雪涙
「ママ、大好きだよ」
膝の上に座った娘のまあるい目が、愛おしい。思わずやわらかな頬に手を伸ばしかける。が、それを決して許さぬ禁忌が、彼女に届く前にこの指先を凍らせた。
「ママもよ」そう、伝えられたら、どれだけ幸せだろう? たった一言でいいのだ。自分の命を削り育てた愛娘にこの想いの欠片を残せたら……。しかし、声にならぬ想いはただ、白く立ち昇ると息となって、凍えた大気に彼女の小さな吐息と重なって消えるのみだ。
不思議そうにこちらを見上げる娘は、少しだけ身を震わせて、私の胸に顔をうずめた。仄かな丸みのある髪の匂いに、悲しみが痛みとなって胸を突き上げる。
私は彼女にかからぬようにそっと息を吐き、想いを逃がすように周囲を見回した。
薄暗い洞窟だ。熊が冬眠に利用していたものらしい。獣の匂いがする。岩がむき出しで、少々痛いが二人が身を隠すには十分な広さだった。外に通じる穴にはつららが何本か垂れ下がり、その向こうは猛烈な吹雪が横殴りになっている。
山が、怒っているのだ。山の怒りはそのまま侵入者への結界となる。いや、結界となっていた……という方が正しいか。
私は吹雪の向こうにちらちらと見える赤い光を見つけ、唇を強く噛んだ。
昔、この世には、生あるものの中で唯一邪な魂を持つ生き物、人間を決して寄せ付けぬ聖域が当たり前にあった。山にも、海にも、空にも。侵入試みる人間は拒まれ、あるいは命を奪われた。結界が、十分にその役割を果たしていたのだ。しかし、昨今は……。
「ママっ!」
娘が私に一層しがみつき、怯えた声を上げた。目を凝らすと、あの忌々しい赤い光はさらにその数を増やし、いくつかはその大きさを膨らませていた。
抱き寄せられぬ代わりに目を合わせ「大丈夫」とその場しのぎの言葉を漏らす。と、娘のもみじ色に滲んだ頬が白く染まった。私の心臓はぎくりとはね、慌てて彼女に頬をあてる。
「ママのほっぺ、冷たいね」
無邪気な声に「ごめんね」と、今度は彼女に息がかからぬように呟いた。
吹雪のごうごうという耳鳴りのような音の向こうから、奴らが歩く不気味な音が近づいてきた。こんな、こんな場所まで……。
「心は決まったか」
不意に背後の闇の向こうからよく知る声がして、私は項垂れる。髪がひと束、肩を伝って落ちた。娘が何事かと問いかける瞳を向けるが、私は答えられない。
「長様……私は……」
「このままでは、この山の皆が全滅してしまうぞ」
「わかっています!」
私は声を上げると、娘をそっと肩で押しやり、背中に隠すようにして長に向き直った。幼いこの子と背丈はさほど変わらぬが、老人の顔をし、その耳は肩に架かるほどある長は、こめかみまでつり上がった目をそっと開け、私を睨みつけた。額にある三の目がまだ閉じていていることを確認し、私は手をつく。
「人間どもはこの子を取り返しに来たのじゃ。あいつらがあの、金属の鬼を作り出して以降、結界も役目をなさん。どんな方法をとってでも、里を守らぬといけぬのじゃ」
「わかっております」
耳障りな金音が、すぐ傍まで来ていた。人なら入れぬ領域。そこに人の手先として送り込まれるようになったのが、あの赤い金属の鬼たちだ。奴らは土くれからできてるために、結界は機能しない。そう、今、山が怒り、拒もうとしているのは奴らではなく……この子なのだ。
「ママ?」
長が私の傍らを通り抜け、娘の目の前に立つ。娘はきょとんとして、長を見つめる。長は、十を十分に数えられる間沈黙していたが、私を慮るように溜息をついた。
「どの道、無理なのじゃ。この子を抱くどころか、母親としての想いを伝えてやることすらもできぬ。雪女の、お前ではな」
ぐっと唇を噛みしめた。そんな事は、百も承知だった。
雪女の手はすべてを凍らせ、雪女の愛は伝えた途端に雪女自身の身を溶かす。でも、だからといって、雪女に情がないわけでは、決してないのだ。
「お前が、身を削ってまで陽の元でこの子の母親代わりを務めた気持ちはわかる。山の裾野に捨てられていたのを見た時、里のものみな、あまりの愛くるしさに、この子が人というのを忘れたほどじゃったからな。しかし、人の子は人じゃ。返してやりなさい。それでなくば……」
背筋に氷が滑り落ちる心地がして、振り返る。額にぱっくりと開いた緋色の瞳が、こちらを見つめていた。
「お前と同じ、わしの力でこの子を雪女にするか、じゃ。さすれば永遠に共に暮らせよう。じゃが、お前にそれができるか? 雪女の定めを、この子にも背負わすことができるのか?」
定め……誰も愛せない、誰にも触れる事が叶わない、雪女の……。
「ママ」
小さな小さな手が、私の袖を引く。私をママと呼ぶあどけない声、私を見つめるつぶらな瞳、私を求めて伸ばされるけなげな手。過ごした時間はほんのわずかだった。でも、でも、この何百年の冷たく暗い悠久の時より、この子と過ごした時の方がどれほど、どれほど私の胸を温めてくれたことか……。
「覚悟を、決めました。明朝には山の怒りは治まるでしょう」
「まことじゃな?」
私は小さく頷いた。すっと三の目が閉じられる。
「あいわかった。ただし、約束が違える時は、お前もろともその子も皆で喰うことになるぞ」
「かまいません」
もう一度頷く。長老はその返事に満足したように、目を細め、再び闇に溶けるように消えた。
朝日が白銀の世界を照らしていた。キラキラと無数に輝く氷の粒のまばゆさに、私は目を細める。
「雪乃! 休憩は5分だけだぞ!」
雪山探査隊の相棒の猛の声に、私は上がっていくマシンのハッチの隙間から「了解!」と答えた。上がりきるのを待てず、私は身を潜り込ませるようにして外に出る。勢いをつけて飛び降りると、ブーツの底にやわらかな新雪の感触が跳ね返ってきた。
頬に当たる風が痛い。でも、私はこの感覚が嫌いじゃなかった。いや、たまらなく好きなのだ。
空を見上げると、宇宙まで続く青い空。この世に不思議なことなど無くなったと思われる科学の世にも、不思議はやっぱり存在する。
「雪乃、ここに来たことあるんだっけ」
猛がいつの間にか傍に立っていた。私は山の空気を確かめるように胸いっぱいに吸い込み、その匂いを嗅ぐ。
やっと見つけた。きっと、ここだ。
私は首を横に振り、眼前に聳え立つ雪を所々に頂いた岩山を見上げた。
「初めて。でも、ミッションの説明時にここの写真を見たときから、すごく懐かしい気がしたの。私ね、小さい時に雪山で迷子になったのに、三ヶ月後に元気な姿で見つけられた事があったらしくって、ここじゃないかと思ってたのよ」
「らしいって。っていうか、無理じゃないか? 子どもが雪山で生き残るって。たぶん、三か月どころか……」
「数時間も持たないよね」
風が雪原を駆け抜けた。真っ白な雪が舞い上がり、薄衣のようだ。目をそっと閉じる。耳を澄ませる。ごうごうと空の高い場所で風が鳴っている。
絶対、私が見つかったのはこの山だ。この音を知っている。この匂いを知っている。この……
「愛してる。雪乃」
え?
私は耳に届いた声に驚き、目を開けた。思わず猛の顔を見る。いや、猛じゃない。今のは女性の声。そうだこれは遠い昔に、聞いた……。
心が震えた。その時だ。風が、裾野から吹き上げ雪煙りが私を包んだ。懐かしい匂いが、声が、そして……。
頬に誰かの手が触れた。
そうだ、この声を聞いた時、私は確かに誰かに抱かれていた。凍えるように冷たいのに、どこまでも優しい誰かに。
「雪乃? どうした?」
「え?」
猛が気まずそうに私の頬を指さす。そっと触れると濡れていた。
「……猛、この山の調査はよそう」
「は?」
「私たちが入るべきじゃない。そう思うの。上には私が報告するから」
私は猛の不服そうな視線を無視して、マシンによじ登った。ハッチを下げ、電源を入れる。中央についているランプが灯り、白い雪の上に無粋な赤い刻印を落とす。
私は、もう一度だけ、山を見上げた。
そしてそっと微笑むと小さく呟いたのだった。どうか、山をかける風に乗って雪と一緒にこの声が届けられる事を心から祈って。
「ママ、大好きだよ」
と。
※原稿用紙10枚分『雪女』『ロボット』というくくりで挑戦した作品です。
短編は久々でしたが、楽しかったです。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。