第七話 夫婦の相性
「たあぁぁぁっ!」
「わあぁぁぁっ!」
黒龍の屋敷の中庭に、秋葉と白銀の声が轟く。白玉砂利の敷かれた雅な庭だったものは、二人によって無惨に荒らされていた。
「だりゃあぁぁっ!」
「とおおぉぉぉっ!」
その様子を狐宵と瑞雪が縁側から眺めていた。前者は顔面蒼白で、後者はひどくおかしそうに。
「朝っぱらから、なんの騒ぎだ?」
憂夜が大きな欠伸をしながら歩いてくる。夜や闇を司る黒龍は朝に弱く、着流しをだらしなく纏って、寝惚け眼でふらふらとしていた。
「朝の鍛錬だそーでっす」と、箒を片手にした瑞雪が答える。彼女は掃除を怠けて二人の見物に来ていたのだった。
「鍛錬だぁ~!?」
憂夜はパチリと目を開けて、まじまじと二人の様子を眺めた。なにやら、ぴょんぴょんと跳ね回っているだけに見えるのだが。
「秋葉様はまだ寅の刻のうちに鍛錬を始めまして、途中からシロも参加した次第です」
「ほぅ……」憂夜はまたもや大欠伸。「早朝からよくやるねぇ~」
「私はすっごく面白いと思います!」
瑞雪が楽しそうに爛々と瞳を輝かせる。
「龍神の花嫁が、品のない……」
対して狐宵は、苦々しそうな顔で眺めながら小さく呟いた。
「あーっ、もしかして、狐宵さんは奥様のことが嫌いなんですかぁ~?」
彼の言葉を聞き逃さなかった瑞雪は、物怖じせずにずけずけと尋ねた。
「霊力のない人間がここで暮らすのは厳しいと思います」
「えーっ! そこが面白いんですって!」
彼女はニヤリと笑いながら、興奮する気持ちを表すように箒を上げ下げしながら言った。
「霊力がないのに龍神の花嫁になるなんて、物凄い胆力と根性ですよ。ありゃあ大物になりますわ~」
「おっ、瑞雪もそう思うか」
憂夜の口の端が自然と吊り上がる。
「はいっ! 憂夜様は女を見る目ありますねぇ~」
「はっはっは! そうかそうか。――よし瑞雪、あとで小遣いをやるから下界で好きな甘味を食ってこい」
「やったー! あざざまっす!」
瑞雪は甘いものに目がなかった。雪女の彼女は、特に真冬の雪原を思わせるかき氷が大好物で、暑い夏に下界まで食べに行っていた。
己の妖術でも氷を出せるのだが、人間が削る氷のほうがふわふわで美味しいらしい。
盛り上がる二人を横目に、狐宵は不安げに黒龍の花嫁を見つめていた。
初めて会ったときから、彼女からは霊気の気配を全く読み取れない。脆弱すぎる。彼女が再び霊力が戻るとは、にわかには信じられなかった。
対する白龍の花嫁は、千年に一人の霊力を持つという。
二人の花嫁の均衡が著しく崩れると、この世の光と闇の平衡も決壊してしまう可能性があるのだ。
それに――……。
「狐宵さんは優しいですねぇ~」
狐宵が現実に引き戻されてはっと顔を上げると、瑞雪がニッと笑顔を向けていた。
「なにがですか?」
彼は済まし顔で知らんぷりを決め込む。
「またまたぁ〜〜〜」
彼女はニヨニヨと薄ら笑いを浮かべながら、肘で彼をつついた。
「私は、憂夜様のご負担を危惧しているのです。僅かの不安要素も退けておきたいのです。主をお守りするのは、私の使命ですから」
ほんのり顔を赤くして早口でまくし立てる狐宵に、憂夜と瑞雪はケラケラと声を出して笑った。
「あっ! 憂夜ーっ! おはよう!」
「黒龍様、おはよう〜」
憂夜の姿に気付いた秋葉が、白銀を肩に乗せて駆け寄って来る。二人はもうすっかり打ち解けたようだ。
「おはよう、二人とも。朝から頑張ってるな」
「まあねー」
「あのね、昨日ここに来てから、身体の調子がすっごく良いの! なんか、肉体の芯から生命力が溢れてくる感じ? 四ツ折にいた頃より調子がいいみたい」
「そりゃ良かった。秋葉とこの土地は相性が良いみてぇだな」
「うん!」
生きとし生けるものの全てには『生命力』や『気』というものが宿っている。
それには木・水・火・風・水……などの様々な属性が複雑に絡み合って、互いに影響し合っているのだ。
ここは黒龍の気で満ちていて、それは秋葉にとって心地良いものだった。
「この調子で頑張れと言いてぇところだが……」
憂夜は途中で口を噤んで、ぐるりと中庭を見渡した。
美しく整えられていた砂利は乱され、石造りの灯籠は物理攻撃を受けたのか上部が手水鉢の中に落下していた。
「あっ……」
結構な惨状に気付いて、固まる秋葉。
「明日からは、もっと広い場所でやろうな。シロ、あとで道場を案内してやれ」
「はぁ~い!」
「ご、ごめんなさーい!」
◆
「わたし、お魚は嫌いって言ったわよね?」
「で……ですが、白龍様のご加護のある河川で穫れた魚は、奥様の霊力を上げる自然の気が多く含まれており――」
「早く下げなさいよ! 不愉快よ!」
「きゃっ!」
ガッシャーン、とけたたましい音が鳴り響く。春菜が勢いよく投げた皿が割れたのだ。
恐怖で崩れ落ちてしくしくと涙を流す女中に、春菜は容赦なく追い打ちを掛ける。
「不快な気分だわ……。あなた、もう二度とわたしの前に現れないでね?」
冷酷な言葉がその女中に浴びせられ、彼女から表情が抜け落ちた。女主人の前に二度と姿を現せないということは、この屋敷から立ち去らなければならない。
それは『神の世界からの追放』という意味なのだ。栄誉ある白龍の臣下からの脱落。もう、この世界ではもう生きていけない。
神の居場所から離れ、妖か、人間界に身を潜めないといけない。
「おっ……奥様……」
女中はふらふらと立ち上がったかと思ったら、
「きゃっ!」
突如春菜に飛び付いて、泣き喚きながら縋り付いた。
「どうか……どうかお慈悲を!」
彼女の掴んだ両腕が、春菜の二の腕をきつく絞っていく。
「どうか、どうかお許しください……!」
「痛いっ……! 離しなさい! ――誰か!!」
「春菜様!」
次の瞬間、紫流が駆け付けて、すぐさま女中を引き剥がした。
龍族の彼は、光河の最側近で、屋敷の家令も務めていた。
色白で線が細くどこか儚げな主とは正反対で、武闘派でやや浅黒い肌の彼は、黒髪の短髪と桔梗色の瞳が雄々しかった。
「お怪我はございませんか!? ――おい、この者を捕らえよ!」
彼の命令で、たちまち女中は扉の外へ引きずられていく。彼女はそのあいだも、必死の形相で女主人に許しを請うていた。
「あの者に何かされたのですか?」
遅れてやって来た別の女中たちに乱れた着物を直されながら、春菜は不貞腐れたように口を尖らす。
「あの子、わたしが嫌いな魚を出したのよ。しかも二日連続で」
「……」
そんなことでこのような騒ぎを起こしたのかと、彼は半ば呆れた様相で女主人を見た。
神の世界からの追放は非常に重い。それは当人は勿論、一族の名誉にも関わるのだ。それこそ一生の。
それを、こんな簡単に。下らない理由で。
百歩譲って、食物の過敏症を狙って暗殺を企てたのならば追放も止む無しだが、児戯のようなただの好き嫌いとは……。
「あの者に他意はなかったのでしょう。光河様のご加護の鮮魚は、特別な意味合いがございますから」
「聞こえなかったの? 龍神の花嫁のわたしが嫌いって言ったの。こんな侮辱、不愉快極まりないわ」
春菜の鋭い視線が、紫流に向けられる。それは脅迫の意味合いがこもっていた。
「申し訳ございませんでした。私の不手際です」
心の隅に浮かんだ疑問を押し殺して、彼は深々と頭を垂れる。理由はともあれ、白龍の最側近である己が責任を取らないといけないと思った。
「酷いわ。わたしが人間だから、意地悪をしているのね」
すると春菜は、さっきとは打って変わってぽろぽろと涙を流しはじめた。
人形のような大きな瞳から溢れ出る涙はとても儚げで、彼には不思議と罪悪感が生じてくる。
「い、いえ……我々は、そのようなことは……」
「何をしているんだい?」
その時、騒ぎを聞きつけた白龍――光河がゆったりとした足取りで部屋に入ってきた。
いつも瞳は閉じている中でも穏やかな表情をしている彼だが、微かに眉間に皺が寄っているのを紫流は見逃さなかった。
「光河様っ!」
涙で顔を濡らしている春菜が立ち上がって、夫にひしと抱きつく。彼は優しく抱きしめて、心配そうに可愛い妻の頭を撫でた。
「どうしたんだい、春菜? 何かあったのか?」
「みなさん酷いんです……」
春菜の涙が再び溢れ出す。
「わたしが人間だからって、嫌がらせをしてくるんです。嫌いな食べ物を毎日出してきて、味も全く付いてなくてまともに食べられないし……」
「なっ……!」
女主人の出鱈目な発言に、紫流の顔がかっと気色ばんだ。
「先ほどは、味のことなどは言っていなかったではありませんか!?」
「だってぇ……。紫流様の剣幕が恐ろしくて言い出せなかったんです……」
「なんだって……!?」
「紫流」
光河の威圧するような声音が、殺気立った従者を咎めた。
「はっ」
目に見えない威圧に、頭を下げる。
「春菜は人間界から来て間もない。不慣れなことのほうが多いだろう。だから、君が率先して妻を助けてくれないかな?」
「……御意」
これは白龍の神の力なのか、精神的なものなのか。紫流の全身の筋肉が強張って、夫妻が部屋を去るまで一分も動けなかった。
主から怒りの気配を感じるのは滅多にないことで、ぴりりとした張り詰めた空気が喉元を締められる感覚だった。
(それにしても……)
数拍して、やっとまともに呼吸できた紫流は、首を傾げて思案した。
主の花嫁に、言葉にし難い妙な違和感を覚えるのだ。
たしか、元は姉のほうと契約していたという。だが、事故によって姉妹の霊力が反転したらしい。
双子の反転は珍しくはない。陰と陽の力は、微妙な均衡を保っているからだ。ゆえに、なんらかの外部からの作用でそれが崩されることもある。
それは、白龍と黒龍にも当てはまるのだ。
(花嫁の反転が、光河様に悪い影響を及ぼさないと良いが……)
春菜からは嫌な『気』が漂っている感覚がある。
はじめは彼女の刺々しい性格から感じるものかと思ったが、なにかがおかしい。黒龍の闇の神力とも異なる、異様な気配がある気がする。
大体、神の居場所に来て神の加護の食物を口にできないこと自体が不可解だ。
夫婦は一心同体。少しのずれもあってはならないのだ。
実際に、人間が神の世界に足を踏み入れたばかりの頃は霊気が安定しないのだが、生命力の源である神の食物を拒否するとは。
(悪い予感がする……)
本来なら主と同様に誠心誠意仕えないといけない花嫁だ。だがしかし、彼女に深入りしては危険なのではと、彼は嫌な予感が拭えなかった。
◆
「ああっ、もうっ! 腹立つわ!」
自室に一人になるなり、春菜は怒りに任せて光河から贈られた熊のぬいぐるみを思い切り床に叩き付けた。
皇都で流行っているという異国のぬいぐるみだ。しかも花嫁のための特注品で、瞳の宝石だけで庶民が数年は楽に暮らせるほどの高価なものだった。
白龍に嫁入りして、屋敷の者たちから盛大な歓迎を受けた。
人間の自分に、上位の種族の者たちが頭を下げるのは大層愉快だった。
白龍の屋敷は四ツ折の家など比べ物にならないくらいに豪華で、散りばめた金箔や見事な漆塗り、豪華な調度品。幼い春菜が夢見た『お姫様』みたいな場所だった。
それは以前皇族との婚約の際に、渋々向かった皇家の屋敷よりもずっと素晴らしかった。
春菜を迎える準備も完璧で、滅多にお目にかかれない虹色に光る白い反物や異国の長衣、純金の簪や煌めく真珠――彼女が欲しいものは全て揃っていた。
なのに。
この腹の底からふつふつと湧き上がる憤怒は、なぜ今も無限に広がっていくのだろう。
まだ怒りが収まらずに、熊の頭を踏んづける。ぐりぐりと力を込めると、頭が潰れていって少しだけ溜飲が下がった。
弱い者をいじめるのは大好きだ。
ただでさえ底辺にいて無抵抗な者を、奈落の底まで突き落とすのは単純に楽しい。愉快だし、面白い。
嫁入りの日も、無様な姉を絶望のどん底のどん底のどん底のさらに奈落の奥底に堕とすのを楽しみにしていたのに。
何年も、何年も。
「……なのに、黒龍の花嫁ですって? あの無能女が!」
頭の変形した熊のぬいぐるみが、勢いよく壁に激突した。
姉のことは子供の頃から大嫌いだった。
千年に一人かなんだか知らないが、自分より強い霊力を持って生まれてきて。両親の期待を一身に背負って。
おまけに龍神様と契約ですって?
こっちの相手は、取るに足りない人間の皇族なのに、なんで姉は神様の花嫁になれるの?
霊力以外はなんの取り柄もない、不細工で地味で品がなくて頭の悪い女なのに。
あんな女が、自分より上位にいることが許せなかった。
小さな悋気は年月とともにどんどん膨れ上がって、姉への憎悪で常に心が掻き乱されていた。
春菜の欲望は膨れ上がるばかりで、収まることを知らなかった。
「あの女がのうのうと幸せに生きるなんて、絶対にありえないわ」
姉の幸福は自分の不幸だ。なので、なにがなんでも姉には不幸に堕ちていかなければならない。
幸いにも、今も姉は霊力が空っぽだ。
もし黒龍の神力で霊力を取り戻すような事態が起こったら、面倒なことになるかもしれない。
――その前に、叩き潰す。
(……ま、あの女からは全部奪ったから、霊力回復なんてあり得ないけどね……)
秋葉も神の世界に入って日が浅い。今なら黒龍に邪魔されずに……殺すことができるはず…………。
春菜は大量の真っ白な紙を用意して式神を作った。それに己の霊気を込めて、羽ばたかせる。
(それにしても、黒龍様もイイ男だったわ。……彼も手元に置きたいわね)
春菜の口元がにやりと歪んでいく。己のこの力なら、それが可能なはずだ。
現に、白龍に対しては上手くいっている。
「二人の龍神を手に入れるのが楽しみだわ」




