『あれどこ?』『そこです』の会話がなくなって、王子が自分の部屋で遭難しています
「フィー、爪切りどこ?」
「右のチェストの中です」
夫の第一王子レタクス様との会話は一日の半分がこれで構成されている。
私――フィーは長年の婚約期間を経て、つい先日レタクス王子と結婚して晴れて王子妃フィーとなった。
夫は眉目秀麗、文武両道、国民からの人気も高い王子様。
そんな彼には致命的な欠点がある。
――彼は『片付けられない症候群』なのだ。
幼少期に遊んだ積み木から壊れた懐中時計に至るまで、あらゆるものを捨てられない。
「これはいつか使うかもしれない」
彼はそんな呪文を唱えながら物を私室に溜め込む。
結果、王子の部屋は増築を重ねて隣の客間や倉庫を次々と呑み込み、今や王城のワンフロアすべてが『レタクス王子の私室』という名の巨大迷宮と化した。
その魔窟の中で、どこに何があるかを完全に把握している人間は世界にただ一人。
私しかいないのである。
婚約者時代から、私は彼の部屋にある物の場所を記憶していった。
彼が「あれ?」と首を傾げれば、私が「そこ」と即答する。
私が管理することで、彼の「とっておく癖」が奇跡的に役に立ち、外交問題を解決したことすらある。
だからこそ、彼も私に感謝しているのだと信じていた。
◇
新婚生活も落ち着き始めた晴れた日。
いつものように書類の山から彼が探していた報告書を掘り出して渡した時のこと。
「書類どこ? ……ああ、ありがとう」
レタクス様は報告書を受け取るとふぅと息を吐き、何気ない様子で言ったのだ。
「でもフィーはいいよな。部屋の物の場所を覚えるだけで感謝されるんだから」
……はい?
私は自分の耳を疑った。今、この男は何と言った?
私の硬直など露知らず、彼は手元の書類に目を落としながら続ける。
「俺なんて外交問題で頭が痛いよ。その『片付け』、暇なメイドにでも引き継いでおいてくれない? 君も、もっと建設的なことに時間を使った方がいい」
プツン。
私の頭の中で何かが千切れる音がした。
暇なメイドに引き継ぐ?
この魔窟の管理を?
年代、ジャンル、そして「レタクス様のその時の気分」という複雑怪奇な三次元マトリクスで構成されたこの配置を、誰にでもできる単純作業だと?
カチンときた、なんて生易しいものではない。
「誰にでもできるんですって? じゃあやってみなさいよ!」
「なんだ急に大声を出して」
「上等です。ご自身の部屋くらいご自身で管理できると仰るのですね?」
「まあ、自分の物くらい把握できるさ! 俺はこの国の王子だぞ?」
ふふんと鼻を鳴らす彼を見て、私は決めた。
絶対に手出ししない!
「分かりました。では本日よりお部屋の管理はレタクス様にお任せいたします。私は一切、口も手も出しません」
「ああ、構わないよ。見ていてくれ」
こうして私と王子の「口を利かない日」が始まったのである。
◇
異変は、その日の夜からすぐに現れた。
「……あれ? フィー、俺の寝間着を知らないか?」
「…………」
「フィー?」
私は優雅に紅茶を飲みながら口を出さない。
彼はしばらく部屋の奥を彷徨っていたが、結局サイズの合わない幼少期の寝間着を引っ張り出して着ていた。
翌朝。
彼は右足に赤い靴下、左足に青い靴下を履いて執務室へ向かった。
侍従たちがギョッとした顔をしていたが私は何も言わない。
――だって暇な私には関係のないことですから。
そして三日後。
ついに恐れていた事態が発生した。
隣国との通商条約に関する最重要機密書類が行方不明になったのだ。
朝から王子の部屋からは怒号と何かが雪崩れる音が響き渡っている。
「ない! 昨日は確かにこの机の上……いや、椅子の上の古雑誌の下に……!」
顔面蒼白で走り回るレタクス様。
ついにはあまりに見つからないため、数十人の側近たちによる「捜索隊」が結成されるという前代未聞の事態に発展した。
「失礼いたします! 捜索を開始します!」
騎士団長までもが動員され、完全武装で部屋へ突入していく。
しかし、レタクス様の部屋はただ散らかっているだけではない。
「隊長! この山の下から、五年前のお菓子の箱が出てきました!」
「触るな! それは記念の箱だ!」
「こちらからは見たこともない形状の壺が!」
「それは怪しい行商人から買った『幸せを呼ぶ壺』だ。位置を動かすな、運気が逃げる!」
「殿下! 捜索の邪魔です!」
阿鼻叫喚。
地獄絵図とはこのことだろう。
そんな中、捜索隊長が泣きそうな顔で私の元へやってきた。
「妃殿下、なんとか書類のありかを教えて下さい。条約の調印式に間に合わなくなります……!」
深々と頭を下げる隊長には同情する。
けれど。
「君は触るな!」
王子が遠くで言うのだもの――。
「ごめんなさいね。『君は触るな』とも言われましたので。王子のご命令通り、私は一切お部屋に干渉いたしません」
「そんな……」
にっこりと微笑みで返すと、隊長は絶望した顔で迷宮へと戻っていった。
◇ ◇
そして、事態は最終局面を迎える。
私は、国王陛下──つまり義理のお父様に呼び出された。
サロンに呼び出されると、そこには疲れ切った顔の陛下がいた。
「フィーよ……うちの馬鹿息子が本当に申し訳ない」
開口一番、一国の王が嫁に頭を下げた。
「陛下、頭をお上げください」
「国のためだと思って……あのゴミ屋敷……いや、王子の部屋から書類を救出してやってくれんか。この通りだ」
王様ですら「ゴミ屋敷」と認めてしまった。
そこまで言われては仕方がない。
それに、これ以上放置して国益を損なっては私の生活にも関わる。
「陛下のお言葉とあれば、否とは言えませんが……王子ご本人の意思も尊重したいと思いまして」
私がチラリと視線を向けると、陛下の後ろに控えていたレタクス様がよろよろと前に出てきた。
数日間の遭難生活(自室)でやつれ果てている。
彼は私の前まで来ると、見事な土下座を披露した。
「フィー……! すまなかった!」
「何がでしょう?」
「あの言葉を撤回する! 『誰にでもできる』なんてとんでもない間違いだった!」
彼は床に額を擦り付けんばかりの勢いで叫ぶ。
「あの部屋は君がいて初めて成立していたんだ……! 君にしかできない神業だったんだ!」
「暇な人間に引き継がなくてよろしいのですか?」
「君じゃなきゃダメなんだ! だから頼む、助けてくれ!」
なりふり構わないその姿に、私はため息をついた。
――これだけ反省しているなら許してあげてもいいだろう。
我ながらチョロいとは思うけれど、このダメなところも含めて私は彼のことが嫌いではないのだ。
「……しかたないですねぇ!」
私は立ち上がると、彼の手を引いて歩き出した。
向かう先は、王子の部屋。
扉を開けると、そこには捜索隊の騎士たちが疲労困憊で倒れ込んでいた。
書類の山はさらに崩れ、もはや災害現場である。
「妃殿下……!」
「無理です……。もうどこにも……」
絶望に沈む彼らを尻目に、私は迷うことなく部屋の奥へと進む。
数日前、彼が「雰囲気あるから」と言って持ち込んだ古びた地図の束。
その下に敷かれていた一枚の紙をスッと引き抜いた。
「はい、これですね」
所要時間、わずか三秒。
その場にいた全員が、時が止まったように静まり返った。
そして次の瞬間。
「あった! あったぞーー!」
「妃殿下万歳! フィー様万歳!!」
騎士たちが、メイドたちが、そしてレタクス様が、涙を流して私を称える。
……まるで神の奇跡でも見たかのような崇められようだ。
こうして、王子の遭難事件は幕を閉じたのであった。
◇ ◇ ◇
その後、レタクス様はどうなったか。
何度か「今日こそは片付ける!」と意気込んで掃除を始めたものの、「あ、これは何かに使えるかも」と三十分で挫折する。
結局、私が記憶しておかなければいけない現状は変わっていない。
けれど、王子との関係は劇的に変わった。
物をとっておくとき、彼は必ず私のご機嫌伺いをするようになったのだ。
「フィー、これ……」
今日もまた執務から戻った彼が、キラキラした瞳で何かを差し出してきた。
見れば、どこかの遺跡から出土したような錆びた剣の柄だ。どう見てもガラクタである。
「いつか使うと思うんだが……どうだろう?」
子犬のように許可を求めてくる王子。
尻尾が見える。ブンブンと振られている尻尾が確実に見える。
私は即答する。
「いりません」
「……はい」
シュン、と耳が垂れる。
「ですが、そちらの指輪は素敵ですね。あそこの飾り棚の一番奥なら置いてもいいですよ」
「本当かい!?」
「ええ。ただし、転がしておいたら捨てますからね」
「ありがとう! 大好きだ、フィー!」
パァッと顔を輝かせて、彼は大事そうに飾り棚へと運んでいく。
まったく、世話の焼く夫である。
それから、彼は机に向かい、書類仕事を始めた。
しばらくして、彼はふと顔を上げる。
「フィー、この書類はここに置いていいかい?」
「だめです。それは先月の議事録の裏紙ですね? いりません。破棄してください」
「はい……。でも、君は俺のそばに置いておいていいよね?」
――まったく、この人ときたら。
「……仕方ないですね。遭難されては困りますから」
「ははっ、ありがとう」
照れ隠しにそう答えると、彼は嬉しそうに笑った。
今日も王国は平和だ。




