上がり、私は優希のいる部屋のインターホンを鳴らした。ドアの向こうで、ワン、と犬が一鳴きした後で、黒いドアはゆっくりと開いた。ノブの部分も、錆が目立つ。
「あ、朝美ちゃん」
ぼさぼさ頭の優希は、灰色のパーカーと黒いジャージを見に付けて出迎えてくれた。玄関には健康サンダルが一足置かれているだけで、他には何も無い。部屋の奥は案の定無法地帯だった。私は溜息を吐いた。柴犬のハルが一匹、尻尾も振らずに部屋の隅に座って、私を見つめている。
「部屋の掃除くらい、いい加減自分でせなあかんで」
私が低いトーンの声音で言うと、優希はぼさぼさ頭をぼりぼりと掻きながら、
「まあそうなんやけど。いろいろ俺も忙しいねん」
と、言った。地面にはA4サイズのコピー用紙がどっと散らばっていて、その他にも無造作に過ぎ捨てられた衣類、カップラーメンの殻の容器、いつのだかわからない新聞紙、その他様々なものが床を覆いつくして見えなくしていた。私は足元に散らばるそれらをできるだけ抱え込んで、部屋の隅に構えた空っぽのラックの中に流し込んだ。どさどさ、と物がぶつかり合う音に、隅っこで座っていたハルは驚いて、優希のもとに擦り寄っていく。私は動物になつかれやすく、大抵の犬や猫は私をちっとも警戒しないで擦り寄ってくる。しかし、ハルは別だった。飼い主である優希以外になつかず、ちっとも尻尾を振ってくれない。もうかれこれ数年、ここに通いつめているというのに。何度もラックに荷物を流し込んでいるうちに、ある程度自分の座れるスペースを確保する事ができた。卓袱台の上で画面を光らせているノートパソコンの前は、常に優希が座っているようなので、自然と空間ができている。
「最近仕事の方はどうなん?」
私は散らばったコピー用紙を摘み上げて文章に目を通す。一度印刷された文章には、赤いボールペンで死ぬほどたくさんの修正が施されてる。どうやら、うまくはいっていないらしい。
「スランプやわ。もともとこんな仕事無理やったのに、編集者が勝手に頼むから」
優希は過去に、ノンフィクション小説を書いて某雑誌社の賞に、気まぐれに応募したところ入賞し、それ以来小説やエッセイや、そっち方面で仕事を承っている。仕事は極めて忙しいらしく、殆ど部屋に閉じこもりっきりになってしまっている。ここまでくると、引きこもりの末期状態かもしれない。
「今何書いているん?」
「小説やで。雑誌で連載しているやつ」
「雨物?」
「それや。もう話はちっとも浮かばへん」
あー、と優希は大きく伸びをした後、またパソコンの電子的な光を放つ画面とにらめっこしている。雨物、というのは優希が某雑誌で連載している小説だ。連載、といっても雨に関する物語を短編小説で数個紹介するだけで、内容的にはちっとも繋がりはない。正式名称は、雨の日の物語。なんとも単純な題名だけれども、複雑にするのを嫌う優希が考えそうなものだった。私は優希の汚い部屋の中を物色し、新たに本が増えていないかと探す。自分で買うにはお金がかさばってしまうので、ここに来たときに読むのが一番手っ取り早いのだ。コピー用紙を払い除けていると、黒くて分厚い本が見付かった。俺と妹、とダサいタイトルが名づけられたその本は、作家、宮本優希の原点となった本だ。私と、優希との間で営まれてきた波乱万丈の人生が、ありありと綴られている。もともとは父と母と私と優希で、幸せな家庭が作られていたこと。私が小学校六年生、優希が中学校三年生のとき、両親が不慮の事故で死んでしまったこと。身内を失った私たちは、伯母の家に引き取られたこと。伯母はものすごくさばさばしていて大胆で、いままでに無いくらい自分の道を歩くような人だったこと。私が東京に行ってしまったこと。一人で生きていくこと――。普通ではない人生を送ってきた私と兄、そして兄の心情がこと細かく記されたこの本は、審査員にひどく気に入られて、そして日本中にその波は広がっていった。ただ、デビュー作が必要以上によくできていたせいで、後の作品へのプレッシャーがすごいらしい。兄いわく。
「ここから話が一切展開せえへんねんな。朝美ちゃんも考えてよ」
優希は口を尖らせながら言った。私はプロちゃうから無理やわ、と簡潔に断った後、使われていない錆びれたキッチンに入った。冷蔵庫の中は案の定空っぽで、私は近くのコンビニにでも出かけようかと思う。普段優希は一切料理をせず、インスタントのものばかりを口にしている。だからせめて、私がここに来たときくらいは、手料理を作ってやりたいのだ。東京の私に、忙しいながらも毎月仕送りをくれる兄のためにも。
2
東京に着くと、四分の不安と、六分の安心感が生まれた。私はもう、大阪府民ではないし、まだ、東京都民でもないことがわかった。翌日、私は大阪から朝一の新幹線に乗って東京に戻った。人がざらざらと流れるようにして歩いていくところは、天王寺と同じようでどこか違った。家は都内にあるワンルームのアパート。一人暮らしには適した広さで、私は白や黒の落ち着いた色の家具ばかりを、形式的に並べている。ベッドと、机と、時計。それだけあれば、充分に生活のできる部屋になるのだ。
「朝美、おっそーい」
渋谷のカラオケボックスの前で、七恵は頬を膨らませていた。白く、体のラインがくっきりわかるほど薄いワンピースとデニムのジャンパーを着ている。少なくとも、背の低い七重には似合わないと思った。隣に居るベリーショートの圭は、青いラインのパーカーに迷彩柄のパンツがよく似合っている。
「ごめんな、今日朝一で返ってきたばっかしやから」
「またお兄さんのところ?」
圭は落ち着いた様子で言った。耳元には金色の小さなピアスが光っている。私は頷いた。
「ブラコンだねえ、朝美」
私は苦笑いした。ブラコン。確かにそうかもしれない。私は優希のことばかりを常に思っている。彼が過労で倒れていないか、彼が栄養失調で体調を崩していないか、彼がスランプのあまりに自殺を図っていないか。でもそれは、過酷な家庭に育ってきた人間であるから当たり前のことなのである。幸せな生活を身の回りに備え付けている七恵には、多分永久に理解できることではない。私たちはぞろぞろとカラオケボックスの中に入り、軽い手続きを済ませた後、店員によって小さな部屋に案内された。金髪が悪趣味な若い男の店員は、私たちに言い寄ってきたけれども、七恵以外はみんなシカトしていた。七恵はメールアドレスを交換していた。私たちはそれぞれ自分中心に歌を歌った。最初は三人でふざけたアニメソングを大合唱して、その後は自分の歌う曲を選曲することで精一杯になっていた。
何度もトイレに発っては排尿し、そしてまたジュースを飲んでは歌を歌った。七恵は今流行の女性シンガーの曲をほとんど制覇していた。甲高い声を持った七恵には丁度いい曲だ。圭は私の知らない洋楽ばかりを歌っていた、というのも圭は幼い頃アメリカで暮らしていたらしい。私は私で、自分の好きな歌手の曲ばかりを、集中的に歌っていた。 私たちは学校で、いつもこの三人で行動している。
ときたま真子とか、別の人が加わるときもあるけれども、大抵がこの三人だ。仲のいい理由はよくわからない。明確に言えば、仲がいいのかどうかもよくわからない。何となく結合して、何となく交流している。だから性格も好も三人全員ばらばらだ。今はまだ、高校に入学したてだから、みんなは結構自分勝手に生きている。一人にさえならなければそれでいいのだ。自分の場所を探す期間の人間は、私を含めてみんな醜い。
「あー、もうちょっとで考査だあ」
カラオケボックスを出た後、すっかり暗くなってしまった空をぼんやりと見上げながら、三人でぶらぶらと歩いて駅に向かった。七恵は自分でそう言ったのに、自分自身が落ち込む結果となった。高校に入って初めての考査だ。欠点だけは採らないように、そろそろ勉強を始めなければならないと思う。
「圭はもう勉強し始めてるん?」
この中では一番正当であろう圭に、私は訊ねた。圭は金色のピアスのついた耳を指で触りながら、
「していないよ。ていうか、する気無いし」
と、答えた。圭は英語さえ得点を採られれば充分だと言う。英語は自分のプライドだ、とも。もう既に春だというのに、今日はどこか肌寒い。それなのに東京の街は人で溢れかえっているし、活気付いていた。駅に着くまでの間に、二度ほど若い男に声を掛けられた。七恵はその度にメールアドレスを交換していた。私にも執拗に言い寄ってくる人もいたけれども、圭が強く睨むと男はたじろいでどこかに言ってしまった。圭は綺麗な顔立ちをしているけれど、ベリーショートとそしてくっきりとしたつり目が怖い印象を与えるようだ。
「朝美も髪の毛切っちゃえば、言い寄られなくなるよ」
圭は得意気にそう言った。私はへらへらと笑っておいたけれども、実際あんなに髪を切る予定は無く、肩辺りまで伸びたセミロングヘアが一番気軽で便利だと思う。
その後、私たちは駅で別れた。私一人別の電車に乗るために。改札をくぐった後、バイバイ、と大きく手を振る七恵と、くっきりとしたつり目をくしゃりとほころばせて笑う圭に、私も小さく手を振った。二人の姿が見えなくなった後、私はしばしば安堵の吐息が零れた。そのとき、ふとハルの姿が頭に浮かんだ。私にちっともなつかない、柴犬のハルのことを。人々はどんどん電車の中に飲み込まれていった。私もその中に紛れて、人が密集した小さな箱の一部となる。
3
「あー、マジでありえない」
七恵はうなだれながら、マスカラをきっちりと塗った瞳を閉じて、薄っぺらい藁半紙に悲嘆していた。私はそれなりの点数が並んだ答案を眺めながら、自分なりに納得してみせる。圭は数学Iが欠点ギリギリだったらしく、
「あっぶねー」
と、言いながら呑気に笑っていた。英語はピリオド抜けのせいで満点を逃し、九十九点だったそうだ。七恵は化学が一桁だったらしい。確かに“マジでありえない”。
一番テストの点数が悲惨だったらしい七恵なのに、立ち直りは随分と早く、「テストのウサ晴らしに買い物に行こう」と、言うのだった。今日のねらい目は109で、自分好みの服を探すらしい。七恵にはやけに気に入っている雑誌モデルがいて、きっとその人の着ている服の真似をするための洋服を探すのだろう。背の高いモデルだからこそ似合う、ワンピースやトップスを。私と圭は七恵に振り回されながらも、自分が欲しいものはしっかり買った。私は二十パーセントオフで販売されていた、真っ白なパンプスを。圭はリング型のシンプルなピアスを購入していた。七恵はやはり、雑誌モデルの着ている服などを片っ端から買いあさっていた。七恵のバイト代は、八割型この無駄な行為に費やされているのだろう。茶髪を緩くウェーブさせているショップの店員のお姉さんは、背の低い七恵にそれらを勧めたりはしなかったが、引き止めもしなかった。
その後私たちは夜の街をぶらぶらと歩きまわり、世間話や愚痴などをぺちゃくちゃと話しながら街を歩いた。街のネオンは随分と明るく、空には星があまり見えない。駅前の書店で、圭は本を買いたいと言うので、みんなでぞろぞろとそこへ寄った。表に出された雑誌のコーナーには、たくさんの立ち読み客がいる。私と七恵はそこへ寄り、圭の帰りを待った。七恵はお気に入りのモデルが、専属でモデルをしている雑誌を手にして、ぱらぱらと衣服の研究を始めた。時々、「あ、これ可愛い」とか、「この着方はいいな」とか、適当なことを言っている。私は様々な雑誌をぐるりと見渡した。雑誌の棚の隅の方で、兄の名前を見つけた。優希が、小説を連載している雑誌だった。それを手にしてぱらりと中を覗くと、雨の日の物語、という題名の小説が掲載されていた。小さな字で、つらつらと記載されている。第八話、と称されたその話には、一人の女の子の動きが、こまごまと表現されている。ただし、その話は特にこれといった意味も無いものばかりを書いた話で、何も感じられるものが無かった。とにかく、スランプを絵に描いたような作品だった。私は苦笑いしながら、優希の苦労をしみじみと感じ取ってその雑誌を棚にしまっておいた。
「何買ったの?」
紙袋を片手に店から出てくる圭に訊ねると、
「音楽雑誌」
と、答えた。私は笑う。七恵は相変わらず雑誌に没頭している。そろそろ帰るよ、と言うと、七恵は肩をびくりとさせて、こっちへとやって来た。
4
両親は二人の結婚記念日の日、神戸にドライブへ行った帰りに、飲酒運転のダンプカーと衝突して死んだ。まだ生活力の無い私たちは、伯母によって手配された葬式の席でひたすら憎んだ。ダンプカーの運転手を。そして残酷すぎる運命を。骨になってしまった二人の姿を目の当たりにしたとき、生まれて初めて、死という抽象的なものの輪郭を掴んだ気がした。
伯母はそれから私たちが立ち直るまで、何度も
「仕方がないわよ」
と、言った。
「運命は誰にも覆せないんだから」
と。
伯母が死ぬ数ヶ月前に、優希の小説は賞をもらった。そのときの賞金と、優希の将来が約束されたことに、伯母はおおいに喜んでくれた。きっと伯母は、自分の死を悟っていたのだろう。伯母はとあるスナックのママをしていた。巧みな話口と、そして何より美しい容姿がサラリーマンにうけていた。夜はいつも酒浸りだった。伯母自身は酒に強いので、顔を赤らめたり理性を失ったりは滅多にしなかったが、伯母の肝臓は、知らず知らずのうちに悲鳴をあげた。肝臓ガンだった。ガンを発見して三ヵ月後、ガン細胞の全身転移によって、必死の治療も甲斐なく伯母は死んだ。私たちはろくに伯母の死に悲嘆することもなく、“運命”というものをかたくなに信じた。優希は小説を書き続け、私は優希の扶養となって大阪を飛び出した。
「なんかあかんわ」
兄は朝一で私に電話をかけてきた。まだ辺りは暗いし、しん、と蛍光灯のうなり声しか聞こえない。私は目を擦った。受話器の向こうで、優希は随分慌てているようだった。
「ハルが下痢すんねん。苦しそうに鳴いてるし、まだ病院も開いてへん……」
「で、何で私に訊くん?」
「や、別に何も意味はないんやけど」
兄は慌てながら言った。「私も犬飼うたこと無いからわからんよ。だから悪いけど、どうもしてあげられへん」
「せやけど、ハルがやばいねん。こっち来られへん?」
優希は慌てふためきながらも、少し控えめに言った。私は眉間に皺をよせる。今は朝早い時間帯な上、大阪まで行くとなれば新幹線で三時間かかる。今日は学校だし不可能だ。
「物理的に無理やん。今日平日やで」
優希は家の中で生活しているから、曜日の感覚が狂っているのかもしれない。
「……うん、そうやな」
優希はがっかりした様子で呟いた。私に重い罪悪感がのし掛かる。
「わかったよ。行けばええんやろ」
私が溜め息混じりにそう言うと、優希は一気に食いついた。
「ほんまに? 助かるわあ。やっぱりええ妹がおるっちゅうんはええことやな」
ハイハイ、と私は軽く流しながら電話を切り、蛍光灯の音だけが広がる空間を取り返した。とにかく新幹線に乗る準備をしなくては、と思い、身支度をした。学校には新幹線の中で、欠席の電話を入れよう。一日で大阪と東京を往復するのは少し窮屈だが、仕方がない。私はまだ黒々と存在感を示す空があるうちに家を飛び出した。
部屋に入った瞬間臭気に思わず鼻を覆った。相当重症なのだろうか……不安に思いながらも部屋の奥を覗きこむと、そこにはいつもどおりに卓袱台の前でキーボードを叩く、ボサボサ頭の兄と、私に懐いてくれない特殊な犬がいるだけだった。
「おお、朝美ちゃんやん。結構早かったな」
優希はあっけらかんと言ってのけた。私は眉を顰める。
「ハルは?」
「ああ、もう治ってもうた。なんかよおわからんけど、一時的なもんやったらしいわ」
優希は至って暢気だった。
私は全身から力が抜け、へなへなと床に座り込んだ。
この前ラックに書類を片付けたばかりなのに、もう足下は酷く散らかって床が見えない。そして、ハルが床を汚したときに使ったであろうティッシュなんかもあった。臭気の原因はこれか、と呆れつつもそれらをゴミ袋につめて、ファブリーズを部屋一体にふりかけた。爽やかなにおいが、周期を奪っていく。ハルは一度くしゃみをした。私はくしゃみをしたハルの頭を撫でてみる。小さな頭蓋骨が私の手のひらにフィットした。つやつやで真っ直ぐな、黄土色の毛の感触がした。でもハルはちっとも嬉しそうな顔をしない。優希はそんな光景を見て笑った。
「平日に私を呼び出しといて、えらい暢気やな」
私は皮肉を込めていったのに、
「せや、俺また連載決まってんで。今回の長編は完璧や」
優希は相変わらずマイペースで、ちっとも私の言葉に応えなかった。得意げに言う優希のパソコン画面を覗き込もうとすると、彼は両手でそこを覆い隠した。
「雑誌に載るまで、企業秘密」
5
教室内は他人の声が入り乱れて雑然としている。私たちはプリクラの交換に精を出していた。真子がちょうだいと言ったのだ。各々小さな缶を引き連れて、七恵の机に集まった。真子は相変わらず派手なメイクでそこにいる。留実も引き連れて。私は留実のことはあまり好きではない、というか苦手なのだ。自分のことを過小評価し過ぎている。可愛くないと思いこみすぎているのだ。それは単に、可愛くなろうとしていないから可愛くないのであって、事実はどうかわからない。私は七恵のプリクラの缶をあさった。一枚のプリクラが、私の指を止めた。
「七恵、これって」
「ん?」
動揺しているのは私だけで、七恵を含む全員、他人のプリクラを選び続けていた。
「カラオケボックスのあの人やんな?」
私の手にしたプリクラには、以前私と七恵と圭の三人で渋谷のカラオケボックスに行ったときの店員だった若い男性と、七恵が濃厚なキスをかわしているところが映っていた。私は思わず息を止めた。
「うん、そう」
七恵は相変わらず他人ごとのようだ。真子だけが妙に食いついた。
「えー、七恵彼氏いるのー? いいなー」
真子が甘えたように言うので、私は困った。
勿論、私が言われているわけではないんだけれども。七恵は笑いながらも、プリクラ選抜の作業を続ける。七恵は私のプリクラの缶の中を探っている。大阪にいたとき、ユニバーサルスタジオジャパンに行ったときに買った、スヌーピーの絵がプリントされた小さな缶だ。もともとは小さな飴が入った缶だった。七恵はあるプリクラを見つけて手を止めた。
「この朝美、すごい可愛い」
七恵が指を指す先には、顔全体をしわくちゃにさせて笑っている私の顔があった。もともと細い目は、笑って更に潰れてしまっている。遠慮気味に私は笑った。有難う、と形式的に呟いた後で。顔やばいね、そう言ってもらう方が、幾分気は楽な気がする。
本を買いたい、と圭は言った。圭は音楽をやっている。子供の頃からピアノやヴァイオリンなどの、音楽的な才能を開花させていた圭は、何故かこの学校のしょぼい軽音部に入ってヴォーカル兼ギターをやっている。私にはさっぱり理解できないけれども、圭は楽しそうだった。そんな圭はこれ以上の上達を目指しているらしく、練習を欠かさない。音楽雑誌は重読している。今日は以前買ったのとは別の雑誌の発売日らしい。私はオーラルの時間に先生が板書した内容をノートにせっせと写しながら、七恵はじゃがりこを唇の先で咥えながら、いいよ、と承諾した。圭はベリーショートの前髪を人差し指に巻きつけながら、くっきりと大きな目をゆっくりと細めて、有難う、と言った。圭がここまで髪が短く無かったら、たいそう男子にもてていただろう、と思う。短くても充分、その美貌はくっきりはっきりと浮かんでいる。
私たちはおのおのがやりたいことを済ますと街へ出た。相変わらず騒がしく、活気付いた街だ。大阪とはどこか違って、私の中ではまだまだ不安とも安心とも呼べない、不明確な気分がどよどよと存在している。それは仕方の無いことなのだ。私は永久に、東京人にはなれないのだから。前にも寄った本屋には、会社帰りのスーツの中年男性がわんさかと溢れかえっている。小さな雑誌の空間に、これでもかというくらい押し込まれている。私と圭はその中にもぐりこんだ。七恵は少女漫画のコーナーに直行した。人で囲いのできた空間は蒸し暑く、みんな自分中心だ。圭は自分が欲しかった音楽雑誌を必死で探し、しかし目に止まった、自分の気を引く雑誌に全て目を通した。そのせいか、もう既に、圭の手には、目的外の雑誌が二冊ほど抱えられている。そして私は、兄の名前の載った雑誌を発見した。企業秘密。優希はいつかそう言っていた。私は気になって、迷い無くその雑誌を手に取った。優希の小説が記載されているページを真っ先に探す。
「あ」
私は思わず声に出して呟いた。“女子高生とその毎日”という、単純明快なタイトルが目に入る。主人公の女子高生には、形式的な友達はいるのに、本質的には近づけていないという、淡白で現実味を帯びた話だった。私はゆったりと笑う。優希の書いた細やかな表現の中にはスランプなんかちっとも感じなかった。その代わりに女子高生が生きていた。大阪から東京に進出した、兄思いの女子高生が。
6
「今から帰るわ。うん、うん。何か欲しいもんある?あるんやったら今のうちやでー」
「あー、甘いもん食べたいわ。菓子パンとか、とにかくうまいもんがええなあ」
「わかった。天王寺の駅ん中にあるパン屋でええ?あそこの星型のチョコパンめっちゃうまいんやで」
「そうなん? じゃあそれがええわ。ついでに、ドッグフードも買うといて」
そう言って電話を切った。新幹線は、間も無くやってくるだろう。私はこの電車に乗って、新大阪で下車する。片道約三時間。私はとりあえず、学校で出された課題をこなすことで時間を消そうと思う。今日はすっきりと晴れた空が心地いい土曜日だ。土日を利用して旅行にでも行くのか、大きな鞄を引き連れた家族連れをちらほら見かけた。後は出張か何かの任務を任されたサラリーマンで埋められている。――新幹線を降りたら。私はそう考える。とりあえず、天王寺まで電車で向かおう。天王寺に着いたら、改札を一旦潜って、駅の近くに大型のホームセンターがあるから、そこでドッグフードを買おう。それからまた駅内に戻って、パン屋さんで星型のチョコレートパンを購入しよう。
優希は電話で〆切が迫ってきてテンテコマイだ、と私に告げた。だから家事を手伝いに来てくれ、と。私は、何それ、と嫌そうな返事をしながらも、内心断るつもりはさっぱり無かった。なんせ、“兄思いの女子高生”なのだから。
やがてホームは騒がしくなった。新幹線がホームに入ってくるらしい。私はアナウンスの言うとおり、白線の内側に体をしまった。家族連れの子供が、「しんかんせーん」と、騒いでいる。無邪気な笑顔で顔をいっぱいにして。そのとき、私のポケットの中で、携帯電話が激しく揺れた。優希だ。
「そうそう、今日は食品買出ししといたから安心してやー」
「何それ。忙しいんちゃうの?」
「忙しいけど、それくらいせんとあかんやろ」
「また何で?」
「俺かて妹思いの兄やねん」
何やそれ、そう言った後くつくつと笑い、電話が切れた。妹思いの兄なら、わざわざ東京から妹を急に呼び出したりしないだろうに。でも、大切に思ってくれているところは、間違いなく妹思いなのだろう。電車はホームに到着した。ドアは空気音と共に開け放たれる。中には少しの人が座っていた。おおよその人が、直角の椅子に背中を痛めているのか、随分と姿勢を崩して眠っていた。
私は思う。長居に着いたら、三分間歩こう。茶色い塗装が目印の、マンションを目指して。そして三階へ向かう。そこには優希の部屋がある。相変わらず部屋にはA4サイズのコピー用紙が散らばっているのだろう。とりあえずそれをラックの中に押し込めて、自分の座れるスペースを確保しよう。その後は、優希が事前に買って来てくれた食材を使って、調理をしよう。人間の食べ物ができた後は、天王寺のホームセンターで購入したドッグフードをハルに与えよう。ハルは相変わらず、私にちっとも懐いてはくれないのだろう。お尻の先に付いたかわいらしい尻尾は、ちっとも動く事は無く、部屋の隅で私を見つめているのだろう。